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第四夜 王宮の侍女頭

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 迷いなく、侍女は指輪を井戸に投げ入れた。
 あまりのことに呆然として声も出せないハティーシャの目の前で、指輪は弧を描く。

──ちゃ、ぽん!
 
 あっという間に暗い井戸に飲み込まれ、小さな水音が立つ。
 
(やはり、この女!先から怪しいと思っていたのだ!)
 
──グ、ルルゥ……!
 
 咄嗟に、魔導師はハティーシャと侍女の間に飛び込み唸り声を上げた。急に目の前に躍り出た真っ黒い大きな狼に、侍女は短く悲鳴を上げてたじろいだ。
 
「ひっ……!」
「……なんてことを!どうしてっ!どうしてこんなことをなさるのです!?」
「……それは……あなたが知らずとも良いことよ。けれど、これで証拠はなくなったわ。証拠もない証人もない、あなたのような小娘の話など誰も耳を傾けはしない。落とし子を騙った罪でひっ捕らえられたくなければ、大人しく去ることね」
 
──グルゥ、ゥ、ァ!
 
 ハティーシャを脅しつける侍女の声を、魔導師の大きなあぎとから漏れる恐ろしい唸り声が遮る。侍女は身を翻すと逃げるようにその場から立ち去った。
 
 あんな女の一人、喉元に食いつき嚙み殺してやることは幾らでも出来よう。
 だが、今はそれよりも無遠慮な悪意に傷付けられたハティーシャのことが心配だった。
 
(ハティーシャ!?何をしている!?)
 
 振り返れば、ハティーシャはつるべから伸びるロープを掴むと深い井戸の中に身を投じようとしていた。
 
(ま、待て!待つのだ!早まってはならん!)
 
──ゥ、ガ、ウ!ガウガゥッ!
 
 魔導師はたくし上げて結ばれたスカートの裾に噛みつき、何とか止めさせようと力の限り引っ張った。ミチミチと丈夫な綿の布地が嫌な音を立てる。
 
「ダリル!止めないで!あれは……大事な大事なお母さまの形見の指輪なのよ!何とか見つけ出さないと!」
 
 あまりの出来事に、悲嘆に暮れ世を儚んで身投げするのでは? と疑った魔導師はそれが思い過ごしであることに気づいた。
 ハティーシャはそんな殊勝な娘ではない。嫋やかな見た目に似合わぬ大胆で跳ねっかえりな気性であった。
 確かに、ハティーシャのスカートの裾は身投げどころか勇ましくたくし上げられ、艶やかな素足が腿の辺りまで覗いている。魔導師はこんな時にも関わらず思わず見惚れた。
 
(は……?いや待て、そんなことが出来る訳がなかろうが!?とにかく待つのだ!)
 
──ガウゥゥゥゥゥ!
 
 紡ぎ出されるのは狼の唸り声ばかり。けれどその必死さが伝わったのか、ハティーシャはようやくロープから手を離した。
 
「……っ……ダリル、分かったわ。分かったから……離して頂戴。こんな暗くて深くて狭い井戸の中じゃ、例え入ったところで身動きも取れない。私じゃ、どうしようもないわ……」
 
 必死で裾に噛み付き押し止めようとする狼に、ハティーシャは少し冷静さを取り戻したようだった。

「嗚呼、でもっ!……どうしましょう。あれがなくては、本当に何も、お父様の娘だと証明する手立てがない。嘘だと疑われてしまうかも知れないわ。何か方法を考えなくては……」

 ハティーシャは暗い井戸の底を覗き込んで途方に暮れた。
 
 そして、そんなハティーシャを嘲笑うかのように、運悪く。

 煌びやかな衣装を纏った王宮よりの使者の一団が『明日、国王陛下が直々にお会いになります』と伝えにきたのは、その日の午後のことであった。

※※※
 
 夕闇に紛れて、魔導師は王宮に忍び込んだ。
 宮殿と宮殿とを繋ぐ回廊で、ついに覚えのある女の匂いを嗅ぎ付けた。
 
 幾何学模様のアーチを描く柱の影。
 狼は一瞬で長身痩躯の魔導師の姿に戻ると、女に手を伸ばす。ヴェールごと、結い上げた髪を掴んで影の中へ引き摺り込む。
 
「……きゃッ……っ!」

 ハティーシャに王宮の侍女頭だと名乗った件の女は、強い力に抗えず、柱に強かに背を打ち付けて呻いた。だがそれでも強気に誰何の声を上げた。

「う、ぅッ……な、何者です!人を呼びますよ!」
「出来るものならやってみるが良い。その前にこの爪がお前の喉笛を掻き切ってやろうぞ」
 
 魔導師は己の手先だけを変化させた。黒いローブの下から伸びた手が、今度は女の喉元を掴む。まるで、猛禽類が獲物の野鼠を捕らえるような仕草。それは鋭い爪を備えた鷹の足であった。
 グッと指先に力を込めれば尖った爪先が肉に食い込み、女はひぃっ、と息を飲んだ。余程信心深いのか、震える手が神々に祈る印を切り、まじないを唱えていた。
 
「何故あの娘を疎んじる。お前ひとりの考えではあるまい。一体誰の差し金だ」
「わ、わたくしは……」
 
 女は恐怖からか、果たして主への忠心からか、口籠った。
 より深く、猛禽の爪先が喉に沈む。
 
「命が惜しくば言え」
「……わっ、わたくしは、ただ……王妃様のおっしゃる通りにしたまでです……」
 
 ほう、と魔導師は得心したように頷いた。
 なるほど、王妃の差し金というなら納得も出来よう。悋気に駆られてハティーシャら母子を王宮から追い立てたという女だ。
 
 「……良いか。今度あの娘に手を出してみろ。お前を攫って無限砂漠の喰人鬼グールの餌にしてやるゆえ、覚悟するがいい」
 
 喰人鬼は神の理から外れた存在である。その喰人鬼に食われるということは、すなわち神々の暮らす楽園へ招かれず、死後も永遠に無限砂漠を彷徨う運命にあるということ。砂漠の神々を奉じる民にとっては何より辛い責め苦である。
 信心深い侍女は顔色をなくし、恐れ慄いた。
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