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7章(4)
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二階から階段を舐めるように炎が下りてきていた。
煙で視界がけぶり、一メートル先も満足に見えない。
喉が焼けるように熱くて痛い。というか、本当に焼けているのかもしれない。
僕はなるべく姿勢を低くしたまま階段に近づき、こちらに向かって飛び出している素足の足首を掴んだ。本当は身体を抱えることができればよかったけれど、階段は上に行くほど煙が濃すぎて、これ以上進めないと思ったのだ。
足首を掴んだ手を、渾身の力で引く。ずるずると下りてきた身体はもこもことした冬らしいピンクの部屋着を着ていたが、所々が焦げていた。
心臓に手を当てる。かろうじて生きてはいるようだが、瞼は固く閉じたまま、開く気配がない。それでも彼女――榊さんは腕にしっかりと白い骨壺を抱いて離さなかった。
骨壺を持ち出そうとしたために逃げ遅れたのだろうか。榊さんの他に、アパートの中に人がいる気配はない。
榊さんを抱えて逃げるには、しゃがんだ状態では無理だ。火傷と煤に塗れた彼女を背負って、立ち上がる。立ち上がると、一層濃くなった煙が襲い掛かってきた。呼吸をしようとして、激しく咳き込む。
息を止め、一歩、二歩と歩みを進める。階段からアパートの入口まで十メートルもないだろう。しかし、その十メートルが果てしなく長い。
背後でぶわっと強風が起こり、煙が流れを変えた。振り返ると、廊下の天井が落ち、煙の向こうで二階が丸見えになっていた。
早く出ないと、榊さんだけでなく僕も死ぬことになる。意思とは裏腹に、足取りは重く、遅々として進まない。歩いているのに、全然出口が見えない。
息苦しさを感じ、僕はとうとう膝をついた。今さら無謀だったと悔やんでも遅い。人は死ぬ直前に走馬灯が見えるというけれど、それらしいものは一切見えてこなかった。眼前に広がるのは、先を見通せない濃い煙だけだ。
しっかりしろ、と誰かの声が聞こえた気がした。幻聴かもしれない。僕はもう一度、頭を上げることもままならないまま、流れに身を任せるように目を閉じた――。
◇ ◇ ◇
誰かが僕の名前を呼んでいる。遠くから、何度も呼んでいる。ぼんやりと見えてきたのは、今よりもっと若い頃の母親だ。たぶん僕が幼稚園生とか、そのくらいの頃のまだ父親も一緒に住んでいたあたりの元気で、若々しい母親が僕に向かって手を振っている。
僕は母親の元へ駆けていって、その胸に飛び込んだ。しっかりと抱きとめてくれた腕は母親のたくましさがみなぎっていて、その腕に抱かれているだけで安心感を覚える。
僕は母親に抱かれながら、自分の手を見下ろした。まだ小さく、指も短い、子どもらしいむちむちとした白い手。母親の艶のある髪を掴んでみたりして、無邪気に遊んでいる。
けれどなぜ、と思った。どうして僕は小さな子どもの頃に戻っていて、母親は元気そうなのだろう。現実の僕はもう高校生で、父親は家から離れ、母親は亡霊のようになっているのに。
一度気づいてしまったら、もう止まることはできなかった。どうして、と問いかけた言葉が喉元で止まる。
僕を抱いていたはずの母親は、砂がさらさらとこぼれていくように形を変え、やがてただの塊になってしまった――。
「瑞希!」
悲鳴のような声が飛び込んできて、僕は目を覚ました。
カーテンに囲まれた真っ白な天井が見える。遅れて喉のひりつく痛みと、身体の節々がじんじんと疼くような痛みを感じる。
横からぬうっと現れた顔は、すっかり憔悴しきった表情の母親だった。よそ行きのきちんとしたワンピースを着込み、カーディガンを羽織っている。僕の記憶では母親はまだ入院していたはずだが、どうなっている……?
「目が覚めたのね? お母さんのこと、わかる? ああ、看護士さんを呼ばなきゃ……」
母親が手を伸ばして、僕の枕元にあるだろうナースコールのボタンを押し込む。
身体を起こそうとしたが、上手くいかなかった。まるで手足に力が入らず、心なしか呼吸も苦しい。重たい腕を持ち上げ顔に触れてみると、口元には酸素マスクがつけられ、腕には点滴の管がつながれていた。
どうやら僕は生きている。すくなくとも、これは現実のようだ。あちこちから発生する痛みが、僕の意識をここにつなぎとめている。
「い、ま……」
はっきりと喋ったつもりだったが、出てきた声はひどく掠れて、たぶん母親もほとんど聞き取れなかったと思う。「え?」と大げさな反応をした母親が、僕の口元に耳を寄せる。
「いま、何日……?」
母親がここにいるということは、すでに退院している。年が明けているということだ。僕が意識を失ったのは大晦日。
「今日は一月十日。もう冬休みも終わるわ」
母親はカレンダーを確認することもなく、素早く答えた。僕が意識を失っていた間、何度も日付を数えたみたいだった。そしてそれは、僕の予想を大きく超えていた。まさか十日も眠っていたなんて。
ばたばたと人が行き交う音がしたと思うと、ベッドを囲っていたカーテンが開けられ、医者や看護士などが次々に現れた。話すのもままらない僕に向かって、名前や生年月日、今日が何日か、意識を失った時の記憶はあるかなど、矢継ぎ早に質問してくる。僕は息を切らしながらも、かなりの時間をかけてその質問たちに答えていった。
僕の意識がはっきりしているとわかると、今度は僕の番だった。起きてからずっと気になっていたことはひとつしかない。母親の前でその名前を口にするのは憚られたが、構っている暇はなかった。
