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第四章 目覚めた力の使い道
最終話.歩いて行く日々
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朝からなんやかんやとあって疲れ切ってはいたものの、なんとか着替えて食堂に向かえばギルバートが食事を用意してくれていた。
「ありがとう」
ふよふよと運ばれてくるお皿に礼を言えば、ギルバートがふっと笑んだ。
「シェリア様にはしっかりと体力をつけてもらわねばなりませんからね。これからいろいろと試すのですから」
どうやら引き続き執事のギルバートのままでいてくれるらしい。
慣れているこちらの方が助かる。心臓が持たないから。
「試すって、例えばどんなことを?」
「昨夜はずっと抱き合っていれば消えるのではと試してみましたが、私が大変満足した半面贅沢にも物足りなさが抑えきれなくなりそうなのをひたすら理性で耐え忍ぶという非情に色濃い時間ではあったものの、吸血鬼としての力がどうなったかと言えばあまり効果は見られないようでしたからね。別の飢えと戦っていたせいか、血の飢えは感じませんでしたが、永続的な効果を得るためにはもっと時間が必要なのかもしれませんが、そちらは今後も試していくとして。あと考えられるのは、血をいただくことでしょうかね」
「でも、今までだって血は飲んでたじゃない?」
「それは新月の力の弱まるときに少量だけでしたから。量を増やしたらどうか、頻度を増やしたらどうか、と試してみるしかないと思いますよ」
なるほど。だから貧血になってしまわないために、たくさん食べろということか。
「ダメならもっと直接的な方法を試してみればいいのですよ。表面に触れるだけでダメならば、もっと深く互いを――」
意味するところがわかってしまった気がして、私は慌てて言葉の先を奪った。
「できることからやってみよう! それはそうと。ずっと気になってたんだけど、ユリークはどこにいるの?」
昨日から気になってはいたのだが、聞く暇がなかったのだ。
エヴァはあの後すぐに旦那さんの元に帰ったとは聞いていたけど。
問えば、ギルバートは「ああ」と軽く受けて驚くことを言った。
「ユリークは、アンレーン家におりますよ。私の後任の執事として」
「え? ユリークが?! どうして!」
「ミシェル様の悪評が知れ渡り過ぎて、優秀な執事のなり手がいなかったのですよ。かと言って適当な者に任せでもしたら、シェリア様が落ち着いてこの城で過ごせなくなるでしょう。ですからそこそこに優秀な執事が雇えるまでの中継ぎとして、ユリークに頼んだのですよ」
「なんで言ってくれなかったの?! 私だってユリークに会いたかったのに」
「だからですよ」
むくれるように言われて、もしかして嫉妬? と首を傾げる。
言葉にしなくても伝わったのだろう。
さらにむっとしたように口元の歪みが深まったけれど、珍しくわかりやすいその顔に、思わず笑ってしまった。
「ユリークならミシェルにも負けずにやってくれそうね」
笑いながらそう言えば、ギルバートはやれやれというように嘆息し、しかめ面を解いた。
「ええ。その点は心配ないでしょう。ユリークの方がミシェル様より数段上ですから。皮をかぶるのも、口も。論破されて号泣するミシェル様の姿が目に浮かぶようです」
「少しくらい現実を見た方がいいわね、あの子も」
二人の様子が気になり過ぎるから、落ち着いたらギルバートと二人で実家に帰ろうと心に決めた。
その時だった。
「……ぅぉおーい」
窓の外から呼びかける声が聞こえた気がして、ギルバートと目を合わせた。
「この声は。なんか、聞いたことがあるような気がするんだけど」
「残念な奇遇ですね。私も聞き覚えがあります」
仕方なくかちゃりとスプーンを置き、立ち上がる。
玄関からギルバートと共に外に出れば、そこにいたのはヴルグだった。
「おお、シェリア!」
「ヴルグ、一体こんなところまで何をしに来たの?」
「邪魔ですよ。今すぐに帰ってください」
