上 下
43 / 46

7章(4)

しおりを挟む
 二階から階段を舐めるように炎が下りてきていた。
 煙で視界がけぶり、一メートル先も満足に見えない。
 喉が焼けるように熱くて痛い。というか、本当に焼けているのかもしれない。
 僕はなるべく姿勢を低くしたまま階段に近づき、こちらに向かって飛び出している素足の足首を掴んだ。本当は身体を抱えることができればよかったけれど、階段は上に行くほど煙が濃すぎて、これ以上進めないと思ったのだ。
 足首を掴んだ手を、渾身の力で引く。ずるずると下りてきた身体はもこもことした冬らしいピンクの部屋着を着ていたが、所々が焦げていた。
 心臓に手を当てる。かろうじて生きてはいるようだが、瞼は固く閉じたまま、開く気配がない。それでも彼女――榊さんは腕にしっかりと白い骨壺を抱いて離さなかった。

 骨壺を持ち出そうとしたために逃げ遅れたのだろうか。榊さんの他に、アパートの中に人がいる気配はない。
 榊さんを抱えて逃げるには、しゃがんだ状態では無理だ。火傷と煤に塗れた彼女を背負って、立ち上がる。立ち上がると、一層濃くなった煙が襲い掛かってきた。呼吸をしようとして、激しく咳き込む。
 息を止め、一歩、二歩と歩みを進める。階段からアパートの入口まで十メートルもないだろう。しかし、その十メートルが果てしなく長い。
 背後でぶわっと強風が起こり、煙が流れを変えた。振り返ると、廊下の天井が落ち、煙の向こうで二階が丸見えになっていた。
 早く出ないと、榊さんだけでなく僕も死ぬことになる。意思とは裏腹に、足取りは重く、遅々として進まない。歩いているのに、全然出口が見えない。

 息苦しさを感じ、僕はとうとう膝をついた。今さら無謀だったと悔やんでも遅い。人は死ぬ直前に走馬灯が見えるというけれど、それらしいものは一切見えてこなかった。眼前に広がるのは、先を見通せない濃い煙だけだ。
 しっかりしろ、と誰かの声が聞こえた気がした。幻聴かもしれない。僕はもう一度、頭を上げることもままならないまま、流れに身を任せるように目を閉じた――。


◇ ◇ ◇


 誰かが僕の名前を呼んでいる。遠くから、何度も呼んでいる。ぼんやりと見えてきたのは、今よりもっと若い頃の母親だ。たぶん僕が幼稚園生とか、そのくらいの頃のまだ父親も一緒に住んでいたあたりの元気で、若々しい母親が僕に向かって手を振っている。
 僕は母親の元へ駆けていって、その胸に飛び込んだ。しっかりと抱きとめてくれた腕は母親のたくましさがみなぎっていて、その腕に抱かれているだけで安心感を覚える。
 僕は母親に抱かれながら、自分の手を見下ろした。まだ小さく、指も短い、子どもらしいむちむちとした白い手。母親の艶のある髪を掴んでみたりして、無邪気に遊んでいる。
 けれどなぜ、と思った。どうして僕は小さな子どもの頃に戻っていて、母親は元気そうなのだろう。現実の僕はもう高校生で、父親は家から離れ、母親は亡霊のようになっているのに。
 一度気づいてしまったら、もう止まることはできなかった。どうして、と問いかけた言葉が喉元で止まる。
 僕を抱いていたはずの母親は、砂がさらさらとこぼれていくように形を変え、やがてただの塊になってしまった――。

「瑞希!」

 悲鳴のような声が飛び込んできて、僕は
 カーテンに囲まれた真っ白な天井が見える。遅れて喉のひりつく痛みと、身体の節々がじんじんと疼くような痛みを感じる。
 横からぬうっと現れた顔は、すっかり憔悴しきった表情の母親だった。よそ行きのきちんとしたワンピースを着込み、カーディガンを羽織っている。僕の記憶では母親はまだ入院していたはずだが、どうなっている……?