「榊さんは、生きていますか――」
煙で視界がけぶり、一メートル先も満足に見えない。
喉が焼けるように熱くて痛い。というか、本当に焼けているのかもしれない。
僕はなるべく姿勢を低くしたまま階段に近づき、こちらに向かって飛び出している素足の足首を掴んだ。本当は身体を抱えることができればよかったけれど、階段は上に行くほど煙が濃すぎて、これ以上進めないと思ったのだ。
足首を掴んだ手を、渾身の力で引く。ずるずると下りてきた身体はもこもことした冬らしいピンクの部屋着を着ていたが、所々が焦げていた。
心臓に手を当てる。かろうじて生きてはいるようだが、瞼は固く閉じたまま、開く気配がない。それでも彼女――榊さんは腕にしっかりと白い骨壺を抱いて離さなかった。
骨壺を持ち出そうとしたために逃げ遅れたのだろうか。榊さんの他に、アパートの中に人がいる気配はない。
榊さんを抱えて逃げるには、しゃがんだ状態では無理だ。火傷と煤に塗れた彼女を背負って、立ち上がる。立ち上がると、一層濃くなった煙が襲い掛かってきた。呼吸をしようとして、激しく咳き込む。
息を止め、一歩、二歩と歩みを進める。階段からアパートの入口まで十メートルもないだろう。しかし、その十メートルが果てしなく長い。
背後でぶわっと強風が起こり、煙が流れを変えた。振り返ると、廊下の天井が落ち、煙の向こうで二階が丸見えになっていた。
早く出ないと、榊さんだけでなく僕も死ぬことになる。意思とは裏腹に、足取りは重く、遅々として進まない。歩いているのに、全然出口が見えない。
息苦しさを感じ、僕はとうとう膝をついた。今さら無謀だったと悔やんでも遅い。人は死ぬ直前に走馬灯が見えるというけれど、それらしいものは一切見えてこなかった。眼前に広がるのは、先を見通せない濃い煙だけだ。
しっかりしろ、と誰かの声が聞こえた気がした。幻聴かもしれない。僕はもう一度、頭を上げることもままならないまま、流れに身を任せるように目を閉じた――。
◇ ◇ ◇
誰かが僕の名前を呼んでいる。遠くから、何度も呼んでいる。ぼんやりと見えてきたのは、今よりもっと若い頃の母親だ。たぶん僕が幼稚園生とか、そのくらいの頃のまだ父親も一緒に住んでいたあたりの元気で、若々しい母親が僕に向かって手を振っている。
僕は母親の元へ駆けていって、その胸に飛び込んだ。しっかりと抱きとめてくれた腕は母親のたくましさがみなぎっていて、その腕に抱かれているだけで安心感を覚える。
僕は母親に抱かれながら、自分の手を見下ろした。まだ小さく、指も短い、子どもらしいむちむちとした白い手。母親の艶のある髪を掴んでみたりして、無邪気に遊んでいる。
けれどなぜ、と思った。どうして僕は小さな子どもの頃に戻っていて、母親は元気そうなのだろう。現実の僕はもう高校生で、父親は家から離れ、母親は亡霊のようになっているのに。
一度気づいてしまったら、もう止まることはできなかった。どうして、と問いかけた言葉が喉元で止まる。
僕を抱いていたはずの母親は、砂がさらさらとこぼれていくように形を変え、やがてただの塊になってしまった――。
「瑞希!」
悲鳴のような声が飛び込んできて、僕は目を覚ました。
カーテンに囲まれた真っ白な天井が見える。遅れて喉のひりつく痛みと、身体の節々がじんじんと疼くような痛みを感じる。
横からぬうっと現れた顔は、すっかり憔悴しきった表情の母親だった。よそ行きのきちんとしたワンピースを着込み、カーディガンを羽織っている。僕の記憶では母親はまだ入院していたはずだが、どうなっている……?
「目が覚めたのね? お母さんのこと、わかる? ああ、看護士さんを呼ばなきゃ……」
母親が手を伸ばして、僕の枕元にあるだろうナースコールのボタンを押し込む。
身体を起こそうとしたが、上手くいかなかった。まるで手足に力が入らず、心なしか呼吸も苦しい。重たい腕を持ち上げ顔に触れてみると、口元には酸素マスクがつけられ、腕には点滴の管がつながれていた。
どうやら僕は生きている。すくなくとも、これは現実のようだ。あちこちから発生する痛みが、僕の意識をここにつなぎとめている。
「い、ま……」
はっきりと喋ったつもりだったが、出てきた声はひどく掠れて、たぶん母親もほとんど聞き取れなかったと思う。「え?」と大げさな反応をした母親が、僕の口元に耳を寄せる。
「いま、何日……?」
母親がここにいるということは、すでに退院している。年が明けているということだ。僕が意識を失ったのは大晦日。
「今日は一月十日。もう冬休みも終わるわ」
母親はカレンダーを確認することもなく、素早く答えた。僕が意識を失っていた間、何度も日付を数えたみたいだった。そしてそれは、僕の予想を大きく超えていた。まさか十日も眠っていたなんて。
ばたばたと人が行き交う音がしたと思うと、ベッドを囲っていたカーテンが開けられ、医者や看護士などが次々に現れた。話すのもままらない僕に向かって、名前や生年月日、今日が何日か、意識を失った時の記憶はあるかなど、矢継ぎ早に質問してくる。僕は息を切らしながらも、かなりの時間をかけてその質問たちに答えていった。
僕の意識がはっきりしているとわかると、今度は僕の番だった。起きてからずっと気になっていたことはひとつしかない。母親の前でその名前を口にするのは憚られたが、構っている暇はなかった。
「榊さんは、生きていますか――」
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