ギルバートはにべもない。
わざわざこの山を登ってきたのだから、用件くらいは聞いてもいいかと思う。
「いやあ、俺考えたんだけどさあ。やっぱり俺にとっては退魔師とかなんとかわっかんないわけ。得体が知れないわけ。そんな謎なもんを放ってはおけないわけよ。だからさあ、しばらくここに泊まり込んで観察するわ」
何故そんな結論になるのかさっぱりわからない。
私が「断る」と声を発するよりも早く、凍てつくようなギルバートの声が、悪気なくにやにやとした笑みを浮かべるヴルグに氷のように向かっていった。
「選択肢は帰るか、今ここで八つ裂きにされるかだ。二秒で選べ」
「おいおい、こんなに俺より血の気が早いやつ見たことないんだけど。まあそう邪険にするなって。しばらくの間でいいからさあ」
いいわけがない。
なんと言えば大人しく帰ってくれるのかと、頭を巡らせる。ミシェルとはまた扱い方が違うので難しい。
思わず思考に沈む中に、またもや遠くから誰かの声が聞こえた気がした。
「うあぁぁあああああぁぁあん」
それは泣き声だった。
エヴァの。
黒いコウモリの翼で勢いよく滑空してきたエヴァは、私の姿を見つけるとそのままの勢いで私に抱きついてきた。
「うっぐ……! エヴァ、勢いが全然殺せてない!」
当然私はエヴァともども地面に倒れ込みそうになり、寸前でギルバートが抱き留めてくれた。
「何をしているんですか、あなたまで――」
「シェリアぁぁぁぁぁ、ぎるばぁとおおぉぉぉ!! あの人が、あの人がねえええ」
「また喧嘩ですか。そういうのはそっちの中だけでやってくださいよ。外野を巻き込まないでください」
「あんただって十分巻き込んでるじゃないのよ」
意外と冷静なエヴァに返され、ギルバートは確かに、というように黙って頷いた。
「おお、なんだ他にも客がいるんなら俺が邪魔したって同じだな。そういうわけで上がらせてもらうなー」
エヴァに絡みつかれている間に、ヴルグはすたすたと玄関に向かって歩き出していた。
「ちょ、ちょっと待ってよヴルグ! いいとは一言も」
慌てて首を振り向けた私の耳に次に飛び込んで来たのは、もっと聞き慣れた声だった。
「おねえざまあああああ!! あいつ、あいつなんとかして!! ユリークって新しい執事がもんのすごく生意気なのよ!」
「ミシェルまで……あなた、助けを求めるのが早すぎない? もう少し自分でなんとか踏ん張れないの?!」
「だってあいつ、全っ然へりくだらないのよ! 全然従わないのよ!? それどころか小うるさくあれこれあれこれ言ってきて、もう耳がおかしくなりそうよ! あんなやつクビよって言ったのに、お父様は取り合ってくださらないし。おねえさまからもなんか言ってよおおおおおおぉぉぉ」
山を駆け上がるようにして泣きながらやってきたミシェルの後ろからは、ポケットに手を突っ込んだユリークがぽこぽこと歩いて来る。
「ギル、シェリア、ごめんね。このお嬢様が本当に言うこと聞かなくてさあ。まあ、なんだかんだでシェリアに会いたかったから僕もきちゃったけど」
えへ、と小首を傾げて言われれば、私の手はユリークの頭を猛然とぐりぐり撫でていた。
「いいのよ、ユリーク。その苦労は私には痛いほどわかるわ。大変よね。そんな仕事を押し付けてしまってこちらこそごめんなさい。心の底から謝るわ」
「いいんだ、ギルバートが城にいるなら僕は暇になるし。せっかくだから、これ以上シェリアに面倒をかけないようにしっかり調教しておくね。城にいたときよりもやりがいがあって楽しそうだよ」
そう言ってユリークは、ふふふ、と笑った。
私もふふふ、と笑い返したけれど、不穏な単語が耳に残った。
ユリークの隣でミシェルが「ひっ」と身を縮め、二歩、三歩と後退していったけれど、すかさずその腕は掴まれた。
「どこへ行くの? 危ないよ」
そう言ったユリークの顔は、とても楽しそうに笑っていた。
うん。ミシェルのことはユリークに任せることにしよう。
それでもミシェルに手を焼くのは容易に想像できたから、重ねて謝った。
「本当、役に立たないお父様とこんな妹が当主とか、終わってるわよね。そんな家を任せてしまってごめんなさい」
