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第二話 皇女セラスティア

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 ラスティカ王国は美しい国だった。
 
 セラスティアは嫁入りの時、前後左右を兵士に固められた馬車に揺られて、生まれて初めてラスティカの地を踏んだ。兄王に命じられるまま、抗うことなど出来ぬ政略結婚。馬車を囲む兵士は護衛とは名ばかりで、まるで自分こそが捕らえられた囚人のような心地だった。
 国境からラスティカの王都まで、馬車は休みなく駆け続けた。国境から王宮のある都まで丸一日と掛からない小さな国の丘陵地帯を、緑の木々が埋め尽くす。太陽に輝く若葉が目にも鮮やかな初夏のことだった。
 
 
 吟遊詩人に「日の沈むところのない偉大なる神の王国」とさえ歌われる聖王国の末の姫君。
 第四皇女セラスティア・ザラ・マキア。
 それがセラスティアの正式な名前である。
 セラスティアの母は大層美しい女だったが、先王の正式な妃ではなかった。生まれは二代ほど前に聖王国に帰属したいわゆる亡命貴族で、辺境に細々とした所領を持つだけの子爵家だった。正妃どころか公式な側室である二の妃や三の妃にさえなれる身分ではなく、ましてや生まれたのは王子ではなく姫だった。
 
 血筋を重んじる聖王国では『混ざりものの姫君』などと陰口を叩かれていたセラスティアだったが、穏やかで人の好いラスティカの国民達は歓迎した。「お美しい皇女殿下」「ラスティカの妃殿下」と皆が慕ってくれた。
 
 何より、属国扱いで一方的に行き遅れの皇女を押し付けられたにも関わらず、夫となったラスティカ国王はセラスティアに優しかった。
 
 「あの丘は綺麗な森ですわね。何という名前の木ですの?」

 なだらかな丘陵地帯を埋め尽くす木々を見て、もの知らずの子どものように不思議そうに問うセラスティアに、あの人は微笑んで教えてくれた。
 「あれは森ではなく、アーモンドの畑なのだ」と。
 そして。
 「きみに見せるのが楽しみだ。春になると薄紅色のアーモンドの花が一面に咲き、まるで夢の国のようだ」と。
 
 だが、セラスティアが満開のアーモンドの花を見ることは叶わなかった。
 
 夫婦として暮らしたのは、ほんのひと月にも満たない。
 その年のうちに、ラスティカは地図から消えた。
 セラスティアの故国に滅ぼされたのだ。
 あの美しいアーモンドの丘も、歴史ある王宮も、優しかった国王や王家の人々も、炎の中に消えたと聞いた。
 
 戦火が迫る中、セラスティアは側仕えの侍女と共にラスティカの王宮から連れ出され、難を逃れた。そうでなければ滅びゆくラスティカと運命を共にしていたに違いない。神の導きか運命か、それとも誰かの差し金であったのかは分からない。
 だが、ひとり生き残ってしまった。
 
 セラスティアは、故国に連れ戻されてからも、何度も何度も、燃え盛るアーモンドの花咲く丘を夢に見た。
 
(……年が明けたら、お兄様に願い出よう。神に一生を捧げ、死者の霊を弔って過ごしたいと)

 セラスティアは密かに決意していた。
 
※※※
 
 「皇女殿下!おやめくださいましっ……衛兵に見つかってしまいますわ……」
 「しっ!静かに……もう少しだけだから……」
 
 聖王国が誇る神聖なる王座の間には、普段貴族達が使用する扉の他にも、幾つも隠し扉がある。それは敵の襲撃や不測の事態を予想して作られた秘密の抜け道だ。そのひとつ、普段は柱の装飾のようにしか見えない壁の前で、セラスティアは中の様子に聞き耳を立てていた。

 「い、一体何をそんなに……」
 「お兄様が、臣下を全員ここに集めたのよ。もしかしたらまた、どこかで戦が始まるのかも知れないわ……!」
 「でもっ、セーラさまぁっ……!」

 乳姉妹で侍女のパトリツィアこと、パティが今にも泣き出しそうな声で懇願する。
 セラスティアのことをセーラと愛称で呼ぶのは、今や亡くなった母以外にはパティだけだ。
 セラスティアは本当の姉妹以上に親しく育った彼女の泣き落としには弱かった。確かに、見つかったら彼女も侍女長にこっ酷く叱られるだろう。

 「……分かったわ、パティ。だからもう泣かないで。諦めるから……」
 
 その時だった。

 「――宰相ザカリアス・ミストリアス。聖王国第四皇女セラスティア・ザラ・マキア。聖王レインノール三世の名の下に、両名の婚姻の成立を宣言する」

 低いがよく通る声が響く。

「そんな……嘘でしょ!?お兄様……!」

  静止するパティを振り切り、セラスティアは王座の間へと飛び出していた。
 
※※※
 
 あの、王座の間で。
 居並ぶ貴族たちに囲まれ、兄王の玉座の下に膝をついた宰相が堅苦しい口調で告げた一言によって、セラスティアの運命は決まった。

 もとより、聖王の言葉は神の言葉。絶対である。

 セラスティアは最早一切の反論を許されず、着の身着のまま馬車に乗せられ、王宮からほど近いザカリアスの屋敷へと半ば連れ去られた。屋敷へと急ぐ馬車の中、セラスティアは爪先が白くなるほど扇を握りしめ、感情を押し殺すのに苦心する。ザカリアスと別の馬車であったのがせめてもの救いだった。
 
 (望外の喜びですって?あんな、これっぽっちも思ってもいないことを、よくもまぁスラスラと!お兄様もお兄様だわ!何故、よりにもよってあの男と……!)
 