「目が覚めたのね? お母さんのこと、わかる? ああ、看護士さんを呼ばなきゃ……」

 母親が手を伸ばして、僕の枕元にあるだろうナースコールのボタンを押し込む。
 身体を起こそうとしたが、上手くいかなかった。まるで手足に力が入らず、心なしか呼吸も苦しい。重たい腕を持ち上げ顔に触れてみると、口元には酸素マスクがつけられ、腕には点滴の管がつながれていた。
 どうやら僕は生きている。すくなくとも、これは現実のようだ。あちこちから発生する痛みが、僕の意識をここにつなぎとめている。

「い、ま……」

 はっきりと喋ったつもりだったが、出てきた声はひどく掠れて、たぶん母親もほとんど聞き取れなかったと思う。「え?」と大げさな反応をした母親が、僕の口元に耳を寄せる。

「いま、何日……?」

 母親がここにいるということは、すでに退院している。年が明けているということだ。僕が意識を失ったのは大晦日。

「今日は一月十日。もう冬休みも終わるわ」

 母親はカレンダーを確認することもなく、素早く答えた。僕が意識を失っていた間、何度も日付を数えたみたいだった。そしてそれは、僕の予想を大きく超えていた。まさか十日も眠っていたなんて。
 ばたばたと人が行き交う音がしたと思うと、ベッドを囲っていたカーテンが開けられ、医者や看護士などが次々に現れた。話すのもままらない僕に向かって、名前や生年月日、今日が何日か、意識を失った時の記憶はあるかなど、矢継ぎ早に質問してくる。僕は息を切らしながらも、かなりの時間をかけてその質問たちに答えていった。
 僕の意識がはっきりしているとわかると、今度は僕の番だった。起きてからずっと気になっていたことはひとつしかない。母親の前でその名前を口にするのは憚られたが、構っている暇はなかった。

「榊さんは、生きていますか――」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

茶番には付き合っていられません

わらびもち
恋愛
私の婚約者の隣には何故かいつも同じ女性がいる。 婚約者の交流茶会にも彼女を同席させ仲睦まじく過ごす。 これではまるで私の方が邪魔者だ。 苦言を呈しようものなら彼は目を吊り上げて罵倒する。 どうして婚約者同士の交流にわざわざ部外者を連れてくるのか。 彼が何をしたいのかさっぱり分からない。 もうこんな茶番に付き合っていられない。 そんなにその女性を傍に置きたいのなら好きにすればいいわ。

今さら、私に構わないでください

ましゅぺちーの
恋愛
愛する夫が恋をした。 彼を愛していたから、彼女を側妃に迎えるように進言した。 愛し合う二人の前では私は悪役。 幸せそうに微笑み合う二人を見て、私は彼への愛を捨てた。 しかし、夫からの愛を完全に諦めるようになると、彼の態度が少しずつ変化していって……? タイトル変更しました。

ハミル読書感想文

hamiru
エッセイ・ノンフィクション
BOOK

クマちゃんと森の街の冒険者とものづくり ~転生赤ちゃんクマちゃんのもふもふ溺愛スローライフ~

猫野コロ
ファンタジー
転生したもこもこは動揺を隠し、震える肉球をなめ――思わず一言呟いた。 「クマちゃん……」と。 猫のような、クマのぬいぐるみの赤ちゃんのような――とにかく愛くるしいクマちゃんと、謎の生き物クマちゃんを拾ってしまった面倒見の良い冒険者達のお話。 犬に頭をくわえられ運ばれていたクマちゃんは、かっこいい冒険者のお兄さん達に助けられ、恩返しをしたいと考えた。 冷たそうに見えるが行動は優しい、過保護な最強冒険者の青年ルークに甘やかされながら、冒険者ギルドの皆の助けになるものを作ろうと日々頑張っている。 一生懸命ではあるが、常識はあまりない。生活力は家猫くらい。 甘えっこで寂しがり屋。異世界転生だが何も覚えていないクマちゃんが、アイテム無双する日はくるのだろうか?  時々森の街で起こる不思議な事件は赤ちゃんクマちゃんが可愛い肉球で何でも解決!  最高に愛らしいクマちゃんと、癖の強い冒険者達の愛と癒しと仲良しな日常の物語。 【かんたんな説明:良い声のイケメン達と錬金系ゲームと料理と転生もふもふクマちゃんを混ぜたようなお話。クマちゃん以外は全員男性】 【物語の主成分:甘々・溺愛・愛され・日常・温泉・お料理・お菓子作り・スローライフ・ちびっこ子猫系クマちゃん・良い声・イケボ・イケメン・イケオジ・ややチート・可愛さ最強・ややコメディ・ハッピーエンド!】 《カクヨム、ノベルアップ+、なろう、ノベマ!にも掲載中です》

