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第二章 ここは魔王城いいところ
1.黒猫の伝言
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もう学生は卒業した。
これからは社会人として、一人で立派にやっていかなければならない。
そう思っていたときに不意にバイトに誘われ、了承もしていないのに早合点して異世界へと飛ばされた。
気づけば頭からは角が生えていて、今まではなかった魔力というのを持っていて、魔法が使えた。
その魔法を使って、人々を助けていかなければならない。
――私が? ただの一般人だった、私が?
内心ではずっと戸惑っていた。
けれど魔王クライアから力を受け取ってしまった以上は、珠美がやらなければ人々が困ってしまうのだ。
そう思って、必死にここまで歩を進めてきた。
そうしていざ魔王城へ入れば、ますます歓迎ムードで。
珠美は多大な期待が寄せられているのだと実感せざるを得なかった。
珠美が魔王代理だということは既に城内に知れ渡っているらしく、遠くの廊下からその姿を見咎めただけでその場で端に寄り、深く頭を下げ通り過ぎるのを待っている。
「日が暮れる前にお着きになってようございました。本日はお疲れでしょうから、明日改めて色々とお話しさせていただければと思います」
そう言って先導してくれているのは、モルランと名乗る老人だった。
モルランの頭髪は裾に白くぐるりと取り巻く程度に残っており、つるりとした頭頂部には白く長い耳が生えていた。
ウサギだ。
ウサギさんだ。
ここは獣人が住む国であり、老若男女が住む。当然男のウサ耳だっているし、初老のウサ耳だっているのだ。
ウサ耳が若い女の子だけのものという思い込みは捨てなければならない。
「私はクライア様の世話役のようなものをさせていただいておりましたが、まさかいきなり姿を消されるなど思ってもおりませんでしたので、それはもう心配しておりました。クライア様はタマ様がいらした世界におられるそうですね」
珠美の短い足に合わせるようにゆっくりと歩きながら、モルランは柔和な顔を振り向けた。
「そう、ですけど……。何故それを知ってるんですか?」
門番もモルランも、珠美が名乗る前から「タマ様」と呼びかけた。クライアのこともモルランにはまだ話していなかったのに。
「あいつらだろうな」
モルランが答えるよりも早く、隣を歩くラースが顎でくいっと前を指した。
「猫の獣人どもだ。そこに黒い尾の猫の獣人がいるだろう」
言われてモルランの背後からひょいっと前方を覗くと、他の人たちと同じように廊下の端に寄り、頭を下げている猫耳の男がいた。
「え? いつの間に? 門の前で別れたはずなのに、どうしてそこにいるの?」
確かに耳も尻尾も黒い猫の獣人が二人でずっとひっついていたことは覚えている。だが、そこにいたのは一人だけだし、服装も城仕えらしくきっちりとしている。
「兄弟なんだろ?」
確かめるようにラースが問えば、モルランが「ええ」と頷いた。
「兄弟から念話で伝言を受け取った彼から、お二人の報告を受けたのです。おかげでお出迎えの準備が間に合いまして、ほっといたしました」
傍まで来ると、黒い尾の男がちらりと顔を上げた。
「仲間たちが世話になったと聞きました。改めてお礼申し上げます」
「いえ、治ってよかったです」
再び深く頭を下げた男に、珠美がぶんぶんと手を振れば、ラースがやれやれと嘆息した。
刃を向けたらそれ相応のことは覚悟すべきだと言いたいのだろう。
そういう世界なのだとわかってはいるが、平和な国で暮らしていた珠美にはまだその考えは馴染まない。
気まずくなり、ラースを見上げ別の話題を振った。
「その念話って、誰でもできるの? ラースもできたりする?」
「いや。種族によってはそういう力を生まれ持つ奴もいるようだが、ほんの一部だ。あとは訓練と相性次第だな。俺の仲間にもそういう奴がいたが、なかなかに便利なものだ」
仲間とは気ままに一人で暮らしていると言っていたラースには意外な言葉だったが、護衛の仲間のことだろうか。
珠美が疑問を差し挟むよりも先に、ラースは黒い尾の男に声を向けていた。
「お前らのボスは、あの白と黒のブチだな?」
そんな毛色の男がいただろうか。
珠美は首を傾げ記憶を探った。
茶トラ、灰色スコティッシュフォールド、白に、黒が二人。
