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第一章 伯爵令嬢と吸血鬼

3.執事の皮をかぶった何か

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 貴族の子息子女が通う学院に向かう馬車の中。
 私の向かいには何故かギルバートが共に馬車に揺られている。

 仕事しろよ、と言いたくなるが、これが彼の本来の仕事ではある。
 執事は私との契約を果たすために都合のいい隠れ蓑に過ぎないのだから。

 とはいっても、うちの万能執事が仕事の手を抜くことはない。
 執事の仕事は今も、彼の分身にやらせていることだろう。
 ギルバートは自在にその姿を変えられるし、自分そっくりの影を作り出して動かすこともできる。

 この吸血鬼は太陽も平気だし、にんにくも平気で食べる。
 血だって一か月摂取しなくたって死ぬことはない。

 およそ弱点というものが見当たらない。

 私が物語などで知る以上に、吸血鬼とは便利なものだ。 

 ギルバートは朝の仕事を終えてひと心地ついたのか、立てた膝に頬杖をついたやる気のない格好で馬車の窓から外を眺めていた。

「本当に人とは無駄な時間を過ごすのが好きなものだな。毎朝毎朝、よくも飽きない」

 二人でいるときも慇懃な言葉遣いを崩さないギルバートは、時折こうして素のままの本音を呟く。
 そんな口調は出会ったあの時と変わらない。
 慇懃な執事の皮をかぶっているだけで、その本性だって変わってはいない。

「好きじゃないわよ。なんとかしたいけどどうにもならないのがミシェルなのよ」

 だけど、こういうギルバートの他人事な言葉に、あの頃の私は救われた。
 義母とミシェルに辛く当たられ、疲弊していたところに今と同じようなことを言われ、はっと目が覚めた心地だった。
 そうだ、どうでもいいじゃないか、と思えた。
 義母とミシェルが私の存在価値を決めるわけじゃない。
 どう言われようと、何をされようと、私の何かが変わるわけじゃない。
 私は私だ。
 そう思えた。

 それから開き直った私は、相手にせずうまく受け流すようになった。
 ギルバートにもミシェルと私のことはただの姉妹喧嘩だから手を出すなと厳命しているけれど、それでも愚痴る相手がいるというのは救いだった。
 だからギルバートには感謝している。

 たとえ食糧として狙われているだけなのだとしても。

「ミシェルはどうしてああも私に突っかかるのかしらね。私が邪魔なのはわかるけど、どうせもうすぐ私はあの家を出るのに」

「ミシェル様はシェリア様がお好きですからね」

 からかうでもなく、当たり前のことを口にするようなギルバートに私はげんなりと肩を落とした。

「今朝の光景がギルバートにはどう見えていたのか、覗いて見てみたいわ」

「おや。見てみますか? 対価は――」

「言葉のあやよ」

 きっぱりと否定すると、ギルバートはつまらなそうに銀縁眼鏡を押し上げ、「そうですか」と返した。
 本当に油断ならない。

「ミシェル様のことも、お望みであれば手をお貸しいたしますよ?」

「いいわ、やめて。あれは姉妹喧嘩だから」

 何でもできてしまうギルバートが間に入っては不公平になる。
 それに何より、誰かが私の肩を持てば、ミシェルの怒りは増すばかりだ。
 過去には侍女をこの家から追い出してしまったこともあるし、激昂したミシェルがエスカレートするばかりだ。

 だからギルバートを始めとした使用人たちには、見て見ぬふりをするように言っている。
 これが一番の平和だ。
 何より、態度には出さずともみんなが味方でいてくれていることを私は知っているから、それで十分なのだ。
 