「ああ、確かに二人は終わってるなと思ったけど、ミシェル様のお母様って人が、何かとしっかり指示を出してくれたよ。あの人は唯一まともだね」
その言葉に、私は思わず目を瞠った。
「お義母様が? 口を出したの?」
「うん。ちゃんと家のことはわかってるみたいだよ。あの人だけだね、使えるのは」
あの後、父と義母が会話を交わすようになったり、義母にも少しずつ変化があったのは知っていたけど。
それでも、そんなふうにちゃきちゃきと指示している姿など見たことがない。
それも、私がいなくなったからなのだろう。
やっと義母は、自分を、自由を取り戻せたのかもしれない。
ミシェルとは違って、義母と私はやはり家族になるのは難しかった。
お互いに歩み寄ろうとしなかったわけではない。
視線のどこかで、探り合うようなものがあったのは私にもわかっている。
けれど、変わるものがあるように、変わらないものだってある。
それぞれが努力を始めたところで、何もかもがすべて正しく回るわけではない。
これも確かな現実だ。
物思いに耽っていると、後ろから両腕を抱えるようにして引き戻された。
ギルバートだ。
「シェリア様。ユリークは十六歳です。頭を撫でる子供の時期はとうに過ぎておりますよ」
「あれ? ギル、まだシェリアの執事やってるんだ」
ユリークは意外そうに目を丸めて、それからピンときたように口元を笑ませた。
「ああ……なるほどね。やり過ぎて怖がられちゃったかな? そうだよね、そりゃショックだよね。男にとって拒まれることほど再起不能になることはないもんね」
全てを見通したかのようににこにこと笑みを向ければ、ギルバートの冷ややかすぎる視線がユリークへと突き刺さって行った。
けれどユリークはものともせずに、三割増しの笑みを返した。
「まあ、焦らず頑張ってね、ギル。シェリア、ギルに何か怖いことされたら、僕の所に逃げてきてもいいんだからね。僕はいつでもシェリアを受け入れるから」
ギルバートと私にそれぞれ笑みを向けたユリークに、私はきゅんとして指を組み合わせた。
「ありがとう、ユリーク!」
しかし落ち着いて話している暇はなかった。
「おねえざまああああ、なぜそのエセ執事と仲良くなさってますのおおおおお! おかしいわ、私なんて頭を撫でてもらったことなどないのに――あっ」
そうか、撫でてほしかったのか、と思いずかずか戻って来たミシェルの頭を撫でてやると、最初は頬を赤らめ、それからとろんとしたように大人しくなった。
「おお、なんだこの玄関、しゃれてんなあ。っていうかマジで城に住んでるんだな。中もすごそうだなー」
「シェリア、旦那が反省するまでしばらく部屋借りるね! 二人の邪魔はしないから。私の部屋は二人の寝室から遠く離れてるから、私のことは気にしなくて平気だからね! 何してもいいから、本当に気にしないで!」
「ははははは、なんだか大変そうですねえ、少し僕もお手伝いしますよ」
ヴルグとエヴァ、それからユリークもそれぞれに中へと入っていき、はっと意識を取り戻したミシェルも、どんなところなのか気になったのか、しっかりと三人の後について行った。
◇
外に残された私はギルバートと目を合わせ、揃ってため息を吐いた。
しばらくはこんな日々が続くのだろう。
とても落ち着けそうにはない。
だけど。
こんな騒々しい日も悪くはないなと思った。
そんな風に思う日が来るなんて、ギルバートと出会った頃の私は想像もつかなかっただろうけど。
「そのうちあのエセ王子も来そうだな」
ぽつりとギルバートが呟き、本当にありそうだな、と思って私は笑ってしまった。
「よかった」
再びギルバートの呟きが聞こえて、私はギルバートを振り仰いだ。
「こちらへ来て後悔しているのではないかと思っていました。ですが、ちゃんと笑ってくださいましたね」
言われて、気が付いた。
今日はやけに笑っているような気がする。
私が接している人たちは同じなのに。
私はこれからの日々を、今を、心から楽しんでいるのだと思う。
それは、いらないものを捨てて来たからじゃない。
