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第1章 Departure for the Fantastic World
第15話 妖精の国(2)
しおりを挟む「ああ、そいつはドウパーマンっていう奴らだよ。妖精の分類に入ってるんだけど、生き物っていうよりも精霊寄りかな」
正体不明の謎生物に挨拶をされて数分後、気が動転したのか、気が付いたらハルの〝蟻塚〟に飛び込みソファーに座らされていた。私が飛び込んできたとき、梯子に登って壁の本棚の整理をしていたハルも、作業を中断してテーブルをはさんで向かい合って座っている。
ふと我に返ると、さっきまでの年甲斐もなく慌ててしまったことで顔が熱くなる。大声で訳の分からないことを叫びながら部屋の中に倒れ込む……まるで子供だ。
そう後悔していると、ハルと私の目の前に、湯気の立つカップが置かれた。
色は茶色で、甘い香りがする。多分、ココア。用意してくれたのはもちろん、ハルと共にここで暮らしている少女ソフィだ。
ココアを置くとすぐに、ソフィはわたしから離れてハルの後ろへと回る。
「ありがと。ソフィちゃん」
「! ……どういたしまして」
ビクリと身体が跳ね、蚊の鳴くような声でそう言ったのが聞こえた。頭に付いた耳はピンと立っている。まだ警戒されているようだ。
「ありがと。ソフィはもう奥に行ってていいから」
「は、はい」
ハルのその言葉を聞くや否や、ペコリと頭を下げてソフィは後ろの扉の向こうに消えていった。それでも律義に私にもお辞儀をしているんだから、やっぱりあの娘はいい子だ。
「ごめんな。まだ慣れてないみたいで」
「ううん、気にしないで。私こそごめんね。寝坊しちゃったし、勝手に入ってきちゃったし」
「いいよ。昨日あれだけのことがあれば疲れるのだって当たり前だし。ちょうどやりたかったこともあったし」
「そう言ってくれるとありがたいな……あ、話戻していい?」
寝坊の件は免罪符をもらったことだし、とりあえず彼女との友好関係についても後程考えることにする。飛び込んできた原因について話さなくては、私は何をしに来たのかということになってしまうからだ。
「あれが妖精なの?」
「うん。ああ見えて、あいつらもちゃんと生き物だからな。違うのは食べ物が大気中のマナっていうことだけ。日向は嫌いなはずなんだけど、わざわざ出てくるなんて珍しいなぁ……」
妖精とは、この世界にもいる別次元の生物らしい。私たち動物とは違い、マナという物質を摂取することで生きていくのだという。
マナというのは魔法行使の際に必需品なもので、私たちの世界でいうところの石炭やガソリンに当たるものなんだとか。イメージは水で、水蒸気のように空気中にたくさんあるところもあれば、草や果実に凝縮されていることもあるらしい。
妖精はそれを栄養にしていて、体がタンパク質でできている生物寄りのもの、身体そのものが高純度のマナの凝縮体でできているものの二種類だ。つまりあのドウパーマンという妖精は、空気中のマナを食べる精霊寄りの妖精になる。
「でも、やっぱりお嬢様なんだな」
「? どういうこと?」
意外そうな顔をして、ハルはホットココアを口に運ぶ。つられて私も、疑問符を浮かべながらもココアを一口含む。
彼女が入れてくれたココアは、とびきり甘かった。
「だって、あいつらは暗くて湿った場所なら大抵いるんだよ。あいつらを見たことないって、そういうところに言った経験が無いってことになるだろ? だから相当なお嬢様だなぁって……気を悪くしたならごめん」
「別に気にしてないわよ。言われるまでそんな風にとらえてなかったから。でも……」
「でも?」
ハルの言うことは至極もっともだ。確かに、上流階級の女性がそんなところに行くなんてことはまずありえない。暗くて湿っている場所なんて、女性どころかそれなりに身分のある人なら忌避するような場所だ。
だけど、私はハルの言う条件には当てはまらない。
「私は行ったことあるわよ? ていうより、住んでた」
「……どゆこと?」
「私、養子だもの。こっちに引き取られるまでイーストエンドに住んでたわ」
「はぁ?」
鳩が豆鉄砲を喰らったら、きっとこんな表情をするんだろう――素っ頓狂な返しをするハルを見ながら、私は呑気にそんなことを考えていた。
ハルが驚くのも無理はない。自分自身でも、どんな偶然があったんだと未だに不思議に思っているのだから。
イーストエンドは、ロンドンのとある一区画のことを指す言葉だ。これは正確な呼び方ではないし、明確な境界線もない。そして、この呼び名は決して良い意味ではなく、侮蔑や軽蔑といった負の意味で使われることしかない。「人間の不良品倉庫」という言葉すら聞いた。少なくとも、私個人でいい思いをしたことは一度だってない。
人が寝られるスペースが無かったり、あっても腐った木で作られた建物なんかはざらで、床に穴が開いていることだってある。毎日の食べ物に苦労する人たちがほとんどで、衛生状態も最悪。まともな感性を持った人はまず生きてはいけない場所だ。貧困、人口過密、病気、犯罪で町ができているといってもいい。どれくらいヤバい町なのか。それは、切り裂きジャックの事件が起こった区画だといえばわかると思う。
そんなわけで、湿っていて薄暗い場所なんか町中にいくらでもあった。私の住んでいた教会だって、部屋の中を思い出そうとするとどうしてもそんな環境が写りこんでしまう。
だけど、今の今まで、あんな妖精は見たことが無かった。ついの一度も。
「…………そんなこと、あるか……?」
話を聴いたハルは、首をかしげてブツブツと何やら独り言をつぶやいている。声をかけるのもためらうほどの雰囲気の上、いつの間にいたのか、遠くの扉からソフィが〝話しかけんなよオーラ〟をこっちに向かってはなっている。いま話しかけたら確実に嫌われそうだ。
