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第一章 まだ時給を聞いてない

2.そこにはケモ耳イケオジがいた

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「――ぅぅぁぁあああああ」

 そうして気づいたら空にいた。

「あああああああ」

 漫画みたいに手足を動かしたら多少なりと前に進むのかな? というかねてからの疑問を実験することも思いつかず、ただただひたすらに落ちていく。
 落ち続ける体をどうすることもできず、頭を下に直立不動で。

「あああ、ああ、あああああっ、ああ! あああああああ」

 唐突に頭にガサガサガツンと何かが当たり、森の木に突っ込んだのだと理解した。
 咄嗟に腕で庇うも、木の葉と枝がバサバサと体を傷つけていく。

「あああああああああっ!!」

 ごすっ、と衝撃がやってきて、落下は止まった。
 頭が文字通り地面に突き刺さり、体はぱたりと折り畳まれるように倒れ込んだ。
 さながら、イモムシのように。

 地面への衝突により、全身が圧縮された気がする。
 全身がじんじんと痺れていて、まだ痛みはやってこない。きっと遅れてくるのだろう。
 叫び続けた喉はカラカラで、張り付いていた。
 しばらく呆然としたまま動けないでいると、近くに人の気配があることに気が付いた。

「こりゃまた派手に突っ込んだなあ。生きてるか、おチビちゃん」

 呆れているのか、戸惑っているのか。
 低くて渋い声だった。

 生きている。
 何故なのかは珠美も心底疑問だが。

 叫び続けていたせいで、ぜいぜいと荒い息をしていた珠美が答えられないままでいると、じゃりじゃりと地面を踏みしめる音が近づいてくる。
 それからおもむろに腰を掴まれ、「よっ」と力を込めて引っ張り上げられた。

 ずぼっと音がして、頭が地面から引き抜かれたのがわかる。

「ぶあっっ! 助かった! ありがとうございます」

 珠美はそのままそっと地面に座らされて、やっと頭が空を向く。
 血が上っていたせいでくらくらする頭を、痛む首でなんとか支え顔を前に向けた。

 そこには精悍な体つきの男がいた。
 毛皮のベストの胸元ははだけていて、襟元にはファーがついている。
 褐色の肌と相まってより野性味を感じさせた。

「いやなんの。何事かと駆け付けてみれば、まさか人が地面に突き刺さってるとは思わんかったな。なかなかに衝撃的な光景だった」

 無事とわかり安心したのだろう。それから『衝撃の光景』を思い出したのか、男はくっくと喉を鳴らして笑った。
 その笑いに嫌味なものはなく、ただただ堪え切れないというように笑っていた。

 蜂蜜のような金茶の瞳は年齢を重ねたが故の柔和さがあり、見ているとどこか安心できた。
 三十代か四十代といったところだろうか。

 そしてその安心感とは裏腹に、はだけた胸のせいか、身にまとった筋肉のせいか、口元に浮かんだ余裕の感じられる笑みのせいか、大人の男の色気のようなものがあった。
 安心感と色気の同居。
 イケオジがもてはやされるのが何となくわかった気がした。

 だがしかし、本題はそこではない。
 珠美は現実逃避をしていたのだと思う。

 綺麗な白髪の間から突き出た黄褐色の二つの三角もふもふが、男が笑うたびにぴくぴくと動いていた。

 ――イケオジがケモ耳。

 ダメ押しのように、胡坐をかいた男の後ろには黄褐色に黒の縞模様の、太い尻尾が垂れている。
 それが意思を持ったように、たすん、たすん、と地面を撫でている。
 狼男は聞いたことがあるが、虎男とでも言うべきだろうか。

 コスプレか。
 さっきの黒づくめの男の同僚か。
 そう思うのに、頭のどこかでこれは現実だとわかっていた。

 筋肉を纏った腕は太く逞しく、腰に佩いたダガー同様、使い込まれているように見えたから。
 野性味溢れるその姿は、あまりに自然で。
 この何もない、木ばかりがそびえたつこの場所では男のその姿の方が自然に見えた。

 土は赤茶けていた。
 目に映った葉はスペードのような形をしていた。朝顔の葉にも似ているが、これは草ではなく木だ。こんな木は見たことがない。
 目の端には白い煙が見えて、それを辿れば木々の向こうに煙突があるのが見えた。小屋の屋根らしきものも見える。
 辺りを見渡せば、遠くの山の上に古城のようなものが見える。

 ――千葉?

