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第10話 ③母親と妹、そして元婚約者

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 バチーンッ!

 リンクスがマリアンの頬を平手打ちした乾いた音が響いた。
 何事にも常に冷静に対応していた――そして、母の言いなりの男と見くびっていた父親の母への平手打ちを目の当たりにしたアデリーナは、驚きと畏怖いふで目を見開き、口に両手を当てたまま固まっている。

「なっ! なにするのよっ!」

 マリアンが張られた頬に手を当ててリンクスをにらんだ。

「マリアン! 君は自分が何を言っているのか分かっているのか! 君の言っている事は、貴族の殺害を指すのだぞ?」
「わ、分かっているわよっ! でも元平民でしょう。爵位だって私達の方が上なのよ?」

「母上、お爺様は国に多大な貢献をなされた偉大なお方です。それに爵位が上なのはお父上だけです」

 クリスがマリアンを諭すように話しかける。

「くっ! それでもよっ! アデリーナの――可愛い娘の為なのよ? 説得くらいしてくれるでしょ?」
「エミリアも私の可愛い娘だっ!!」

 マリアンがリンクスにすがるように頼んでも、返答は奇しくもグランツと同じ口調だった。

「クリス? クリス、あなたはこのお母様に賛同してくれるわよね?」
「……僕にとってもエミリアは可愛い妹だよ。あの子がアデリーナにそのような事をするはずないと信じている」
「お兄様ぁ! 私よりもアイツを取るの?」
「そういう問題じゃない! それに、アデリーナは甘やかされ過ぎたようだな。道を外れ過ぎてしまっている……」
「クリスの言う通りだ。アデリーナはマリアンに似てしまったようだ……」


 その夜、リンクスはアデリーナを王立学園から退学させる事、マリアンと共に義父母が隠居し、質素な暮らしが待つ領地へ送ることを決めた。

「嫌よっ! 学園に残らないと! 私の面子はどうなるのよ~。とんだ笑い者だわ!」
「そうよ! なんで私とアデリーナが、あんな寂れた所に行かなくてはならないの?」
「君達がここにとどまる方がレロヘス家の恥だ。私とクリスとて、どのような好奇の目にさらされるか……」

 マリアンもアデリーナも項垂うなだれるが、アデリーナは婚約者の事を思い浮かべた。

「そうだわ! 私は婚約しているのよ? 伯爵家のヤミル様との婚約はどうするつもりなの?」


 ◆◆◆翌日、クルーガー伯爵邸


 クルーガー家の歴史は古く、現王家が国を興す以前から小姓・従騎士・騎士として一貫して仕えていた人物に端を発し、連綿と歴史が連なる武家の家系である。
 その歴史の中で、小さな荘園を得たところから、今では王都に程近い地方に領地をたまわるまで、武勲を重ねてきた名門だ。
 かつては騎士団長も輩出し、今でも騎士団組織の中枢を担っている。

 エミリアは、“今回の”婚約が決まってから、休日には王都のクルーガー邸や領地に通い、ヤミルを含めクルーガー家の人間との親交を深めた。
 彼女は、グランツ・オロロージオの開発した『騎士の籠手や手鎧しゅがいに組み込まれた時計』の維持管理を手伝い、ヤミルの父であるクルーガー伯爵はエミリアに非常に感謝している。
 また、ヤミルの母親や弟妹ていまいとも親しく、関係は非常に良好であった。

 そのクルーガー家の王都屋敷に、当主夫妻をはじめ、ヤミルとその弟妹も集まっていた。

「ヤミル」
「はい、父上」
「貴様は何故、今日ここに一家が揃っているか理解しているか?」

 ヤミルの父は騎士団の副団長で、職務上毎日屋敷に戻る事は無い。母親も才覚のある人間で、領地経営を家令まかせにせず、当主に代わりヤミルの妹を連れて頻繁に領地へ足を運んでいるので、王都屋敷で一家全員が揃う事は珍しい。

「いいえ。何かございましたでしょうか」

 クルーガー伯爵は、ヤミルと同じアンバーの瞳で、彼をじっと見つめ続けるが、当人には心当たりがないようだ。

「はぁー……。今日、私の元にこの様な物が届いた」

 伯爵は溜息を洩らすとともに、懐から書状を取り出した。
 エミリアとアデリーナの父、リンクスからの書状だった。

「書状? どなたからで?」
「レロヘス子爵だ。エミリア嬢の父君だ」

 ヤミルの目がわずかに泳ぐ。
 その様子を伯爵は捉えたが、敢えて触れずに淡々と書状の内容を読み上げる。

「書状には、子爵のもう一人の娘のアデリーナ嬢が、家人に虚偽の被害告訴の上、エミリア嬢をレロヘス家から放逐せしめた――」
「――虚偽っ?」

 口を挟まれた形の伯爵がヤミルをキッと睨むが、ヤミルの目がさっきよりも大きく泳いでいる。

「エミリア嬢をレロヘス家から放逐せしめた事が発覚したので、家人とアデリーナ嬢を領地にて無期限に謹慎させる事になったとある」
「き、謹慎……無期限……」

 『謹慎』とは、自宅から外へ出る事を禁じる罰である。自宅内で家族や使用人に会ったり話をしたりは自由だが、外出や来客と会う事は許されない。
 期限を定めたり、王都屋敷内と言う選択もあり得る中で、王都から離れた“領地”で、しかも“無期限”という事が、レロヘス子爵の怒りの大きさを物語っている。