いらないと言ったのはあなたの方なのに

水谷繭
恋愛
精霊師の名門に生まれたにも関わらず、精霊を操ることが出来ずに冷遇されていたセラフィーナ。 セラフィーナは、生家から救い出して王宮に連れてきてくれた婚約者のエリオット王子に深く感謝していた。 エリオットに尽くすセラフィーナだが、関係は歪つなままで、セラよりも能力の高いアメリアが現れると完全に捨て置かれるようになる。 ある日、エリオットにお前がいるせいでアメリアと婚約できないと言われたセラは、二人のために自分は死んだことにして隣国へ逃げようと思いつく。 しかし、セラがいなくなればいいと言っていたはずのエリオットは、実際にセラが消えると血相を変えて探しに来て……。 ◆表紙画像はGirly drop様からお借りしました🍬 ◇いいね、エールありがとうございます!

猫神様の言うことにゃ、神頼みなんて役立たず

フドワーリ 野土香
ライト文芸
第7回ほっこり・じんわり大賞【優秀賞】受賞! 野良猫の溜まり場になっているとある神社――通称野良神社には、猫神様がいる。 その猫神様は恋の願いを叶え、失恋の痛みを取り去ってくださるという。 だが実際には、猫神様は自由奔放で「願いは自分で叶えろ」というてきとーな神様だった……。 ちっさくてもふもふの白い猫神様と、願いを叶えたい男女4人の恋物語。 ※2024.6.29 連載開始 ※2024.7.24 完結

所詮は他人事と言われたので他人になります!婚約者も親友も見捨てることにした私は好きに生きます!

ユウ
恋愛
辺境伯爵令嬢のリーゼロッテは幼馴染と婚約者に悩まされてきた。 幼馴染で親友であるアグネスは侯爵令嬢であり王太子殿下の婚約者ということもあり幼少期から王命によりサポートを頼まれていた。 婚約者である伯爵家の令息は従妹であるアグネスを大事にするあまり、婚約者であるサリオンも優先するのはアグネスだった。 王太子妃になるアグネスを優先することを了承ていたし、大事な友人と婚約者を愛していたし、尊敬もしていた。 しかしその関係に亀裂が生じたのは一人の女子生徒によるものだった。 貴族でもない平民の少女が特待生としてに入り王太子殿下と懇意だったことでアグネスはきつく当たり、婚約者も同調したのだが、相手は平民の少女。 遠回しに二人を注意するも‥ 「所詮あなたは他人だもの!」 「部外者がしゃしゃりでるな!」 十年以上も尽くしてきた二人の心のない言葉に愛想を尽かしたのだ。 「所詮私は他人でしかないので本当の赤の他人になりましょう」 関係を断ったリーゼロッテは国を出て隣国で生きていくことを決めたのだが… 一方リーゼロッテが学園から姿を消したことで二人は王家からも責められ、孤立してしまうのだった。 なんとか学園に連れ戻そうと試みるのだが…

戦隊ヒーローレッドは異世界でも戦うのがめんどくさい~でも召喚されたものは仕方ないのでしぶしぶ戦うことにしました~

市瀬瑛理
ファンタジー
子供たちに大人気の戦隊ヒーロードラマ、『星空戦隊スターレンジャー』のスターレッド役を演じている相馬千紘(そうまちひろ)はレッドの『熱血』というイメージからは遠くかけ離れた、基本的になんでも『めんどくさい』で片づける青年である。 また、スターブルー役の深見秋斗(ふかみあきと)はこれまたブルーの『クール』なイメージとは程遠く、良く言えば明るい、悪く言えばうるさい青年だった。 千紘は秋斗に対して『めんどくさいやつ』とレッテルを貼り、一方的に苦手意識を持っているのだが、ある日、二人は一緒に階段から落ちてしまい揃って異世界へと召喚されることになった。 そして異世界で、秋斗は元の世界に帰るための道具であるミロワールをうっかり壊してしまう。 たまたま二人を召喚してしまったと言う少女・リリアからの命令で、千紘は秋斗と一緒にミロワールを直すために必要な鉱石・ターパイトを採りに行かされる羽目になる。 果たして千紘と秋斗は無事に元の世界に帰ることができるのか……? これは異世界召喚された戦隊ヒーロー(の中の人)たちの冒険と戦い、そして熱い友情の記録である――。 【第一章】 千紘(レッド)と秋斗(ブルー)のみ登場。 【第二章】 律(イエロー)が登場。展開はゆっくりめです。 【第三章】 ノア(グリーン)と香介(ブラック)が登場。 ※この作品は他の小説投稿サイトにも掲載しています。

処理中です...