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5章(5)

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「どういうこと?」

 いまさっき緑茶で潤したはずの喉は、カラカラに渇いていた。榊さんがなにか言いたげなのは、先ほどから予感していた。それが人生に関わるようなことであるということも、うっすらとだけどわかっていたつもりだ。
 でも、彼女が口にしたことは僕の予想を大きく超えてきた。
 死ななきゃいけない、と榊さんは言った。「死にたい」ではなく、「死ななきゃいけない」だ。まるで誰かの意思がそこに介入しているみたいに、自分の意思の範疇にはないというように。

「十八歳までに死ぬ。それが母親との約束」

 榊さんは静かな声で言った。

「待ってよ、全然意味がわからないんだけど……」

 僕は混乱する頭で真剣に考える。僕は榊さんの母親はおろか、家族の誰ひとりとして見たことがない。家に行った時も、榊さん以外の存在を感じることはできなかった。まるで気配がなかったのだ。あの家には榊さん一人だけが住んでいると言われるほうが納得できる。
 唯一、人の存在を感じられたものは――骨壺だ。あの、和室の隅に置かれていた骨壺。結局あれが誰の骨なのか、僕はいまだに知らない。よっぽど榊さんに聞こうかと思う時もあったが、聞かずじまいで終わっている。
 榊さんは凪いだ海のような穏やかな目で遠くを見つめていた。僕もつられて、榊さんと同じ方向を見る。海の向こうに、一本線を引いたような水平線が見えた。太陽はすでに真上のほうまで昇っていて、秋の柔らかな日差しを地上に降り注いでいる。

「ちょっとだけ、わたしの話を聞いて欲しい」
「いくらだって聞くよ」
「ありがとう」

 榊さんは空を仰いでから、僕を見た。日焼けしていない白い手が、自由のきかない膝に添えられている。

「わたしが七歳の時、弟が死んだの。この膝も、弟が死んだ時に使い物にならなくなった」
「それは……事故かなにかで?」

 榊さんがゆるやかに首を振る。

「ちがう。弟は――母親の、再婚相手に殺された」

 僕は言葉を失った。榊さんの重すぎる告白が、肩にずっしりとのしかかってくる。榊さんは一人で、こんなものを抱えていたのか? 飄々としているように見えて、その裏にはとんでもない秘密があった。僕はめまいを覚えて、しばし目を閉じる。

「じゃあ、あの骨壺は……?」

 榊さんは一度だけ、うなずいた。やっぱり気づいてたんだ、とつぶやく声が聞こえる。

「そう、あれは弟の骨。お墓はないし、位牌すら作られなかったけどね」
「でも、どうしてそんなことに……」
「再婚相手――義理の父親ってことだけど、あいつは一緒に暮らし始めた時から、わたしと弟に暴力を振るってた。母親も一緒になって、ね」

 ぽつぽつと彼女の口から信じがたい事実が告げられていく。
 義理の父親が榊さんや彼女の弟にしたことは、とてもじゃないが人間の所業とは思えなかった。凄惨な現場がそっくりそのまま目の前に浮かび上がってくるようで、僕は榊さんの話を聞きながら胃がひっくり返りそうなほどの吐き気を覚える。
 そして、事件は起こるのだ。

「あいつは、弟を何回も包丁で切りつけたの……。わたしは自分が殺されるかもなんて考えもせずに、止めに入った。膝を踏み抜かれて、骨が砕けた」

 その時のことを思い出したように、榊さんは唇を強く噛んだ。色を失った唇に歯が食い込み、血が滲む。彼女の感じた痛みが、ダイレクトに僕にまで伝わってくる。
 僕は、乱れた呼吸のまま話を再開しようとする榊さんを手で制した。言いたくないなら、言わなくていい。つらいことを思い出さなくていい。そんな思いを込めて、首を振る。榊さんが最後まで話したいのなら、僕も覚悟を決めて最後まで聞くべきだ。だけど、今の榊さんは見ていられないほどつらそうで。

「弟は死んだ。わたしのせいで」
「……榊さんのせいじゃないよ」
「わたしが、もっと早くに――」
「ちがう!」

 僕の大声に、榊さんがビクッと肩を跳ね上げた。榊さんと目を合わせる。後悔と憎しみが混ざり合った歪な表情の彼女をじっと見据える。

「榊さんのせいじゃない。悪いのは手を上げた義理の父親だし、その父親に加担した母親だよ。榊さんは絶対に悪くない。だって、榊さんは止めようとしたんでしょ? 膝の骨が折れても、立ち向かったんでしょ?」
「それは……」
「誰がなんと言おうと、僕が保証する。榊さんは絶対に悪くない。弟さんが亡くなったのも、榊さんのせいじゃない」

 榊さんはふいに僕から顔を背け、天を仰いだ。まばらに雲がある青空。榊さんが片手で目元を覆う。青白い頬を伝う涙を、僕はそっと見ないふりをした。静かに震える肩と、時折漏れてくる小さな嗚咽が、彼女の抱えていたものの重さを示していた。
 その時、僕はなにを思ったのか。気づいた時には僕は立ち上がって、榊さんの頭を引き寄せていた。
 僕の腕の中で、榊さんがしゃくりを上げる。ワイシャツにじわじわと熱い涙が染み込んでくる。榊さんは拒まなかった。控えめに僕の制服の裾を掴み、声を殺して泣き続ける。抱える痛みを、僕にも預けて欲しかった。榊さんが抱えきれないものは僕も一緒に背負う。その覚悟が、僕にはあった。
 胸元で鼻をすすった榊さんが顔を上げる。頬を濡らす涙をカーディガンの袖で、ぐいと拭い、僕を見上げる。

「森岡くんは――」

 血の滲んだ唇が戸惑うように開かれる。

「なにがあっても……わたしのこと、信じてくれる?」

 僕は即座にうなずいた。うなずく以外の術を、僕は持ち合わせていなかった。

「信じるよ。榊さんのこと」

 榊さんの肩から力が抜ける。安心したような、ふんわりとした笑みがひそやかに広がる。
 僕はいつまでも、その細すぎる肩を抱いていた。現実から目を逸らし、見たくないものに蓋をするように――。
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