 いや、色味が違う。有名なあれよりもっと廃れた感じで、暗い。
 大人専用の宿泊施設かとも思ったが、あんな本格的過ぎて夢も持てないようなリアルな城にその客層が近づくとは思えなかった。
 他に目印になるようなものはなく、ひたすら木々だけが広がっている。

 ここは珠美の知っているところではない。
 この風景にそぐわないのは珠美の方だ。
 直感的に珠美はそう思っていた。

 だって、同じように珠美を観察していた男の目が、戸惑っている。

「まさか、クライアが言っていたのはおまえさんのことなのか」

「クライアを知ってるの?」

 男の呟きに突然出てきたその名前に、思わず反応した。
 さっき黒づくめの男は確かに最後にそう名乗った。

「ってことはやっぱり、おまえが魔王を引き受けたんだな」

 男は深いため息を吐くとがりがりと頭をかいた。
 厄介なことに巻き込まれた。そう言わんばかりに。

 確かクライアは、入り口近くにいる人が助けてくれると言っていた。
 それがこの男なのだろう。

 珠美には聞きたいことがたくさんあった。
 思わず前のめりになると、何かが重くてぐらりと体ごと傾ぎそうになった。
 何故だか頭が重いしバランスがとりにくい。
 ぶつけたせいで眩暈を起こしているのかと頭に手をやると、そこには触り慣れない、堅いものがあった。

「ん?」

 さわさわと触ってみると、頭の両脇から巻いたような形の固い何かが突き出している。

「ははは、魔王か」

 自分でツッコんで、目を剥いた。

「魔王?! 角?! なんで私!??」

 言いながら気づく。
 そうだ。
 あの男は最後に名乗ったのだ。五代目魔王、クライアだと。そして珠美に、代わりに仕事をしてほしいと言ったのだ。


 だから。

 今、珠美は。

 ――魔王(仮)?


「いやいやいやいや求人にちゃんと『職種:魔王』って書いとけや! いやそうじゃない、魔王なんかできるか!」

 思わず握り締めた両手を地面に叩きつける。
 が、痛みよりも何よりも、目に入ったその光景に、さあっと血の気が引いた。

「手ぇちっさ!!」

 ――なんじゃこりゃ!

 ばっと手を開いて見れば、珠美の手はもみじのような、かわいらしい子供の手になっていた。
 慌てて己の体を見下ろせば、水色のシャツはワンピース状態で、ジーパンは履いていない。おそらく落下中に脱げたのだろう。だって、どう考えてもこの体ではぶかぶかだから。

「五歳児か!」

 思わず叫びながら、いや、うん、確かにそのくらいだな、と冷静に頷く。
 ゆるく編みこんでいたはずのふわふわとした癖毛も、顎のラインまでのボブになっていた。
 髪を結べない長さは癖毛がはねて面倒なのに。
 そんな小さな絶望に髪をもしゃっと掴みながら、頭がくらりとするのを感じた。

 角の重さでバランスを失ったのではない。
 体からそれを支える力が失われたのだ。

「おい。――おい! 大丈夫か?」

 男の声が間近に迫る中、今度こそ珠美は、その場でぶっ倒れた。

     ・・・◆・・・◇・・・◆・・・

 再び訪れた真っ暗な世界で珠美は、自分の体がゆらゆらと揺れているのを感じていた。
 揺れているのに何故か安定していて。
 何かに守られているようで。
 久しぶりに温もりを感じた気がした。
 ずっと一人で生きてきたから。

 珠美はそのたくましい腕から自ら降りることも、下ろしてと叫ぶこともできず、ただどこかへと運ばれていった。
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