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海を越えて

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 ヤースミンとの約束通り、帰りは陸路となった。
 
 船で3日掛かった訳だが、あくまで、順調に進んで、3日だ。
 陸路だと一体どれ程掛かるのだろうか…ライラは帰れる事に安堵していたが、少し寂しさも感じる。
 
 旅とは、総じてこういう気分になるものだろう。
 
 
 ただ、帰りの旅を想像すると、出発前からどこか疲労感を覚えた。
 
 
 だがその疲労感も、とある光景を見たことで途端に回復に向かう。
 
 …思いの外、旅の進みは速いかもしれない…
 
『あれって…』
 ライラが見つめるその先の物に、テレサも視線を移す。

『エルメレの馬です。ラクダより荷は積めませんが、砂漠に適した種なので、ライラ様も乗りやすいかと。馬の方が速いので、アクイラ様のご厚意でご用意していただきました』
 
 手入れの行き届いた毛並みの美しい馬達が、トロメイの正門に待機している。
 艶々としたその光が、降り注ぐ陽光を反射していた。
 
 
 馬に乗れるーっ…!それだけで、ライラの取り越し疲労は大半が吹き飛んだ。
 
 
『そういえば、ライラ様は乗馬がお得意とか。お一人で大丈夫ですか?…お体の事もありますので、誰かと一緒に乗られた方が良いかもしれません』
 テレサは心配そうな顔でそう言った。
 
『だいじょうぶです!』
 
 ライラは自信満々にそう返す。
 
 この機を逃せば、次はいつ乗れる事か…
 
 
 別れの挨拶が一通り済むと、ライラとテレサは馬に乗りやすい格好に着替えた。ゆったりとしたエルメレの服だ。
 
 ライラは深い真っ青な服に、グレーの被り物、テレサは茶色を基調にして生成色の被り物を身につけた。
 
 
 久しぶりに馬に跨ると、ライラの気分は俄かに高揚する。
 
 
 
 アクイラの一行は数名のみが途中までレオ達に同行し、他の者はアクイラ領へ戻るという。
 
 ライラはてっきり砂漠を横断する過酷な旅になるかと思いきや、砂漠と街並みの間辺りを通るらしく、さほど不安にもならなかった。
 
 
『砂漠をずっとこのまま突っ切る?そんな訳ありません。トロメイ領を出ればすぐ船に乗ります。時間を無駄に消費して何になるんです』
 
 ライラの疑問に、アクイラは何をバカなと言うように答えた。
 
『ヤースミン様のお姿が見えなくなった時点で船に乗っても良い位です』
 
 確かに…わざわざ律儀に遠回りする必要は無い。
 
 楽しそうに見えるのは、目新しい物ばかりのレイモンド位で、他の者は淡々と帰路を急いでいた。
 
 暑さが和らぐ時間帯に移動し、休む時は宿を取るかアクイラの一族のテントで寝たりして旅路を進んだ。
 
 
 3日目の朝陽が見えた頃、もうトロメイの領地も終わりが見えてきましたとテレサが言った。
 
 一行は岩肌が露わになった場所にテントを張り始める。
 
 その向こうには街があるが、既にアクイラの一族は野宿と決めたらしい。
 
 そこには中規模のオアシスがあり、木々も丁度良く生えているので馬にとってはこちらの方が良いのだろう。
 
 
『今日か明日には船に乗れるでしょう、ライラ様ご体調は大丈夫ですか?』
 
 テレサは旅の間、申し訳無くなる程甲斐甲斐しくライラの世話を焼いてくれた。
 
 
 馬に乗るのもかなり体力を必要とする。
 
 久しぶりのせいか、楽しい反面、疲労は確実にライラに溜まっていた。
 船旅の時とは違い、体内時計も狂いやすい。けれどもそれを顔に出す事は決してしなかった。
 
『ありがとうございます。テレサ殿のお陰で変わりはありません』
 ライラが笑みを浮かべそう答える。
 お荷物になる訳にはいかないのだ。
 
 
 旅を共にしても、男女は基本的に分かれるのでテレサと過ごす時間は長かった。
 
 なので、特別レオとライラが話し込む事は無い。不意に目が合っても、お互い軽く笑みを浮かべる位だ。
 
 
 
 この距離が良いんだ
 これが1番良い
 
 
 ライラとしても、どこか一区切り付いたような感覚を覚えた。本来の、元の自分の位置へ戻ったような、そんな感覚だ。
 
 
 皆が食事の支度に取り掛かろうとした時、レオが一瞬にして顔を強張らせ、不自然に動きを止めた。
 
 
 
『静かにっ…』
 突然レオがそう言うと、すぐに地面へ耳をつける。
 
 
『…こっちに向かっています。30程。馬で駆けている』
 鋭い声でそう言うレオを、皆が一斉に見た。
 
 
『キャラバン、では…?』
 ライラが咄嗟にそう尋ねる。
 
『この時間帯に走ってわざわざ馬の体力を消費させはしません。先程微かに銃声が聞こえました。この道は確かに往来も多い、だがキャラバンなら抜け道を使うはず』
 その場に、一気に緊張が走る。
 
 
『多過ぎる…。街に行くとして…まぁどちらにせよ、命は無いですね。このオアシスに寄らないはずが無い』
 アクイラは馬に忍ばせておいたであろう細長い刀剣を鞘から勢いよく引き抜いた。
 
 
『…アクイラ様、いけません。先に行って下さい。私が引き受けます。ここで食い止めねば意味が無い』
 レオの言葉を聞いて、ライラは体中の血が一気に冷たくなる程の衝撃を受けた。
 
 
 