どれくらいそうしていただろうか。
「あ、そうか。そういうことか」
何かに気が付いた表情で、ハルが顔を上げた。
「リーナはさ、起きた時、不思議な感じがしなかった?」
「例えば?」
「視界がまぶしかったりいろんな色がチラついたり」
「うん。あった」
「じゃあ〝覚醒〟だ」
「かく、せい?」
「そう」
覚醒——聞き慣れない用語だ。本来の意味で使うなら、目が覚めるとかそんな感じだったはず。だけど、ハルの口から言うのなら魔法が絡んできているのだろう。
今、この状況で、最もふさわしいと思う意味は……、
「それって、妖精が見えるようになるとかそういう?」
「そう! どんぴしゃそれ」
すっと、ハルがソファーから立ち上がった。
「まず、初めから説明すると……」
そのまま部屋の一角——巨大な棚が置かれている場所まで歩いて行き、立ち止まる。そしていくつかの引き出しを開けて、何かを探し始めた。
「種類にもよるけど。こっちの世界の人間たちは基本的に妖精を見ることはできないんだ。だけどごくまれに、妖精が視える目を持つ人もいる」
紐でまとめた紙の束が引き出しから取り出され、無造作に床へと置かれる。時たま、使い道の解らない道具も現れ、それに引っ付くようにして半透明な生き物が飛び出してくる。
ペンのような胴体に羽が生えたもの、宝石のような形をしたもの……多分あれも、妖精なんだろう。寝床だった場所を荒されて、所在なさげにハルの周りをうろついている。
「それは、訓練して視えるようになるとかじゃないの?」
「訓練なんか意味ないよ。視える眼を持ってるか持ってないかの違いだから。羽が無い人間が訓練しても空は飛べないだろ? どんなに水に慣れても、エラが無いと水の中で息はできるようにならないだろ? 妖精が視えるっていうのはそれと同じ。視える眼を持ってる人は最初から視えるし、視えない人はいつまでたっても視えない—————ここも違うな……」
どうやら、棚にはお目当てのものはなかったようだ。棚のある場所から離れ、次に向かったのは壁の一面を占める埋め込み型の本棚だ。その中で、赤く縁どられた部分を指でたどっている。
「それじゃあ、私はどうなるの? 断言するけど、今まであんなものを見た記憶なんて一度もないわよ?」
「それは、目に負担がかかるからって理由で脳が情報を遮断していただけだよ。使えるものを使っていなかっただけ。それでついさっき、その機能が目覚めた。だから〝覚醒〟」
「…………」
元々持っていた能力――確かに、思い返せばその前兆と思えるものはあった。
いままで当たり前に聞いてきて、すっかり私の日常になっていたもの。その存在そのものが当たり前になっていて、今まで意識していなかったもの。でも確かに、他人にはない私だけの経験がある。
〝声〟だ。小さいころから当たり前に聞こえていたあの声だ。あれはきっと、妖精たちの声だったんだ。
だからだろうか。物心ついた時からずっと、視えなくてもその存在を感じていたから、だからこんなに穏やかなのだろうか。妖精を視ても、驚くだけで怖いとは思わないのはそのせいだろうか。
「でも、どうして視えるようになったんだろう」
「ドラゴンとのエンカウントがトリガーじゃないかなぁ。元々、リーナには妖精を視る眼があった。だけどそんな情報は必要ないから、脳が自然にその経路を閉じていた。でも、昨日のショックでその経路が開いた、とか…………あ、あった」
本背表紙をなぞるように動かしていた指が止まった。そのまま一冊の本の角に指をあてて引っ張り出す。だいぶ使っていなかったみたいだ。背表紙だけが少し劣化していて、表紙自体は新品みたいに鮮やかな色をしている。
いろいろなものを中に挟み込んであるらしい。取り出された本のあちこちから、ページとは別の部分が飛び出している。いろいろ挟まれたその本の、赤い栞のようなものが挟まれている場所を開く。お目当てのものを見つけたらしく、「よし」と小さく呟いたのが分かった。
本を元の場所に戻し、くるりと私の方へと向き直る。
「ちょっと聞きたいんだけど、身体に不調があったりはない? 目が痛いとか、頭が痛いとか」
「ううん。もう大丈夫。でも、」
「でも?」
「慣れるまで苦労しそうね。しばらくは疲れやすくなっちゃうかも」
起きた時の感覚がこの眼の所為なら、きっとそうなるんだろうという確証があった。
今の私の視界を説明するには、どんな例えがふさわしいだろうか。自覚できるようになった色の数が何倍にもなった。もしくは、人間の世界と妖精の世界を同時に見ているような状態といった方がいいだろうか。見たくなくても入ってくる情報が、昨日と比べて倍になっていると考えてもいいのかもしれない。
視覚情報が一気に何倍にもなっているんだ。いまは特に何も感じなくても、きっとどこかで弊害がやってくる。無理をすれば危ないんだろうなということが、なんとなくだけれど理解できていた。
「うん。そりゃあ初めはそうなるよ。処理する情報がいきなり倍以上になるみたいなもんだから」
「やっぱりそうなんだ」
「だから、今日はその目の使い方を教えてもらいに行こう」
「え? どこへ……。——っ!」
ひょいっと、赤い手帳が私に投げられた。町で見かけるような小型のものだ。受け取ってみると、表紙には開花する一輪の花とその周りを飛ぶ二人の妖精の影絵が描かれている。その下に、見たことのない文字が刻まれている。
しかしその中に一か所だけ、見慣れた単語があった。
《―PASSPORT―》
「妖精の国」
描かれているイラストが妖精の理由が、今、分かった。
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