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第十三話 後悔と目覚め

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 ――あの子が不憫だ。

 病の床に伏した老人は、うわごとのようにそればかりを繰り返していた。

 ――父親らしいことはなにもしてやれなかった……

 ――病がちなあの子には、せめて穏やかな良い縁組を……

 後年は、明晰な意識よりも混濁した夢の中のうわごとの方が増え、口から出るのは悔恨ばかりのその姿が。

 ――哀れなものだな。

 と、ザカリアスは思っていた。

 老人は、幼くして亡くした第一皇子のことを悼み、遠くの国へ嫁がせた皇女たちのことを心配し、そしてなによりも離宮に住まわせた母子に特に心を砕いていた。

 日々その体から魂が溶け出していくかのように衰弱していくのを、どうしようもできずに見守りながら、ただ王としての必要な裁可を求めるためだけに訪れたザカリアスの手を。 
 枯れ枝のように萎れ、冷え切ってカサカサの手が掴んだ。

「ミストリアス卿……ザカリアス……頼む……」
「猊下……?」

 それが、かの老人の最期の言葉となった。




「――! ハッ」

 バチ、と目を見開く。

 夜の帳はすっかりと降り、ベッドサイドに置かれたランプの灯が微かに揺らめくだけの暗い部屋で、ザカリアスは目を覚ました。

 起き上がる額からすっかり溶けて温くなった氷嚢が落ちていく。
 びっしょりと濡れた寝巻きに、自分がひどく汗をかいていたことがわかる。

「クソ……どこが儚くてか弱くて不憫な姫君だ……ジジイ」

 嫌な夢を見ていた。
 怒涛のように押し寄せたありとあらゆる心労に、自分の体が押し負けたのだと理解して舌打ちする。
 記憶を手繰り寄せると、先ず初めに真っ直ぐ挑むように向けられた珊瑚色が脳裏に浮かんだ。

 ――わたくしを街に連れて行って頂戴。

 頭の痛くなるような要請と。
 それを後押しする義母と。
 セラスティアの部屋に散らかった無数の文献書籍と、思索の……施策の、走り書きたち。

 あまりのことに、おそらくザカリアスの何かが切れた。
 酷い頭痛と目眩に襲われ、倒れたのを覚えている。
 慌てて飛んできた執事のバートリーと従者に手伝われ、どうにか自室まで戻って。それから。そこから。その先の記憶は途切れていた。

 心労と過労だ、とザカリアスは思う。
 同時に。
 冗談ではない。とも思う。
 あの皇女は、なぜ静かに、おとなしく、穏やかに過ごせないのか。
 不自由させるつもりなどないのに。
 そうまで考えて、ザカリアスはキリリと痛む頭にこめかみを抑えた。

「いや――違う、な」

  温くなった氷嚢をベッドサイドに置き、汗に濡れた寝巻きを脱ぎながらひっそりとこぼす。

「あの姫君にとっては、今とこれまでこそが不自由なのか……」

 布で体を拭きながら、ゆるゆると嘆息した。

「いっそ男であったなら……」

 現王とセラスティア、果たしてどちらがマシかな? と考えそうになって、そのあまりの無意味さに頭を振る。

 前王が病の床でザカリアスに語ったセラスティア像とは、実際の彼女は似ても似つかない。

「俺はとんだ心得違いをしていた……」

 ラスティカの涙よりも強く衝撃的な事実だが、ザカリアスは得心がいったような清々しさもまた覚えていた。

「そこらのご令嬢と同じように見るのが間違いだったんだ」

 熱が引き、よく寝たからだろうか。
 それとも夜の濃く深く冴えた冷気のためだろうか。
 ザカリアスは自身の頭もまたすっきりと整っていくような感覚を味わっていた。

 どうにも振り回されすぎていたように思う。その原因のひとつは、己の中の思い込みでもあったろう。
 己の愚かさにやや自嘲的に笑うと、新しい寝巻きを着直してもう一眠りするために寝台に横になる。
 起きたら再び心労の波状攻撃だ。覚悟せねばならないのだから。