そうだ。確か六人いたはずなのに、あと一人の男がどんなだったかはっきりと思い出せなかった。
黒い尾の男は答えなかった。
「あいつだけずっと気配を消していた。喋ったのもただ一度だけ。あいつが一番の実力者だ。だから奥にいたあいつを狙ったんだが、手前にいた男があれくらい避けられんとは思わなかった。白と黒のブチが押しのけなかったら、正面から当たってたかもな」
いまさらながらにぞっとする。
だがラースはずっとそうした命のやりとりをしてきたのだろう。
ここは平和な日本とは違う。珠美の価値観は通じないのだ。
「おまえらは諜報員だったわけだな」
ラースがそう言えば、黒い尾の男は微かに笑った。そして再び元のように頭を下げてしまう。
諜報員。
つまりは、魔王城に近づく者を牽制するだけでなく、それを城に伝える役割も担っていたということか。
何もかもが日本とは違う。
こんな世界で、珠美は魔王をやっていかなければならないのだ。
プレッシャーが半端ない。重圧が半端ない。
けれどもう前に進む以外に道はない。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
「さて、ラース殿はこちらの部屋でお休みください。夕飯の支度ができましたら呼びにまいります」
「ああ、世話になる」
今から帰ろうとすれば森の中で一夜を過ごさなければならない。
だからラースも今日は泊まっていくのだろうとは思っていたが、そのつもりだとわかり珠美はほっとする。
まだ慣れない場所で一人にされるのは不安だったから。
そんな思いが顔に出てしまっていたのだろう。部屋に入りかけていたラースは苦笑し、珠美の頭をぽんぽんと撫でた。
「後でな」
珠美が頷くのを見届けてから、ラースは部屋に入っていった。
不安な心中を見透かされてしまったことが気恥ずかしいのに、ラースの見守るような視線に、まだ契約は終わっていないのだとほっとしている自分がいる。
明日はきちんとラースに支払いもしなければ。
そう思うと胸に何かが迫ってきたけれど、珠美はそれを無理矢理呑み込んだ。
「タマ様はこちらです」
モルランに促されて頷くが、昨日は同じ部屋であることにあれほど抵抗を感じたのに、今日は一人であることがとてつもなく心許ない。
だが十八歳の乙女として、同じ部屋にしてほしいとはモルランにもラースにも言えない。
閉まってしまったラースの部屋の扉を何も言えず見つめていた珠美は促されるまま再び歩き出すと、前方から一人の男が「おお~! 魔王サマじゃん!」と気安く手を振りやってくるのが見えた。
「ミッドガルド、何故こちらへ」
モルランが慌てるのがわかったが、ミッドガルドと呼ばれた男は構わずに歩みを進めた。
「だって新しい魔王サマが来たって聞いたからさ」
親しげな笑みを浮かべ、珠美の前でぴたりと足を止める。
黒い革のベストから伸びた褐色の腕は太くはないのに引き締まっていて、背中には皮膜のような翼が折り畳まれていた。
コウモリの獣人だろうか。
耳がつんと尖った特徴的な形をしていた。
「謁見は明日以降だと伝えたはずですよ。タマ様はたった今着いたばかりでお疲れです。今日のところは下がってください」
「そうは言ってもよお、この夜の間に作物が枯れたらどうする? あんた責任とれんのかい」
ミッドガルドの顔には変わらず笑みが浮かんでいて、脅すような口ぶりでもない。
だがモルランはぐっと黙ってしまった。
「魔王サマは不在だっつうからずうっと大人しく待ってたんだぜ? 順番待ち一号の俺に魔王サマと最初に話す権利があるだろ」
「ですが、クルーエル国の使者様もお待ちなんですよ。先にミッドガルドの要望だけを聞くというわけには」
「じゃあ、俺の用事を今のうちにちゃちゃっと済ませてくればいい。そしたら明日には隣国の使者様とやらの相手ができる。な、名案だ」
ニカッと笑ってそう言うと、「じゃ、そういうことで」と珠美の腕を掴んだ。
「え?」
「ミッドガルド!」
モルランの制止も珠美の意思もお構いなしで、ミッドガルドは珠美をひょいっと抱き上げ、すたすたと窓に向かった。
「ちょっと、一体何を――」
そんな猫の子のように簡単に抱き上げないでほしい。
確かに今は子供の姿だけれど。
珠美の声など聞こえていないかのように、ミッドガルドは廊下の窓を片手で開け放ち、ひょいっと桟に乗り上げた。
離して、と言いかけた珠美は言葉を失った。