「ヤミル。貴様は“これを”知っていたか?」
「これ? ですか?」
「アデリーナ嬢がエミリア嬢に関して虚偽の被害をでっち上げた事だ!」

 ここまで淡々とした口調であった伯爵の、語気を強めた物言いに、ヤミルは体を硬直させた。

「いいえ! 存じませんっ!」
「ほう? ……書状には続きがある。『よって、クルーガー伯爵には申し訳ありませんが』貴様とアデリーナ嬢との婚約を取り消させて頂きたい。とあった」

 ヤミルは露骨に目を泳がせながら、一歩後ずさった。

「貴様の婚約相手はエミリア嬢のはず……」

 伯爵は夫人を見るが、夫人も驚いた様子だ。

「あなた、ヤミルの婚約者はエミリアさんよ? 本当にそのような事が書いてあるの?」
「ああ、だから気になって調べたんだ」

「ちっ! 父上! これは……あの……その……」

 ヤミルは大きな身振り手振りで、何とかその場を取り繕おうとするが、言葉が続かない。

「黙って聞いていろ! 調べさせたら……ヤミルは一昨日のアデリーナ嬢のパーティーで――大勢の貴族令息がいる前で、エミリア嬢との婚約破棄とアデリーナ嬢との婚約を言ってのけおったらしい」
「まぁっ!」

 夫人は驚きのあまり目を見開き、よろめいてヤミルの弟に支えられた。

「いや、ち、父上! それ……あの……それは……」

 不穏な空気を察したヤミルの弟が、妹も手元に呼び入れ、夫人と妹を優しく包む。

「ち、父上。これには――」

 バンッ! ドガッ!

 鍛えられた伯爵の硬い拳がヤミルの顔面を捉え、ヤミルは飛ばされ壁に背を打ちつけた。

「かはっ」
「ヤミル……。貴様はクルーガーの当主か?」
「い、いいえ」

「貴様に婚約に関する権限はあるのか?」
「い、いいえ」
「ではなぜ、エミリア嬢との婚約を破棄するなどと言った」

 ヤミルは答えられない。
 彼は、婚約以来エミリアが自分とも家族とも親しくし、両親や弟妹とも信頼関係を築き、特に父はレロヘス家と、というよりもオロロージオ家との縁が出来る事を喜んでいた。

 エミリアはいい娘だ。だが、エミリアの一つ下の妹・アデリーナは、同じ学園に通っている事もあり、ヤミルにべったりとしてきた。

 将来の義妹だと思って接していたが、そのうちに自分に触れてくるアデリーナの手、腕に纏わりついてきた時に圧しつけられる胸、上目づかいで見てくるヒスイ色の潤んだ瞳、緩くウェーブのかかった髪が時折張りつくぷるんとした唇、全てを愛おしく感じるようになってしまった。

 (いけない、いけない)と思えば思うほど彼女に魅入られてしまい、遂には彼女の言う事が全て真実だと疑わなくなってしまっていたのだ。

 今度は伯爵の平手がヤミルの頬をバチンと弾く。

「なぜエミリア嬢との婚約を勝手に破棄したのだ!」
「そうです! 兄上はどうしてっ! エミリアお義姉様はお優しかったのに!」
「うるさい! お前は口を挟むなっ!」

 弟を怒鳴ったヤミルにもう一発平手が見舞われた。

 ヤミルは父に対して申し開きはできない。
 パーティーでの婚約破棄宣言も、アデリーナとその母親の言葉を鵜呑みにし、見てもいない嫌がらせを信じた。
 いや、真実にしたかったのだろう。そうすれば、アデリーナの手、胸、瞳、唇が自分のモノになると考えたのだ。
 そして一人の貴族令嬢を家から追放するという暴挙に加担した。
 これは言い逃れのできない事実だ。

「とにかく、レロヘス家とオロロージオ家に謝罪せねば。今日中に訪ねてもいいか使者を立てろ」

 伯爵が、両家への謝罪の手筈を執事に手配し始める。
 伯爵家当主が子爵家や男爵家に謝罪する、それもこちらから出向いて謝罪するという。
 父にそのような事をさせるという事は、どれほどの事なのかヤミルにも理解できた。

「申し訳ありません……申し訳ありません」

 ヤミルは自分の愚かさに、ただただ謝罪の言葉を絞り出すのみだった。

「ヤミル。貴様には蔵での蟄居ちっきょを命じる。私の許しがあるまで何年でも蟄居せよ」

 ヤミルは領地の館にある、かつて地位の高い捕虜を収容していた蔵――牢よりも過ごしやすいが、外部とは接触できない構造をしている――への実質幽閉が決まった。
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