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報い
しおりを挟む『お母様、アクイラ卿の御一族をどう思われます?』
1日目の宴が終わり、ギュルと娘であるハーレは遅い朝食を摂っていた。
孫娘であるミネはまだ寝ている。
本来なら無理にでも起こして共に食事を摂らせるが、宴の間位はギュルも好きにさせてやるつもりだった。
『どうも何も。アクイラの一族は何代も前より親しくする間柄。しかもバルドリック様は皇女殿下の御側室。お招き出来てこの上無い光栄だ』
ハーレはゆっくりとスープを飲みながら、首を横に振る。
『見た目の話です。ミネのお相手はアクイラの一族でどうかと。美しい子が産まれますわ。それに、皇室とまたお近づきになるご縁も出来ますし…』
ギュルは何も答えずに朝食を食べながら、仕事の書類に目を通し、届いた手紙の封を開ける。
『お母様、お食事の時くらい仕事は隅に置いて下さい。ジャニス叔父様にお願いしては?』
ハーレはギュルを不機嫌そうに見つめる。
『そういう訳にもいかない。宴が5日間続く以上、予定を調整しなければ』
ギュルは相変わらず書類に目を向けながらそう答えた。
『…はぁ。あの王国から来たご婦人、ジャニス叔父様やデュマン達にどこと無く似ておりますね。血は争えぬ、とは本当に…。
まさかヤースミンお祖母様はあのご婦人をお手元に置かれたりするのでしょうか…。
私、あの青い眼を見ると落ち着かないのです。なんだか良からぬものを感じると申しますか…』
ハーレがあからさまな溜め息を吐き、ギュルはようやく顔を上げた。
『良からぬもの?この喜ばしい宴の折、トロメイに良からぬものなぞ存在しないが、そなたの心の中にはそれが在るのか?』
ギュルが穏やかにそう言葉にすると、ハーレは気まずそうに視線を逸らす。
『…アーダ様のお血筋なら、本来であれば跡取りです。今更現れて私達の平穏な生活に波風立てないのなら、私はそれで良いのです。今のままのトロメイが、ずっと続く事こそが私の望む事。それ以外はございません』
ハーレは意を決したような物言いで、ギュルにそう言った。
『私もそれを祈っている。だからこうして書類に目を通しているのだ。そなたも手伝ってくれたらゆっくり食事も摂れる』
ギュルはあくまで穏やかに、だが鋭く言葉を返す。ハーレはまた気まずそうな顔を浮かべた。
『とにかく、ミネのお相手はアクイラの御一族が良いです。あの美しさは、トロメイに相応しいかと』
ギュルの機嫌が悪くなりそうだと察してハーレは話を変えようとする。
だが、話の内容関係無くギュルの内なる苛立ちは一層募った。
ハーレは美しいものが好きだ。
ハーレの目に映る全ての物を最高級の物で満たして、何か望めば勿論ギュルは金は惜しまなかった。
例え父が居なくとも、満ち足りて幸せであるとギュルはハーレに感じて欲しかった。
トロメイの跡取りとなる、ギュルの大切な1人娘に。
ハーレの父であるギュルの夫は旅商人であったが、今は東の方で小さな食堂をしているらしい。
ハーレを身籠り婚姻はしたが、離婚もしていない。
1年に一度、その夫とギュルがトロメイの手前の領地で会う事を2人以外は誰も知らない。
父は居ないとハーレは思っている。
ハーレの父も、ハーレに決して会おうとしない。
トロメイの男には、2通りある。
名誉や権利が無い変わりに、トロメイの為に働き裕福な暮らしを得る者。
女達に嫌気が差し、出ていく者。
母系一族の中でも、トロメイの男が担う商売は非常に多岐に渡る。
船に乗る者、キャラバンで砂漠を渡るもの、規模もそれぞれ違うが、遠い場所へ行く仕事は女も居るが、男の方が多かった。