***

 昼時をいくらか回った午後、ザカリアスとセラスティアは街に訪れていた。

 正確には、聖都の大通りから外れた貧民街に、であったが。
 ふたりの身なりは、どちらもその街並みと人々の様子から浮きすぎるということはなかった。

 セラスティアは木綿の着古しのブラウスと巻きスカート、髪と額をすっぽりとストールで覆った聖王国でもポピュラーな下級民の装束を身につけていた。

 これはザカリアスが用意して渡したものでもある。赤毛の侍女のパティなどは「セーラ様にこんな粗末な服をよこすなんて!」と憤慨したものだが、彼女が当初用意していた衣服は見た目こそ質素で地味だったが生地も仕立ても良すぎるものだ。

 貧民街というその地に降り立ってみれば、セラスティアにもそれはよくわかったらしい。
 一度巻きスカートの裾を軽く摘んでみて、ほうと息を吐いた。
 それがどういう心情からのものであるかは、ザカリアスには計り切ることはできなかったが。

「この辺りは道が悪い、足元にはくれぐれもお気をつけください」

 ザカリアスは、セラスティアの手を取ったりはしなかった。
 貧民街でそのように女をエスコートする男など居ないからだ。
 まだ日は高い所にあるはずなのに、その町並みは薄暗かった。

 道端にござを敷いて安酒と安煙草をくゆらしながらカードやサイコロ遊びに興じる男たち。 
 粗末な服を着て赤子をしょいながら、どこから摘んできたのか花の選別をする少女たち。
 井戸端では華美なドレスに身を包んだ女たちが、互いの髪を結いあったりおしろいをはたいたりとしている。

 雑然として、健全とは程遠く、衛生的とも言えない光景がそこにはあった。

 セラスティアが、しばし言葉を失ったように黙り込んでいた。
 半歩ばかり先を歩いていたザカリアスは、彼女を振り返り、その様子をじっと観察するような眼差しを送る。

 ――さすがに、言葉も出ないか。

 宮廷からは遠く、穏やかな離宮で育った姫君だ。目の当たりにしたここの粗末な人々と様子に、気分を悪くしても不思議はない。
 それが普通で、当たり前の反応だ。
 大抵の貴人も令嬢も、眉を顰めて嫌悪感を露わにするものだ。

「あの女の子たち……花を、どうするの?」

 しかし、セラスティアからようやく出た言葉は、ザカリアスの予想に反したものだった。眉は寄せられていたが、その表情は嫌悪ではなく、かといって憐れみなどでもなく、ただ不思議だと言いたげに。

「……選別したより良い花を、日が暮れた頃に売り歩くのです。女たちに贈るための花は、必要ですから」
「贈り物の花……?」
「井戸端で身支度をしていた女たちが居たでしょう。男たちはあの女たちに花を送ります。花を贈られれば、女は男を愛するようになる。……そういう建前です」

 セラスティアは珊瑚色の瞳を瞬いた。

「そう……巧妙、なのね……」

 膨大な文献を読み漁ってきた成果だろうか、セラスティアは頷いた。ザカリアスの言わんとするところを理解したのだ。微かに頬が朱に染まるのは、そんなことを説明させてしまったことによる恥じらいなのか。ザカリアスには今ひとつ判然としなかったが。

「ひと気はあまりないのですね……」
「……日の高いうちは。勤勉な者は働きに出ておりますし、夜まで寝てから働き出す者もおります」

 セラスティアは、そう、と頷くとどんどんその足を町の奥へと進めて行った。
 その瞳は、この町の様子、人々の様子、それらをひとつも余さず目に心に焼き付けようという意志があるように、ザカリアスには見えた。
 ただの好奇心ではない。憐憫でもない。ではなんなのか。
 
 ――本気なのか。

 被害を被った者たちの救済。
 その為の査察。
 セラスティアの部屋の中を満たしていた文献資料と、それを纏めたのだろうたくさんのメモ。思索。
 測りかねる。というのがザカリアスの正直なところだった。
 戸惑いばかりが先に立つ。
 
 ――いっそ、男であれば。

 そうして、セラスティアこそが王であったなら。
 ザカリアスは、再び埒もないことを思い、困惑と自嘲に笑った。

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