逃げてきたからでもない。
ちゃんと過去から続く今として、今を歩いて、そして前を見ているからだと思う。
私は明日が来るのが、楽しみだ。
その先も。
ずっと先も。
楽しみに思える。
それは私の隣に、私と共に歩むことを決めてくれたギルバートがいるからだ。
「ギルバートに会えてよかったと、心から思うわ。そうでなければ今の私はいなかった。私は今の私が好きよ。ずっと傍にいてくれて、見守っていてくれて、ありがとう」
そう言って微笑めば、何故だかギルバートは一瞬面食らったような顔をして、それから同じように笑んだ。
「私の人生で一番の幸運は、あなたを見つけたことでしょうね。神など信じてはおりませんが、ただその幸運には感謝します」
ギルバートの唇が、そっと私のこめかみに触れた。
「これから、今が一番幸せだってギルに思ってもらえるように、頑張るわ。その先も、ずっとね」
きっと、人間に戻す方法を見つけてみせるから。
心に誓えば、ギルバートがそっと私を包むように抱きしめた。
「逆ですよ。それは私のセリフです」
ギルバートの腕の中で、小さく息を吐いた。
何かが満たされていくような気がした。
出会ったあの頃、何かに飢えていたのはギルバートだけではなかった。
私も同じだったのだ。
人のぬくもりに飢えていた。
今、それが分かった気がした。
私にとっての幸せなんて、簡単なことだ。
ギルバートにとっても、そうであるといいなと思った。
「ありがとう」
ふよふよと運ばれてくるお皿に礼を言えば、ギルバートがふっと笑んだ。
「シェリア様にはしっかりと体力をつけてもらわねばなりませんからね。これからいろいろと試すのですから」
どうやら引き続き執事のギルバートのままでいてくれるらしい。
慣れているこちらの方が助かる。心臓が持たないから。
「試すって、例えばどんなことを?」
「昨夜はずっと抱き合っていれば消えるのではと試してみましたが、私が大変満足した半面贅沢にも物足りなさが抑えきれなくなりそうなのをひたすら理性で耐え忍ぶという非情に色濃い時間ではあったものの、吸血鬼としての力がどうなったかと言えばあまり効果は見られないようでしたからね。別の飢えと戦っていたせいか、血の飢えは感じませんでしたが、永続的な効果を得るためにはもっと時間が必要なのかもしれませんが、そちらは今後も試していくとして。あと考えられるのは、血をいただくことでしょうかね」
「でも、今までだって血は飲んでたじゃない?」
「それは新月の力の弱まるときに少量だけでしたから。量を増やしたらどうか、頻度を増やしたらどうか、と試してみるしかないと思いますよ」
なるほど。だから貧血になってしまわないために、たくさん食べろということか。
「ダメならもっと直接的な方法を試してみればいいのですよ。表面に触れるだけでダメならば、もっと深く互いを――」
意味するところがわかってしまった気がして、私は慌てて言葉の先を奪った。
「できることからやってみよう! それはそうと。ずっと気になってたんだけど、ユリークはどこにいるの?」
昨日から気になってはいたのだが、聞く暇がなかったのだ。
エヴァはあの後すぐに旦那さんの元に帰ったとは聞いていたけど。
問えば、ギルバートは「ああ」と軽く受けて驚くことを言った。
「ユリークは、アンレーン家におりますよ。私の後任の執事として」
「え? ユリークが?! どうして!」
「ミシェル様の悪評が知れ渡り過ぎて、優秀な執事のなり手がいなかったのですよ。かと言って適当な者に任せでもしたら、シェリア様が落ち着いてこの城で過ごせなくなるでしょう。ですからそこそこに優秀な執事が雇えるまでの中継ぎとして、ユリークに頼んだのですよ」
「なんで言ってくれなかったの?! 私だってユリークに会いたかったのに」
「だからですよ」
むくれるように言われて、もしかして嫉妬? と首を傾げる。
言葉にしなくても伝わったのだろう。
さらにむっとしたように口元の歪みが深まったけれど、珍しくわかりやすいその顔に、思わず笑ってしまった。