どんなに遠くへ行っても、トロメイの男は皆必ずトロメイへ帰って来る。
子種をもらえれば構わないという女も居るが、愛する人とこの地で暮らしたと願う夫婦も勿論存在する。
だが、この地の男への扱いが屈辱に感じ、耐えきれなくなる事も少なく無い。
ギュルの夫は後者だった。
母であり当主のヤースミンと父のエブレンの反対を押し切って婚姻を結んだのに、離婚をするなぞギュルの矜持は許さなかった。
自らの選択が、間違いだったと認める事は出来ない。
間違い、とはトロメイで生きていく女には存在しないのだ。
ギュルは離婚したがる夫に条件を出した。
1年に一度、暮らすに困らぬ程の金銭を渡す。その代わりに離婚はしない、と。
由緒正しい貴族であるトロメイの跡取りは、離婚しないでくれ、戻ってきてくれ、娘を愛してくれ、そんなこと口が裂けても言える訳も無い。
旅商人如きの男に簡単に捨てられた、そんな事がある訳ないのだ。
最愛の娘であるハーレに、ギュルは勿論最高の教育を身につけさせようとした。
だが、ハーレはギュルがいくら優秀な教師を呼んでも勉学を嫌い、享楽に耽る事を好んだ。
子供の頃は嫌なことがあるとすぐに投げ出し、終いには暴れて泣き喚いた。
余りに使用人達の手を焼かせるので、ギュルはハーレの望むようにしてやる事しか出来ない。
抱きしめて、望むものを与えて、ハーレを笑顔にする事だ。
ヤースミンやエブレンが怠け者のハーレに怒れば、余計に母としてギュルはそれを庇った。
ハーレには自分しか居ないのだから。
その結果、ハーレは周りに流されやすく、我慢の出来ない性質を持ってしまった。
挙げ句の果て、ある日ハーレは満面の笑みでギュルにこう言った。
『お母様、お喜び下さい。誇り高いトロメイに、跡取りが産まれますよ』
それを聞いた時、ギュルの頭は真っ白になり、その場に立ちすくんだ。
ギュルも、ハーレと同じだと気付いてしまったのだ。
ギュルは自分に商才が無い事に薄々気付いていた。
両親が信頼する優秀な兄、ジャニスに勝てる事…自分にしか出来ない事…それは女である事だ。そして、跡取りを産む事。
どんなにジャニスが優秀で可愛がられても、誰もギュルを無下には出来ない。
跡取りは自分なのだ。
自分は自分であるだけで、トロメイの頂に立ち続ける事が出来る、ずっとそう思い込んでいた。
だが、初めて大きな仕事を任された時…とても埋めることが叶わない損害を出した。
焦り埋めようとした結果、数十人の命と引き換えに、幾ばくかの香辛料を得た。
金銀に例えられる香辛料は、損失を埋めるのに一役買ったかもしれない。だが後に残ったのは軽蔑と憤慨、悲嘆に打ちひしがれる遺族たち…
死のうと思った。
自らの浅はかさが情け無かった。
無能さを認めるのは辱めを受ける事と同等だった。
『お前は、死ぬ理由もまた自分の為なのだな』
秘密裏に呼び出した兄のジャニスは、ランプの火だけが灯す屋敷の離れでそうギュルに言った。
『そんなに項垂れて、泣きながらポツポツと溢す言葉が、まさかその様な事とは。
無謀な船旅だとあれだけ反対したのに…
挙げ句、死にたいと?』
ジャニスの灯に照らされた顔は、穏やかだがどうしようもないほどに怒っているのが、妹であるギュルには分かった。
『もう充分過ぎる程、命は失われたのだ。
お前の命1つで償い切れる事でも無い。
お前に少しでも死者を悼む気持ちがあるのなら、同じ位の苦しみを抱えて生きるしか無い。それがせめてもの、良き行い…
お前の悪しき行いがこのような事を引き起こしたのなら、天啓であったと思うて自らを受け入れろ…』