ここは二階だ。
離されたら、落ちる。
「きゃあああああ?!」
昨日の落下の恐怖が蘇り、思わず悲鳴を上げた。
「おい、何事――タマ?!」
騒ぎを聞きつけたらしいラースが扉を開け飛び出したが、その時には既に遅かった。
「大丈夫、俺、夜目が効くから」
そういうことじゃない。
そう思ったのも束の間、ミッドガルドはニッと笑みを浮かべ、夕暮れの空へと向けて飛び立った。
珠美を腕に抱えたまま。
「タマミ!!」
ラースの声がしじまに響く。
「ラース!!」
恐怖で喉が引きつり、大きい声が出ない。
辛うじて呼んだ名はラースの耳に届いたのか。
ラースが顔を歪め、窓の桟を固く握りしめているのが見えた。
「何も誘拐しようってんじゃないのに。みんな大袈裟だなあ」
笑うミッドガルドの胸にしがみつきながらも、珠美の唇は知らずがちがちと震えた。
珠美を支えるのはミッドガルドの腕一つなのだ。
安心、安全に全力を注ぐ日本の乗り物とは違う。シートベルトも安全装置も命綱も何もない。
不意に先日空から落下したときの恐怖が急に思い出されてしまい、珠美の震えが増した。
「いや! 怖い、下ろして!」
「ははは! なんだ震えてんの? なんかいいなあ、それ。クルなあ」
何を笑っているのかと思う。
自分自身に羽が生えている人はいいだろう。飛ぶのにも慣れていて、自分の意思でなんとでもできるのだから。
これがラースだったら、ここまで怯えはしなかっただろう。
その胸にしがみついて、そっと眼下の景色を窺う余裕もあっただろう。
ラースなら万が一にも珠美を落としてしまったりはしないと信じられたから。
けれどこのミッドガルドという男は信用ならない。
一方的で話を聞きもしないし、脳と体が直結しているのではないかというほどに行動が突飛だ。
どんな気まぐれで落とされるかもわからない。
昨日は高い空から落下した珠美は無意識のうちに自分の身を守っていたらしいが、今日もそれができるとは限らない。
珠美は悔しいながらもミッドガルドの胸にしがみつき、ぐっと歯を食いしばった。
そんな珠美をちらりと見おろし、ミッドガルドは楽しそうに笑った。
「ははははは! なんかクセになりそうだなあ」
――くそドSめ。
思わず心中で口汚く罵り、珠美は早く目的地へ着くことをひたすらに祈った。
これからは社会人として、一人で立派にやっていかなければならない。
そう思っていたときに不意にバイトに誘われ、了承もしていないのに早合点して異世界へと飛ばされた。
気づけば頭からは角が生えていて、今まではなかった魔力というのを持っていて、魔法が使えた。
その魔法を使って、人々を助けていかなければならない。
――私が? ただの一般人だった、私が?
内心ではずっと戸惑っていた。
けれど魔王クライアから力を受け取ってしまった以上は、珠美がやらなければ人々が困ってしまうのだ。
そう思って、必死にここまで歩を進めてきた。
そうしていざ魔王城へ入れば、ますます歓迎ムードで。
珠美は多大な期待が寄せられているのだと実感せざるを得なかった。
珠美が魔王代理だということは既に城内に知れ渡っているらしく、遠くの廊下からその姿を見咎めただけでその場で端に寄り、深く頭を下げ通り過ぎるのを待っている。
「日が暮れる前にお着きになってようございました。本日はお疲れでしょうから、明日改めて色々とお話しさせていただければと思います」
そう言って先導してくれているのは、モルランと名乗る老人だった。
モルランの頭髪は裾に白くぐるりと取り巻く程度に残っており、つるりとした頭頂部には白く長い耳が生えていた。
ウサギだ。
ウサギさんだ。
ここは獣人が住む国であり、老若男女が住む。当然男のウサ耳だっているし、初老のウサ耳だっているのだ。
ウサ耳が若い女の子だけのものという思い込みは捨てなければならない。
「私はクライア様の世話役のようなものをさせていただいておりましたが、まさかいきなり姿を消されるなど思ってもおりませんでしたので、それはもう心配しておりました。クライア様はタマ様がいらした世界におられるそうですね」
珠美の短い足に合わせるようにゆっくりと歩きながら、モルランは柔和な顔を振り向けた。
「そう、ですけど……。何故それを知ってるんですか?」
門番もモルランも、珠美が名乗る前から「タマ様」と呼びかけた。クライアのこともモルランにはまだ話していなかったのに。
