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第1章 アシェント伯爵家の令嬢
第8話
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こんなチャンスは二度とない。
町の外れで幼い弟妹たちと病弱な母親とを一人背負っていたリディが、多額の金を家に残し、自分は侯爵夫人になれるなんて。
そんな幸運、誰が想像しただろうか。
どんなにいい夢でもそんな都合のいい話は出てこない。
やさぐれたような目で通りを歩いていた男の目が、ふとリディの前で止まったとき。
薄汚れたこの顔が、どこぞの伯爵の娘に似ていると、驚愕の目で凝視されたとき。
『やっと見つけた』
腹の底から浮かんで来たような会心の笑みを向けられたとき。
リディの幸運は始まったのだ。
だからそれを逃すわけにはいかない。
愛だの何だのに浮かれていられる令嬢など、かまってはいられないのだ。
そんなものは生活の役には立たない。
そんなものでご飯を食べられはしないのだから。
たとえ想い合った二人を引き裂くことになろうとも。
完全にフリージアの姿となったリディを『行かないで』とすがるような目で見られても。
リディにはリディの役目があるのだから。
何か月もかけて仕込まれた『貴族の令嬢らしい振る舞い』はしっかりと身にしみついている。
フリージアらしさも、この一か月ずっと傍に張り付き、観察し、真似できるようになっていた。
けれどリディはフリージアそのままを模倣するつもりはなかった。
貴族の妻にはなりたいが、一生涯他人のフリをし続けるなんてまっぴらごめんだったからだ。
どうせグレイはフリージアとは長らく会っていない。
成長した姿も見ていないし、どんな娘だったかなどうろ覚えなことだろう。
だから多少本物と違っていても問題はないはず。
このように成長したのだと違和感なく納得できるくらいに、要所だけおさえておけばいい。
そしてこの邸から出てあのうるさい義兄の監視がなくなれば、後は少しずつ素の自分に戻していくのだ。
かぶっていた猫がはがれたのだと思われるくらいに、少しずつ。
だからリディは、フリージアのようにはにかみながら笑みを浮かべつつ、上目遣いにグレイを見上げた。
「長らくご無沙汰しておりました。フリージアでございます」
こっちのフリージアの方がいい。
そう思ってもらえるように。
ずっと邸に閉じこもっていたフリージアなどより、男の扱いは心得ている。
しかししばらくの間、グレイはじっとリディの顔を見たまま何も反応しなかった。
もうバレたのか。
背筋が冷やりとしたが、笑みだけは崩さぬよう、じっと相手の出方を待った。
やがてグレイは、貴族らしい、紳士的な笑みを口元に浮かべた。
「グレイ=リークハルトです。本日はお時間をとっていただき、ありがとうございます」
まるで初めて会った時のような、律儀な挨拶だった。
もう幼い頃に会ったことなんて忘れているのかもしれない。
ますますいけそうな気しかしなかった。
さすがにフリージアが物静かだということくらいは覚えているかもしれないし、そういった話も聞き及んでいるはずだから、大体その枠から外さずにいれば問題はない。
リディは心の中でほくそ笑んだ。
貴族にいいようにされるなんてごめんだ。
自分の人生は自分で生きたいように生きる。
「いいえ、ずっとお会いしたいと思っておりましたの。なかなか体調が思うようにならなくて……」
「そうでしたか」
「でもこれからはいつでもお会いできますわ。結婚するまでにより仲を深めていけたらと」
そうして再びはにかむように笑む。
これで完璧なはずだ。
ちらりとグレイを窺い見れば、最初に浮かべたのと同じ笑顔のまま。
怪しんでいる様子はない。
リディはいける、と確信を持った。
「ですから、私のことはどうか気安くフリージアとお呼びください」
「わかりました」
グレイはそう返しただけで、名を呼ぶことはなかった。
僕のこともグレイと呼んでください、と返ってくるはずだったのに、それもない。
――これはハズレね
この男はきっとモテない。
会話がつまらない男と結婚するのかと少々うんざりしたが、それでも下町でいつ飢えるかわからない日々を送るよりはいい。
お金と地位さえ手に入れてしまえば、リディも家族も幸せに暮らしていけるのだから。
まったく興味の持てない男を相手に、リディはフリージアのような顔を向けながら、しかししっかりと自分を印象づけるように、相手を楽しませる『貴族らしい会話』をひたすらに続けた。
グレイが時折声を出して笑う度に、リディは確信を深めていった。
――チョロイ男
二人は想い合っていたと侍女は言っていたが、たいしたことはない。
フリージアも哀れなものだと、リディは同情すら抱いた。
所詮男なんて、本当のことは何も見ていないのだ。
そして貴族なんて、立場を守れればなんでもいいのだ。
