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点睛

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 これは本当に現実なのだろうか
 信じられない
 まさかそんな事が自分の身に…と思っている間に、抗えない程の強い力で抑え込まれ口元にハンカチを当てられた。
 
 強い刺激臭に鼻を摘む事は不可能で、吸い込めば一瞬で意識は真っ暗闇に落ちていった。
 
 
 
 ザイラが重い瞼を開けると、少し先に僅かに射し込む光がある。
 
 体を少し起き上げ、辺りの様子を見た。
 
 天井の小さな天窓は塞がれているが、その隙間から光が漏れていた。
 
 
 固いベットの上に居るようだが、本当にベットかは暗くてよく分からない。
 
 ここがどこかは分からない。
 だが、自分は拐われどこかに閉じ込められているのは分かった。
 
 なぜ拐われたのか…
 目が覚め興奮状態であっても、どう切り抜けるか考えるために頭は冴える。
 
 ただ、どこからか鼻に付いて取れない甘ったるい香りがしてきて、恐怖心を煽る。
 あの名ばかりの、楽園・・の香りだ。
 
 微かな光は昼間だと教えてくれるが、そう考えれば既に半日以上は経っている。
 
 誰にも行き先を告げなかった事は裏目に出たな…
 とザイラは溜め息を吐いた。
 
 ただ、ちょっとだけ出掛けたかっただけなのに…
 
 もう一度横になり、体を抱えて丸くなると、品の良い香水の香りがした。
 ザイラの頭の下に、あのジャケットが敷いてあった。
 春の楽園の匂いから逃げるようにそのジャケットを抱きしめて顔を埋める。
 
 先程までの、満ち足りた時間が少し蘇る。
 
 ケーキ、こんなことなら食べとけば良かったな…
 
 ケーキの小箱もブーケも無い。
 
 やはり、夢だったのかも
 随分呑んだし
 
 そう思えた方が楽だ。
 今の状況を思えば。
 
 暫くボーッとしていると、カチャリと何かを開けるような音がして、そこから少しだけ光が漏れた。
 途端にギョロリとした目が現れて、こちらを見ている。
 
「おい、起きたみたいだぞ」
 
 野太い男の声がした。
 
「あの方に連絡しろ、いつまで置いとくんだこの女」
 他に2、3人外に人が居るようだ。
 
 あの方…フェルゲイン侯爵?
 アイヴァン…である可能性は限りなく低いだろう。
 そう簡単に帰してくれるはずもない。

 
 フェルゲイン侯爵にもう殺されるのか…いやいやいや早くない?
 
 だってまだ領地の計画だってそんなに進んで無いはずだ。
 この前の別邸で北の氏族に面目が立たなかった?
 ミア嬢が妊娠したから、跡取りは出来たしもう良いと?
 まだ1人だけなんて心許ないだろう。
 侯爵がこれで安心するはずがない。
 血が繋がっていないとはいえ、自分は一応3人も設けたのだから…


 
 それにこの甘い香り…
 
 まさか…アイヴァンが?いや違う、そんなはず無い。アイヴァンはあの麻薬をどうこうしようとは思わない。
 私はもう、そう信じると決めたのだ。
 
 
 ザイラはジャケットを強く抱きしめた。
 あの甘い香りを誤魔化せるものがあって、どれだけ救われてるだろうか。
 
 レオが居てくれたら…
 
 起こりもしない妄想が余計に自分を心細くするので、ザイラはそれをやめた。
 期待も希望も抱くだけ、その後の絶望が濃くなる。
 
 
 まだガヤガヤとする壁か扉の向こうが少しだけ開き、お盆に載せられた何かが乱暴に床へ置かれた。
 
「食べろ。死なれると困る。馬鹿な真似は考えるな。大人しくしてれば何もしない」
 姿の見えない声はそれだけ告げて、扉は閉められた。
 
 
 この状況で食べる気が起きると思うのか…食欲は全く湧かない。
 
 
 だが…ザイラは生き抜きたいので、貪欲にそのお盆に手を伸ばした。
 

 
 