『…』
 
 アクイラとレオはお互いをじっと見つめると、アクイラはぐっと力を込め、刀剣を鞘に収める。
 
『…アクイラの中でも、この者たちは精鋭。レオ殿の足は決して引っ張らない。私が選んだ者たちだ』
 アクイラ卿は側に控えていた者達に目配せする。
 
 アクイラは、険しい顔で唇を噛みながらそう言った。
 
 武人の家に産まれた以上…本来なら、アクイラ自身が残りたい。
 だが、側室の身であるなら、それは叶わない。
 
 
 この場で命に優先順位を付けるなら、アクイラ=バルドリックはその筆頭となる。
 
 
 
 3人ほどのアクイラの者達が一斉に刀剣を抜き、銃を手に持つ者も居た。
 
『私も残ります』
 テレサがさっと出てレオに駆け寄る。
 
『命令を忘れたか。そなたの守るべきはライラ殿だっ!』
 レオの一喝が、辺りに鋭く響き渡った。


『テレサ様。お恥ずかしくも、私は一時の盾にしかなれません。私1人の命では、ライラ様とアクイラ卿をお守りし切れないのです。ですがテレサ様が居て下されば、違います』
 あんなに頼もしいレイモンドが背を小さくして、テレサにそう投げかける。
 
 レイモンドは、今この時でさえ、とても冷静だった。
 不思議な程に肝が座ってる辺り、やはりフォーサイスなのだ。
 
 ライラは体中に寒気を感じながら、不思議に状況を落ち着いて見ていた。
 
 
『…急ぎ、馬の支度をします。レイモンド様、手をお貸しください』
 テレサは絞り出すようにそう言うと、レイモンドとすばやく馬の元へ駆け出す。
 
 
 それとは逆に、ライラはレオの元へ駆け寄った。落ち着いているはずなのに、分かっているのに、体は自然と駆けていた。
 
『私も、この地に残ります…』
 
 
『足手纏いです』
 レオは冷たくライラを突き放すと、荷物の中から細長い刀剣を引き抜く。
 
 そのゆったりとした服の下に、一体幾つ心強い武器が仕舞ってあるのか…
 
 ライラは、どうかレオの命を守れる程、あり得ない量のものがその中に仕舞ってあって欲しかった。
 
 
『足手纏いに、ならないようにします』
 
 
 無理に決まってる
 何も出来ない
 すぐに殺される
 
 そんなの分かってるのに、なぜこんな言葉を口走ってるのだろう
 
 
『あなたを死なせれば、私の首が飛びます』
 レオはライラと目も合わさない。
 ライラの知るレオでは無い程に、冷たく、切り捨てるようにレオはそう言う。
 
 
 
『…っレオ様を死なせたら、私こそ斬首ではありませんかっ』
 
 それこそフィデリオとかフィデリオとかフィデリオとか…
 有能な片腕を失った責を負うべきは、トロメイに来た理由である自分にしか無い、とライラは確信している。
 
 キアラだって同じ事だ…
 
 どちらかと言えばキアラ、あの女神からの天誅の方が震えるほど恐ろしい。
 むしろ、簡単に死を許してはくれないだろう。
 
 
 
 ライラの喉の奥に灼ける様な感覚がし始める。
 
 失うくらいなら…
 せめて…
 むしろ、一緒に…
 
 ライラは意を決して声にしたいが、上手く声を出せない
 
 
『…はっきり言わねば分かりませんか?
 私は、海を超えて来たのですよ』
 
 レオの声が、ライラの頭の上へ降ってくる。  
 先程よりも棘は無い。
 
『あなたを守って死ねるのなら、本望なのです。色仕掛けは得意ですが、口説くのに命を賭ける程愚かではありません。
 男の意地です、どうか行って下さい』
 
 ライラが見上げると、レオは困った様に眉を顰めているが、口元は少し笑みを浮かべている。
 
 
 何よりも、その言い方は、酷く優しかった。
 
 
 ライラの目が、ぼやけてきてしまう。
 ハッキリと、レオの姿を捉えたいにも関わらず、視線はぼやけて仕方ない。
 
 

『ライラ様っ!っ急いで!』
 レイモンドの声がした。
 
 
『どうか、どうか無事に戻って来てください、約束ですよっ』
 ライラが言葉を発すると共に、頬に水滴が流れ落ちる。
 
 レオは素早く小指につけた金の指輪を外すと、ライラに差し出した。
 
 
『戻るまで持っていて下さい。1番近い港で落ち合いましょう。3日経っても戻らない場合、これを持って宮殿へ帰って下さい』

 ライラは大きく息を呑む。

『…っまさか、死ぬおつもりですか?』
 
 ライラの見開いた目を見ると、レオの美しい虹彩を放つ目が少し細くなる。


『…お願いを1つ、聞いて下さいますか?私が戻るまで…私だけの事を考え、私のために祈って下さい』

 レオはライラの頬に、大きく温かな手を添えた。
 
 ライラもそこへ手を重ね、何度も何度も首を上下に揺らし、頷く。

『っ早く!』
 誰とも分からない声がして、体が引っ張られた。引き剥がされるように。
 
 
 素早く馬に乗らされ、走り出す。
 全ての瞬間が、酷く遅く感じる。
 
  
 振り向きざま、ライラのぼやけた視界に映ったのは、確かに頼もしいレオの背中だった。だが、どうしてもその背が倒れる想像をしてしまう。
 
 
 
 見えも聞こえもしない、近くに感じる事もない神に、ライラは縋るしか出来なかった。
 
 だがライラは知っている。
 
 いくら祈っても、その願いが必ずしも届かないことも
 神は与えるのでは無く、奪っていくことも
 





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