ジャニスに諭されても、自分が自分である故の苦しみは消えない。
とてつもなく価値のある特別な命を自分は持っていると思っていた。トロメイの当主、その血筋だから。
だが、償い切れないとはっきり言われると、どれだけ自分はちっぽけな存在なんだと思わずにはいられない。
誰かに代わってほしい。
私のせいじゃ無い。
私は悪く無い。
そう思えるほど、高慢では無かったが、現実に耐え切れる自信は無かった。
『苦しいか?苦しみ続けろ。それしか無い。
だが、周りにそれを晒してダメだ。
お前は、トロメイの当主になるんだから。苦しい時は私に言え。聞いてやろう、だが励ましてはやらん』
ジャニスは、ガラスに残る葡萄酒を一気に飲み干す。
『ただでさえ長い戦で、数え切れぬ程人間が死んだんだ。
せっかく…それでも生きながらえたのに、なぜこんな事で死なねばならんのか…
目の前の金に目が眩んだか?金なぞどうとでもなるというのに。
商いが出来る世の幸せを、お前は分からなんだ。もう充分だ、人が死ぬのは…これ以上はもういい』
ジャニスの涙がランプに照らされキラキラと光る。
それもそうだ…ジャニスも、妻を亡くしたばかり…とギュルは何も言えない。
ジャニスは声を詰まらせて、それでもギュルへ投げかける。
『お前はお前の役目を果たせ。
死んではならん、決してな。
私は私の役目を果たそう。
当主の座を、決して投げ出すな』
自らの役目は、お飾りでも良い当主を当主然として生きる事。
例え無能と陰で囁かれても、末代まで恨まれるような事をしても…毅然とその座を全うする事。
罰だと思うことさえ贅沢だ。
ハーレを見ながら、誰も知らぬ話をギュルはぼんやりと思い出す。
『とは言え、婚姻を結んでも逃げられては困りますわ。ミネの相手位はトロメイに留まって貰わねば』
ハーレは葡萄酒に手を伸ばし、ミネの婚姻話に随分と執心する。
余程アクイラの一族が気に入ったのか、自らの立場が危うくなっては困るとアクイラの威光を借りる気なのか…そのどちらもかもしれないとギュルは思った。
『…気が早いのでは無いか。自分の事を棚に上げ、よく言うものだ』
ギュルは冷たくそう溢す。
『お母様だって!私にもお父様は居ないじゃないですか!私は気に入った相手の種だけで良いのです。
そういう主義だったのです、トロメイでは珍しくもありません。
トロメイにも男手は必要ですが、息子達…イズゼトもティムールもトロメイには寄り付かないので、もう当てには出来ません…
女でも出来たのでしょう。所詮息子など、女が出来れば他人になるのです。
やはり産むなら女。男と分かっていれば産みませんでした』
フンと鼻を鳴らして機嫌を悪くするハーレに、ギュルの体は指先から血の気が引き始める。
私に出来る事…せめて出来た事でもこんな具合かと、まざまざと見せつけられる。
何度も何度も、最愛の娘がギュルを罰し続けるのだ。
船の事故以来、ギュルは数え切れない程神殿へ足を運んだ。
誰にも見つからない様に、真夜中や朝方に誰も居ない神殿へ向かう。
神とてそこに居るかは分からない。
胸元に仕舞う、3本の線が伸びた女神のシンボルを取り出す。
『…歌ってください、女神よ。私の舌を使って…』
震える小さく微かな声が、ガランとしら石造りの神殿に響く。
祈る習慣はこの地には無いが、祭儀で唱えられる祈りの言葉を捧げる。
そうせずにはいられない。
どうか耐えられる様に。
使命を全うできる様に。
涙が溢れる事がない様に。
愚かで無力な自らを強くたらしめる、力を下さい、と。
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