「ユリークならミシェルにも負けずにやってくれそうね」
笑いながらそう言えば、ギルバートはやれやれというように嘆息し、しかめ面を解いた。
「ええ。その点は心配ないでしょう。ユリークの方がミシェル様より数段上ですから。皮をかぶるのも、口も。論破されて号泣するミシェル様の姿が目に浮かぶようです」
「少しくらい現実を見た方がいいわね、あの子も」
二人の様子が気になり過ぎるから、落ち着いたらギルバートと二人で実家に帰ろうと心に決めた。
その時だった。
「……ぅぉおーい」
窓の外から呼びかける声が聞こえた気がして、ギルバートと目を合わせた。
「この声は。なんか、聞いたことがあるような気がするんだけど」
「残念な奇遇ですね。私も聞き覚えがあります」
仕方なくかちゃりとスプーンを置き、立ち上がる。
玄関からギルバートと共に外に出れば、そこにいたのはヴルグだった。
「おお、シェリア!」
「ヴルグ、一体こんなところまで何をしに来たの?」
「邪魔ですよ。今すぐに帰ってください」
ギルバートはにべもない。
わざわざこの山を登ってきたのだから、用件くらいは聞いてもいいかと思う。
「いやあ、俺考えたんだけどさあ。やっぱり俺にとっては退魔師とかなんとかわっかんないわけ。得体が知れないわけ。そんな謎なもんを放ってはおけないわけよ。だからさあ、しばらくここに泊まり込んで観察するわ」
何故そんな結論になるのかさっぱりわからない。
私が「断る」と声を発するよりも早く、凍てつくようなギルバートの声が、悪気なくにやにやとした笑みを浮かべるヴルグに氷のように向かっていった。
「選択肢は帰るか、今ここで八つ裂きにされるかだ。二秒で選べ」
「おいおい、こんなに俺より血の気が早いやつ見たことないんだけど。まあそう邪険にするなって。しばらくの間でいいからさあ」
いいわけがない。
なんと言えば大人しく帰ってくれるのかと、頭を巡らせる。ミシェルとはまた扱い方が違うので難しい。
思わず思考に沈む中に、またもや遠くから誰かの声が聞こえた気がした。
「うあぁぁあああああぁぁあん」
それは泣き声だった。
エヴァの。
黒いコウモリの翼で勢いよく滑空してきたエヴァは、私の姿を見つけるとそのままの勢いで私に抱きついてきた。
「うっぐ……! エヴァ、勢いが全然殺せてない!」
当然私はエヴァともども地面に倒れ込みそうになり、寸前でギルバートが抱き留めてくれた。
「何をしているんですか、あなたまで――」
「シェリアぁぁぁぁぁ、ぎるばぁとおおぉぉぉ!! あの人が、あの人がねえええ」
「また喧嘩ですか。そういうのはそっちの中だけでやってくださいよ。外野を巻き込まないでください」
「あんただって十分巻き込んでるじゃないのよ」
意外と冷静なエヴァに返され、ギルバートは確かに、というように黙って頷いた。
「おお、なんだ他にも客がいるんなら俺が邪魔したって同じだな。そういうわけで上がらせてもらうなー」
エヴァに絡みつかれている間に、ヴルグはすたすたと玄関に向かって歩き出していた。
「ちょ、ちょっと待ってよヴルグ! いいとは一言も」
慌てて首を振り向けた私の耳に次に飛び込んで来たのは、もっと聞き慣れた声だった。
「おねえざまあああああ!! あいつ、あいつなんとかして!! ユリークって新しい執事がもんのすごく生意気なのよ!」
「ミシェルまで……あなた、助けを求めるのが早すぎない? もう少し自分でなんとか踏ん張れないの?!」
「だってあいつ、全っ然へりくだらないのよ! 全然従わないのよ!? それどころか小うるさくあれこれあれこれ言ってきて、もう耳がおかしくなりそうよ! あんなやつクビよって言ったのに、お父様は取り合ってくださらないし。おねえさまからもなんか言ってよおおおおおおぉぉぉ」
山を駆け上がるようにして泣きながらやってきたミシェルの後ろからは、ポケットに手を突っ込んだユリークがぽこぽこと歩いて来る。
「ギル、シェリア、ごめんね。このお嬢様が本当に言うこと聞かなくてさあ。まあ、なんだかんだでシェリアに会いたかったから僕もきちゃったけど」