たとえ相手が本物ではなくても。気づかぬうちに入れ替わっていても。
立場さえ同じなら。
町の外れで幼い弟妹たちと病弱な母親とを一人背負っていたリディが、多額の金を家に残し、自分は侯爵夫人になれるなんて。
そんな幸運、誰が想像しただろうか。
どんなにいい夢でもそんな都合のいい話は出てこない。
やさぐれたような目で通りを歩いていた男の目が、ふとリディの前で止まったとき。
薄汚れたこの顔が、どこぞの伯爵の娘に似ていると、驚愕の目で凝視されたとき。
『やっと見つけた』
腹の底から浮かんで来たような会心の笑みを向けられたとき。
リディの幸運は始まったのだ。
だからそれを逃すわけにはいかない。
愛だの何だのに浮かれていられる令嬢など、かまってはいられないのだ。
そんなものは生活の役には立たない。
そんなものでご飯を食べられはしないのだから。
たとえ想い合った二人を引き裂くことになろうとも。
完全にフリージアの姿となったリディを『行かないで』とすがるような目で見られても。
リディにはリディの役目があるのだから。
何か月もかけて仕込まれた『貴族の令嬢らしい振る舞い』はしっかりと身にしみついている。
フリージアらしさも、この一か月ずっと傍に張り付き、観察し、真似できるようになっていた。
けれどリディはフリージアそのままを模倣するつもりはなかった。
貴族の妻にはなりたいが、一生涯他人のフリをし続けるなんてまっぴらごめんだったからだ。
どうせグレイはフリージアとは長らく会っていない。
成長した姿も見ていないし、どんな娘だったかなどうろ覚えなことだろう。
だから多少本物と違っていても問題はないはず。
このように成長したのだと違和感なく納得できるくらいに、要所だけおさえておけばいい。
そしてこの邸から出てあのうるさい義兄の監視がなくなれば、後は少しずつ素の自分に戻していくのだ。
かぶっていた猫がはがれたのだと思われるくらいに、少しずつ。
だからリディは、フリージアのようにはにかみながら笑みを浮かべつつ、上目遣いにグレイを見上げた。
「長らくご無沙汰しておりました。フリージアでございます」
こっちのフリージアの方がいい。
そう思ってもらえるように。
ずっと邸に閉じこもっていたフリージアなどより、男の扱いは心得ている。
しかししばらくの間、グレイはじっとリディの顔を見たまま何も反応しなかった。
もうバレたのか。
背筋が冷やりとしたが、笑みだけは崩さぬよう、じっと相手の出方を待った。
やがてグレイは、貴族らしい、紳士的な笑みを口元に浮かべた。
「グレイ=リークハルトです。本日はお時間をとっていただき、ありがとうございます」
まるで初めて会った時のような、律儀な挨拶だった。
もう幼い頃に会ったことなんて忘れているのかもしれない。
ますますいけそうな気しかしなかった。
さすがにフリージアが物静かだということくらいは覚えているかもしれないし、そういった話も聞き及んでいるはずだから、大体その枠から外さずにいれば問題はない。
リディは心の中でほくそ笑んだ。
貴族にいいようにされるなんてごめんだ。
自分の人生は自分で生きたいように生きる。
「いいえ、ずっとお会いしたいと思っておりましたの。なかなか体調が思うようにならなくて……」
「そうでしたか」
「でもこれからはいつでもお会いできますわ。結婚するまでにより仲を深めていけたらと」
そうして再びはにかむように笑む。
これで完璧なはずだ。
ちらりとグレイを窺い見れば、最初に浮かべたのと同じ笑顔のまま。
怪しんでいる様子はない。
リディはいける、と確信を持った。
「ですから、私のことはどうか気安くフリージアとお呼びください」
「わかりました」
グレイはそう返しただけで、名を呼ぶことはなかった。
僕のこともグレイと呼んでください、と返ってくるはずだったのに、それもない。
――これはハズレね
この男はきっとモテない。
会話がつまらない男と結婚するのかと少々うんざりしたが、それでも下町でいつ飢えるかわからない日々を送るよりはいい。
お金と地位さえ手に入れてしまえば、リディも家族も幸せに暮らしていけるのだから。
まったく興味の持てない男を相手に、リディはフリージアのような顔を向けながら、しかししっかりと自分を印象づけるように、相手を楽しませる『貴族らしい会話』をひたすらに続けた。
グレイが時折声を出して笑う度に、リディは確信を深めていった。
――チョロイ男
二人は想い合っていたと侍女は言っていたが、たいしたことはない。
フリージアも哀れなものだと、リディは同情すら抱いた。
所詮男なんて、本当のことは何も見ていないのだ。
そして貴族なんて、立場を守れればなんでもいいのだ。
たとえ相手が本物ではなくても。気づかぬうちに入れ替わっていても。
立場さえ同じなら。
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