 食い気味に言葉を差し挟んだ私に、ギルバートは口の端で笑って銀縁眼鏡を押し上げた。

「頑なですね。いくらでも甘えてくださればよろしいのに。何でもお願いをかなえてさしあげますよ?」

 これだよ。
 隙あらばおやつのように血を得ようと狙ってくるのだから、油断も隙もあったものではない。

 前に怒りに駆られてギルバートに『やっておしまい!』を発動したとき、『あとで対価をいただきます』と言う言葉をよく聞きもせず了承してしまった。彼がニヤリと嗤ったと気付いた時には既に遅かった。
 彼の働きは素晴らしいものだった。だけど私は、次の日を休む羽目になるほどぐったりとして動けなくなった。
 新月の日とは比べものにならないほど、報酬をぶん取られたのだ。彼の働きに見合う分だけの。

 以来、契約にないは慎むようにした。
 私が干からびてしまいかねないから。
 何より、血を狙われているというのはいい気のするものではない。
 蛇に睨まれた蛙のように、居心地が悪くて仕方ない。

「シェリア様も既に十七歳。八歳の頃にお仕えしてから実に九年が経ちました。ここに至るまで、まだかまだかとお待ち申し上げておりましたが、あなたの成長を見守るのはそれはそれで大変たのしゅうございました」

 急に語り出した。

「何、どっかに帰るの? お別れ前の挨拶?」

「いえいえ。つい感極まって万感の思いを語り出してしまっただけのことですよ。あと一年。あと一年で、私のこれまでの望みが――報われる日がくるのです」

 その言葉に、じとっとギルバートを見る。

「ねえ。改めて確認させてもらうけどさ。私を殺すつもりはないのよね? 契約を果たしても、私に害はないのよね? 用済みになった途端、血を吸い尽くすとか、私が吸血鬼になっちゃうとかさ」

 もっと言うと、八歳の頃にした約束だからといって忘れてるわけではない……のよね?
 あれは今も有効?

「ええ、勿論ですよ。契約後も同様です。ついでにお話しさせていただくと、いくら八歳の子供と言えど、吸血鬼と一度交わした約束は反故にはなりませんよ。あれは私とあなたの血の契約ですから」

 心を読むな。
 しかしやっぱりか。
 騙されたようなものなのだから、無効だと言い立てても時すでに遅し。
 どんなに言い募っても、口の端を笑みに象って、無情にも首を振るばかりだった。
 それは今も変わらないらしい。

 ギルバートは安心させるように口の端を笑ませた。

「私があなたを害することはありませんよ。血をもらうのだって、指に傷をつけさせてはいただきますが、ちょっとです。先っぽだけです」

「それ絶対嘘なやつだよね」

「心外です。痛みを感じさせるようなヘタクソではありませんでしょう?」

 言葉を重ねるほど、信用ならなくなるのは何故なのか。
 危ないことなんて何もないからと言って誘い込んでおきながら、のこのこついていったら取り返しのつかないことに巻き込まれてそうな、そんな怪しさが漂っている。

 だって、契約したあの頃はほんの数滴、ぷくりと浮いた血を舐めとる程度だったのに、私が成長するにつれてギルバートが摂取する血の量はどんどん増えていっている。
 今や傷口から血をぐびぐび飲んでいるほどに。

 それが十八歳になったら一体何をするつもりなのかと思うと、不安にだってなる。
 あまりに心待ちにしている様子を見ていると、なおさら。

 それなのに、そもそもの契約の対価である「守る」が発動された記憶がほとほとない。
 ただただ男というものを全て善も悪もなく邪魔そうに遠ざけるだけで、襲い来る刃から「シェリア様、危ない!」とか格好よく助けてもらった覚えなどない。
 仕事しろと言いたくなるけど、そうそう危機的な状況に陥ることなんてないし、そもそも平和に感謝しなければならない。
 だけど、契約のことを考えると払い損な気がして微妙な気持ちになる。騙されて馬鹿高い保険に入ってしまったような気分だ。

 馬車の窓から外を眺めるギルバートの端整な横顔をじっと見つめる。
 ただ傍にいてくれるだけでいい。
 そう思うのは、今でも変わらないけれど。
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