 聖王の前に跪き、皇女を賜る口上を述べたザカリアスの顔を思い出す。表情筋が死んでいるとしか思えない、恐ろしく陰鬱な顔。
 
 だが、セラスティアが辿り着いた由緒正しきミストリアス侯爵家の応接室は、主人の印象とは大きく異なった。
 若草色の絨毯の上、爽やかで趣味の良い調度品に囲まれている。随所に客人に対する気配りと手入れの行き届いた落ち着いた空間に、セラスティアは意外な気がした。
 
 「皇女殿下、どうぞこちらへ……」
 「…………」

 皇女である自分は、たとえ宰相侯爵相手でも、へりくだったり臣下の礼をとる必要はない。ソファを勧める言葉を待つまでもなく、セラスティアは迷わず進み出て上座に座った。
 
 「皇女殿下におかれましては……ミストリアス侯爵家においでくださったこと、まことに喜ばしく……」

 何の感情も読み取れない白い顔で口上を述べる男に、セラスティアは珊瑚色の瞳を細めた。

 「白々しく心にもない御託は結構です、ザカリアス殿」

 宰相閣下でも侯爵閣下でもなく、対等かそれ以下に対する呼称である「ザカリアス殿」と呼ばれたことに、流石に気分を害したのだろうか。薄い眉がひくり、とわずかに動いた。
 
 
 ミストリアス侯爵家現当主にして、第一宰相ザカリアス・ミストリアス。
 父王時代に、その明晰な頭脳と冷徹無比な政治手腕を買われ、若くして宰相の地位に上り詰めた男。目的のためには手段を選ばない権謀術数主義のリアリスト。そのくせ宮廷人からの評判は最悪で、死神だの葬儀屋だの、貴婦人達の扇の影で黒い噂ばかりが囁かれている。
 セラスティアが知っているのは、どれも人づてに聞いた噂話ばかりだ。
 
 
「……では、この際建前だのなんだのは抜きにして、お話すると致しましょう」
「いったい、なんのお話をしようというのです。あなた方は、わたくしたちの言葉など、何も聞きはしないでしょう」

 この男も、女など政治の駒としか思っていないに違いない。
 この男ばかりではない。聖王である兄も、この国の男達は皆そうだ。
 
「……本音では、役立たずの駒を押し付けられて迷惑千万と思っているのでしょう?」
 
 目の前の男にか、それとも別の何かなのか、何に対して苛立っているのかも分からないまま、険のある言い方をしてしまう。まだ、混乱している。あの大広間に飛び込んだその時から、ずっと己を保てない。
 広間に飛び込んだセラスティアに向けられた、侮蔑しきった男たちのあの視線。自分たちだって女の胎から生まれておきながら、何が女人禁制か。
 セラスティアは胃の腑が焼けるような激情に堪えた。

 今まさに、皇女に相応しい華やかな婚礼の式も支度も、何なら祝いの言葉のひとつさえなく、この男の元に下賜されたばかりである。不要な駒の厄介払い、という言葉が最も相応しい。
 
 「実際、政治の駒にも使えぬ上に、身分と気位ばかりは高い傷物の皇女など、引き受ける物好きは私くらいのものでしょうな」

 どうせまた、上辺だけお追従を口にすると思っていたのに。驚いたことに、返って来たのは思った以上に辛辣な嫌味だった。しかも真顔で。

 「まぁ……お生憎様!死にぞこないのわたくしには、死神の花嫁が相応しいとお兄様もお思いになったのやも知れませんわね!」
 「……死にぞこなった、とお思いか」
 「事実、そうでしょう。聖王国とラスティカ王国の平和を守る……皇女としてのお役目も果たせず、それならせめて夫たる国王陛下に殉じるべきでしたわ」

 セラスティアの言葉は本心だった。自分の意志など関係なく他国へ、そして次はこの男の元へと。売られてゆく哀れな子羊のように扱われるくらいなら、せめて皇女として潔く殉じるべきだった。
 
 「…………」

 重い沈黙が落ちる。相変わらずこの宰相は何を考えているのか分からない。

 「……賢明な羊飼いが率いれば、羊の群れでさえ狼を駆逐することが出来るでしょう。しかし愚鈍な羊飼いが率いる羊の群れは、自ら炎に飛び込んでしまう。ラスティカは後者であったというだけのこと。皇女殿下、あなたは身をもってお分かりの筈……」
 
 バシッ!!

 静かな応接室に、乾いた音が響き渡った。
 気が付けばセラスティアは、手にした扇でザカリアスの頬を打っていた。

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