「あいつらだろうな」
モルランが答えるよりも早く、隣を歩くラースが顎でくいっと前を指した。
「猫の獣人どもだ。そこに黒い尾の猫の獣人がいるだろう」
言われてモルランの背後からひょいっと前方を覗くと、他の人たちと同じように廊下の端に寄り、頭を下げている猫耳の男がいた。
「え? いつの間に? 門の前で別れたはずなのに、どうしてそこにいるの?」
確かに耳も尻尾も黒い猫の獣人が二人でずっとひっついていたことは覚えている。だが、そこにいたのは一人だけだし、服装も城仕えらしくきっちりとしている。
「兄弟なんだろ?」
確かめるようにラースが問えば、モルランが「ええ」と頷いた。
「兄弟から念話で伝言を受け取った彼から、お二人の報告を受けたのです。おかげでお出迎えの準備が間に合いまして、ほっといたしました」
傍まで来ると、黒い尾の男がちらりと顔を上げた。
「仲間たちが世話になったと聞きました。改めてお礼申し上げます」
「いえ、治ってよかったです」
再び深く頭を下げた男に、珠美がぶんぶんと手を振れば、ラースがやれやれと嘆息した。
刃を向けたらそれ相応のことは覚悟すべきだと言いたいのだろう。
そういう世界なのだとわかってはいるが、平和な国で暮らしていた珠美にはまだその考えは馴染まない。
気まずくなり、ラースを見上げ別の話題を振った。
「その念話って、誰でもできるの? ラースもできたりする?」
「いや。種族によってはそういう力を生まれ持つ奴もいるようだが、ほんの一部だ。あとは訓練と相性次第だな。俺の仲間にもそういう奴がいたが、なかなかに便利なものだ」
仲間とは気ままに一人で暮らしていると言っていたラースには意外な言葉だったが、護衛の仲間のことだろうか。
珠美が疑問を差し挟むよりも先に、ラースは黒い尾の男に声を向けていた。
「お前らのボスは、あの白と黒のブチだな?」
そんな毛色の男がいただろうか。
珠美は首を傾げ記憶を探った。
茶トラ、灰色スコティッシュフォールド、白に、黒が二人。
そうだ。確か六人いたはずなのに、あと一人の男がどんなだったかはっきりと思い出せなかった。
黒い尾の男は答えなかった。
「あいつだけずっと気配を消していた。喋ったのもただ一度だけ。あいつが一番の実力者だ。だから奥にいたあいつを狙ったんだが、手前にいた男があれくらい避けられんとは思わなかった。白と黒のブチが押しのけなかったら、正面から当たってたかもな」
いまさらながらにぞっとする。
だがラースはずっとそうした命のやりとりをしてきたのだろう。
ここは平和な日本とは違う。珠美の価値観は通じないのだ。
「おまえらは諜報員だったわけだな」
ラースがそう言えば、黒い尾の男は微かに笑った。そして再び元のように頭を下げてしまう。
諜報員。
つまりは、魔王城に近づく者を牽制するだけでなく、それを城に伝える役割も担っていたということか。
何もかもが日本とは違う。
こんな世界で、珠美は魔王をやっていかなければならないのだ。
プレッシャーが半端ない。重圧が半端ない。
けれどもう前に進む以外に道はない。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
「さて、ラース殿はこちらの部屋でお休みください。夕飯の支度ができましたら呼びにまいります」
「ああ、世話になる」
今から帰ろうとすれば森の中で一夜を過ごさなければならない。
だからラースも今日は泊まっていくのだろうとは思っていたが、そのつもりだとわかり珠美はほっとする。
まだ慣れない場所で一人にされるのは不安だったから。
そんな思いが顔に出てしまっていたのだろう。部屋に入りかけていたラースは苦笑し、珠美の頭をぽんぽんと撫でた。
「後でな」
珠美が頷くのを見届けてから、ラースは部屋に入っていった。
不安な心中を見透かされてしまったことが気恥ずかしいのに、ラースの見守るような視線に、まだ契約は終わっていないのだとほっとしている自分がいる。
明日はきちんとラースに支払いもしなければ。
そう思うと胸に何かが迫ってきたけれど、珠美はそれを無理矢理呑み込んだ。
「タマ様はこちらです」
モルランに促されて頷くが、昨日は同じ部屋であることにあれほど抵抗を感じたのに、今日は一人であることがとてつもなく心許ない。
だが十八歳の乙女として、同じ部屋にしてほしいとはモルランにもラースにも言えない。