えへ、と小首を傾げて言われれば、私の手はユリークの頭を猛然とぐりぐり撫でていた。
「いいのよ、ユリーク。その苦労は私には痛いほどわかるわ。大変よね。そんな仕事を押し付けてしまってこちらこそごめんなさい。心の底から謝るわ」
「いいんだ、ギルバートが城にいるなら僕は暇になるし。せっかくだから、これ以上シェリアに面倒をかけないようにしっかり調教しておくね。城にいたときよりもやりがいがあって楽しそうだよ」
そう言ってユリークは、ふふふ、と笑った。
私もふふふ、と笑い返したけれど、不穏な単語が耳に残った。
ユリークの隣でミシェルが「ひっ」と身を縮め、二歩、三歩と後退していったけれど、すかさずその腕は掴まれた。
「どこへ行くの? 危ないよ」
そう言ったユリークの顔は、とても楽しそうに笑っていた。
うん。ミシェルのことはユリークに任せることにしよう。
それでもミシェルに手を焼くのは容易に想像できたから、重ねて謝った。
「本当、役に立たないお父様とこんな妹が当主とか、終わってるわよね。そんな家を任せてしまってごめんなさい」
「ああ、確かに二人は終わってるなと思ったけど、ミシェル様のお母様って人が、何かとしっかり指示を出してくれたよ。あの人は唯一まともだね」
その言葉に、私は思わず目を瞠った。
「お義母様が? 口を出したの?」
「うん。ちゃんと家のことはわかってるみたいだよ。あの人だけだね、使えるのは」
あの後、父と義母が会話を交わすようになったり、義母にも少しずつ変化があったのは知っていたけど。
それでも、そんなふうにちゃきちゃきと指示している姿など見たことがない。
それも、私がいなくなったからなのだろう。
やっと義母は、自分を、自由を取り戻せたのかもしれない。
ミシェルとは違って、義母と私はやはり家族になるのは難しかった。
お互いに歩み寄ろうとしなかったわけではない。
視線のどこかで、探り合うようなものがあったのは私にもわかっている。
けれど、変わるものがあるように、変わらないものだってある。
それぞれが努力を始めたところで、何もかもがすべて正しく回るわけではない。
これも確かな現実だ。
物思いに耽っていると、後ろから両腕を抱えるようにして引き戻された。
ギルバートだ。
「シェリア様。ユリークは十六歳です。頭を撫でる子供の時期はとうに過ぎておりますよ」
「あれ? ギル、まだシェリアの執事やってるんだ」
ユリークは意外そうに目を丸めて、それからピンときたように口元を笑ませた。
「ああ……なるほどね。やり過ぎて怖がられちゃったかな? そうだよね、そりゃショックだよね。男にとって拒まれることほど再起不能になることはないもんね」
全てを見通したかのようににこにこと笑みを向ければ、ギルバートの冷ややかすぎる視線がユリークへと突き刺さって行った。
けれどユリークはものともせずに、三割増しの笑みを返した。
「まあ、焦らず頑張ってね、ギル。シェリア、ギルに何か怖いことされたら、僕の所に逃げてきてもいいんだからね。僕はいつでもシェリアを受け入れるから」
ギルバートと私にそれぞれ笑みを向けたユリークに、私はきゅんとして指を組み合わせた。
「ありがとう、ユリーク!」
しかし落ち着いて話している暇はなかった。
「おねえざまああああ、なぜそのエセ執事と仲良くなさってますのおおおおお! おかしいわ、私なんて頭を撫でてもらったことなどないのに――あっ」
そうか、撫でてほしかったのか、と思いずかずか戻って来たミシェルの頭を撫でてやると、最初は頬を赤らめ、それからとろんとしたように大人しくなった。
「おお、なんだこの玄関、しゃれてんなあ。っていうかマジで城に住んでるんだな。中もすごそうだなー」
「シェリア、旦那が反省するまでしばらく部屋借りるね! 二人の邪魔はしないから。私の部屋は二人の寝室から遠く離れてるから、私のことは気にしなくて平気だからね! 何してもいいから、本当に気にしないで!」
「ははははは、なんだか大変そうですねえ、少し僕もお手伝いしますよ」