 
『殿下、事は急を要します』
 
『分かっている』
 
 レオは感情を押し殺し、務めて冷静にフィデリオに指示を仰ぎ続けている
 
 
 あの後、通行人を捕まえて鞄を渡し、夫人が拐われた事を屋敷に伝えて欲しいと頼んだ。
 自分は行くわけにはいかない。
 身元を聞かれれば面倒な事になるからだ。
 
 立場が、また邪魔をする。
 ただ1人を助けるためにも。
 
『フェルゲインの屋敷とタウンハウスは?』
 フィデリオは髪を掻き乱しながら落ち着かないように窓の前で行ったり来たりを繰り返す。
 
『侯爵家は何も…フェルゲイン卿の妹が、愛人の件で…憤慨し使用人達が手を焼いていると聞きましたが…。
 フェルゲイン卿の屋敷では使用人達が騒いでますが、いまだに警察にも通報していません。卿の指示です』
 
 レオは力の限り自らの拳を握りしめる。
 冷静にならなくてはならないのに、呼吸は浅く、荒くなる。
 
 
『…ふっ。愛人とその腹の事で手一杯か。』
 フィデリオは堪えず嘲笑った。
 確かに今の状況では拐われたとはいえ安易に動く事は出来ない。
 
 本当に拐われたとしても、今の夫人の立場なら家出、失踪もあり得る。
 愛人は身籠り夫はそちらにかかり切りで屋敷にも帰って来ない…理由としては充分だ。
 侯爵はその方向で納めたい所だろう。
 
 アイヴァンが警察に通報していない点でも侯爵の顔色を伺っているのが分かる。
 
 
 
『……しかし…。
 舐められたものだ…
 夫人の今の状況をマルガリテス…いや、トロメイの者が聞いたら、一体どんな報復を受けるか…。
 この王国の人間は、我が国や同胞をどうも軽んじているらしい。
 春の楽園もそうだが…いつまでも我等が黙っていなければならない理由も、…そろそろ尽きる…』
 
 フィデリオも、そろそろ威厳を示さなければならない。
 掻き乱した髪を後ろに撫で上げる。
 
 いつまでも状況や立場を考えて、
 皇族らしくスマートに…
 
 するのも終わりだ。
 
 
 
『…クレイグの言った通りだったな。だが、まだ証拠が要る。この国の王族や貴族共の鼻をへし折るためにな。間者にはもう既に夫人を見つけ次第合図を送れと知らせた。
 大義名分はもうそれで良い。
 夫人は生きて取り返さねばならない、絶対に』 
 
『…私も行かせて下さい』
 
 レオはフィデリオの前に一歩進み出た。
 
『私には責任があります』
 最後まで送り届けなかった、責任というより自らを押し潰す程の後悔が絶え間なくレオを襲い続ける。
 
『ダメだ』
 フィデリオはレオをその苦しみから解放する気はない。
 
 
『なぜですか!?必ず救い出します』
 レオの美しい瞳はフィデリオに縋るように揺れ動いた。
 
『今のそなたは感情移入し過ぎている。夫人は必ず、生きて取り戻さなければならない。王国の者に見つかる前にな。
 そして、これを企てた者も捕らえなければならない。生きて、必ず』
 こんな場合でも後のために駆け引きが重要だ。
 
 フィデリオは生きて、必ずを強調してレオに説いた。
 
『…今のお前なら、迷わず殺すだろう』
 
 フィデリオには分かる。
 幾らレオが冷静さを保とうとしていても、抑えきれない殺意と憤怒がチラついている。
 
『冷静さを欠いてる者に重要な任務は任せられない』
 フィデリオから口を突いて出た言葉は、発するつもりがなかったものだ。
 自分もまた、冷静でないのかもしれないとフィデリオは思った。
 
 
 レオの瞳から急速に光が失せ、仄暗い影が落ちる。
 一応の挨拶のため頭を下げ、レオはフィデリオの側を離れ、部屋を出て行った。
 
 
 
 
『盲目的な愛の為か…。血は争えないな…』
 フィデリオの小さな独り言だけが、広い部屋に響く。
『だが…そなたは違う、と私は信じている。……信じさせてくれ…』
 そなたの父とは違う、と…。
 
 
 自らと同じく、厄介な血筋を持つ者だから惹かれたのかもしれないな…
 
 フィデリオに感傷に浸る時間は無い。


 顔を上げて、前を向き直す。
 全ての憂いを終わらせる覚悟で。
 
 
 
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