閉まってしまったラースの部屋の扉を何も言えず見つめていた珠美は促されるまま再び歩き出すと、前方から一人の男が「おお~! 魔王サマじゃん!」と気安く手を振りやってくるのが見えた。
「ミッドガルド、何故こちらへ」
モルランが慌てるのがわかったが、ミッドガルドと呼ばれた男は構わずに歩みを進めた。
「だって新しい魔王サマが来たって聞いたからさ」
親しげな笑みを浮かべ、珠美の前でぴたりと足を止める。
黒い革のベストから伸びた褐色の腕は太くはないのに引き締まっていて、背中には皮膜のような翼が折り畳まれていた。
コウモリの獣人だろうか。
耳がつんと尖った特徴的な形をしていた。
「謁見は明日以降だと伝えたはずですよ。タマ様はたった今着いたばかりでお疲れです。今日のところは下がってください」
「そうは言ってもよお、この夜の間に作物が枯れたらどうする? あんた責任とれんのかい」
ミッドガルドの顔には変わらず笑みが浮かんでいて、脅すような口ぶりでもない。
だがモルランはぐっと黙ってしまった。
「魔王サマは不在だっつうからずうっと大人しく待ってたんだぜ? 順番待ち一号の俺に魔王サマと最初に話す権利があるだろ」
「ですが、クルーエル国の使者様もお待ちなんですよ。先にミッドガルドの要望だけを聞くというわけには」
「じゃあ、俺の用事を今のうちにちゃちゃっと済ませてくればいい。そしたら明日には隣国の使者様とやらの相手ができる。な、名案だ」
ニカッと笑ってそう言うと、「じゃ、そういうことで」と珠美の腕を掴んだ。
「え?」
「ミッドガルド!」
モルランの制止も珠美の意思もお構いなしで、ミッドガルドは珠美をひょいっと抱き上げ、すたすたと窓に向かった。
「ちょっと、一体何を――」
そんな猫の子のように簡単に抱き上げないでほしい。
確かに今は子供の姿だけれど。
珠美の声など聞こえていないかのように、ミッドガルドは廊下の窓を片手で開け放ち、ひょいっと桟に乗り上げた。
離して、と言いかけた珠美は言葉を失った。
ここは二階だ。
離されたら、落ちる。
「きゃあああああ?!」
昨日の落下の恐怖が蘇り、思わず悲鳴を上げた。
「おい、何事――タマ?!」
騒ぎを聞きつけたらしいラースが扉を開け飛び出したが、その時には既に遅かった。
「大丈夫、俺、夜目が効くから」
そういうことじゃない。
そう思ったのも束の間、ミッドガルドはニッと笑みを浮かべ、夕暮れの空へと向けて飛び立った。
珠美を腕に抱えたまま。
「タマミ!!」
ラースの声がしじまに響く。
「ラース!!」
恐怖で喉が引きつり、大きい声が出ない。
辛うじて呼んだ名はラースの耳に届いたのか。
ラースが顔を歪め、窓の桟を固く握りしめているのが見えた。
「何も誘拐しようってんじゃないのに。みんな大袈裟だなあ」
笑うミッドガルドの胸にしがみつきながらも、珠美の唇は知らずがちがちと震えた。
珠美を支えるのはミッドガルドの腕一つなのだ。
安心、安全に全力を注ぐ日本の乗り物とは違う。シートベルトも安全装置も命綱も何もない。
不意に先日空から落下したときの恐怖が急に思い出されてしまい、珠美の震えが増した。
「いや! 怖い、下ろして!」
「ははは! なんだ震えてんの? なんかいいなあ、それ。クルなあ」
何を笑っているのかと思う。
自分自身に羽が生えている人はいいだろう。飛ぶのにも慣れていて、自分の意思でなんとでもできるのだから。
これがラースだったら、ここまで怯えはしなかっただろう。
その胸にしがみついて、そっと眼下の景色を窺う余裕もあっただろう。
ラースなら万が一にも珠美を落としてしまったりはしないと信じられたから。
けれどこのミッドガルドという男は信用ならない。
一方的で話を聞きもしないし、脳と体が直結しているのではないかというほどに行動が突飛だ。
どんな気まぐれで落とされるかもわからない。
昨日は高い空から落下した珠美は無意識のうちに自分の身を守っていたらしいが、今日もそれができるとは限らない。
珠美は悔しいながらもミッドガルドの胸にしがみつき、ぐっと歯を食いしばった。
そんな珠美をちらりと見おろし、ミッドガルドは楽しそうに笑った。
「ははははは! なんかクセになりそうだなあ」
――くそドSめ。
思わず心中で口汚く罵り、珠美は早く目的地へ着くことをひたすらに祈った。
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