ヴルグとエヴァ、それからユリークもそれぞれに中へと入っていき、はっと意識を取り戻したミシェルも、どんなところなのか気になったのか、しっかりと三人の後について行った。
◇
外に残された私はギルバートと目を合わせ、揃ってため息を吐いた。
しばらくはこんな日々が続くのだろう。
とても落ち着けそうにはない。
だけど。
こんな騒々しい日も悪くはないなと思った。
そんな風に思う日が来るなんて、ギルバートと出会った頃の私は想像もつかなかっただろうけど。
「そのうちあのエセ王子も来そうだな」
ぽつりとギルバートが呟き、本当にありそうだな、と思って私は笑ってしまった。
「よかった」
再びギルバートの呟きが聞こえて、私はギルバートを振り仰いだ。
「こちらへ来て後悔しているのではないかと思っていました。ですが、ちゃんと笑ってくださいましたね」
言われて、気が付いた。
今日はやけに笑っているような気がする。
私が接している人たちは同じなのに。
私はこれからの日々を、今を、心から楽しんでいるのだと思う。
それは、いらないものを捨てて来たからじゃない。
逃げてきたからでもない。
ちゃんと過去から続く今として、今を歩いて、そして前を見ているからだと思う。
私は明日が来るのが、楽しみだ。
その先も。
ずっと先も。
楽しみに思える。
それは私の隣に、私と共に歩むことを決めてくれたギルバートがいるからだ。
「ギルバートに会えてよかったと、心から思うわ。そうでなければ今の私はいなかった。私は今の私が好きよ。ずっと傍にいてくれて、見守っていてくれて、ありがとう」
そう言って微笑めば、何故だかギルバートは一瞬面食らったような顔をして、それから同じように笑んだ。
「私の人生で一番の幸運は、あなたを見つけたことでしょうね。神など信じてはおりませんが、ただその幸運には感謝します」
ギルバートの唇が、そっと私のこめかみに触れた。
「これから、今が一番幸せだってギルに思ってもらえるように、頑張るわ。その先も、ずっとね」
きっと、人間に戻す方法を見つけてみせるから。
心に誓えば、ギルバートがそっと私を包むように抱きしめた。
「逆ですよ。それは私のセリフです」
ギルバートの腕の中で、小さく息を吐いた。
何かが満たされていくような気がした。
出会ったあの頃、何かに飢えていたのはギルバートだけではなかった。
私も同じだったのだ。
人のぬくもりに飢えていた。
今、それが分かった気がした。
私にとっての幸せなんて、簡単なことだ。
ギルバートにとっても、そうであるといいなと思った。
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──私の婚約者であるノエル・ネイジュ公爵は婚約を結んだ途端そう言った。
リナリア・マリヤックは伯爵家に生まれた。
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リナリアは屋敷でまるで奴隷のように働かされることとなった。
屋敷からは追い出され、屋敷の外に建っているボロボロの小屋で生活をさせられ、食事は1日に1度だけだった。
しかしリナリアはそれに耐え続け、7年が経った。
ある日マリヤック家に対して婚約の打診が来た。
それはネイジュ公爵家からのものだった。
しかしネイジュ公爵家には一番最初に婚約した女性を必ず婚約破棄する、という習慣があり一番最初の婚約者は『生贄』と呼ばれていた。
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そしてリナリアは見た目だけは美しい公爵の元へと行くことになる。
名前はノエル・ネイジュ。金髪碧眼の美しい青年だった。
公爵は「あなたのことを愛することはありません」と宣言するのだが、リナリアと接しているうちに徐々に溺愛されるようになり……?
※「小説家になろう」でも掲載しています。
【完結】誰にも相手にされない壁の華、イケメン騎士にお持ち帰りされる。
三園 七詩
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