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3章(2)

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 吉野さんに連れられて、僕は高校から電車で一時間離れた幌川市ほろかわしの大型書店にやってきていた。吉野さんは幌川から電車で星海まで通っていると話してくれた。行きの電車のなかでは言葉すくなだった彼女も、目的地に着いてからは饒舌になっている。
 吉野さんがどうしても行きたかったという目的地というのが――。

「森岡くんならこのすごさがわかってくれますよね!? ハダカデバネズミはネズミでありながら、アリのような社会性を持ったすごい生き物なんですよ!」

 彼女のらんらんと輝く目は、ピンク色の物体に向けられている。体毛がなく、ピンク色のだぶついた皮膚を持つネズミ。ハダカデバネズミとかいう悪口のオンパレードみたいな名前はきちんとした正式名称らしい。
 てっきりファミレスで昼食をとったり、ゲーセンで一緒にゲームをするみたいなありきたりなデートプランを想像していた僕は度肝を抜かれた。まさか連れて行かれた先が『ハダカデバネズミ企画展~生命の神秘と社会性~』だとは、誰が予想できようか?
 吉野さんの盛り上がりに水を差さないように、僕もなんとなく視線を展示パネルに向ける。彼女の言う通り、ハダカデバネズミは社会性を持った生き物らしい。巣穴のトップに女王が君臨し、下には女王の世話係や外敵と戦う兵隊もいるという。

「一番下にいるネズミの役割がなにか、知ってますか?」

 どんどん先に展示を回っていた吉野さんが、いつの間にか隣に戻ってきている。彼女の問いを受けて、僕はパネルに描かれたピラミッドをもう一度見た。

「一番下は……労働、働きアリみたいなもの? 餌をとってきたり、産まれたばかりの子どもを世話するのが仕事じゃないのかな」
「そこに描かれているピラミッドでは、そうですね」
「違うの?」

 僕はパネルに向けていた目を吉野さんへ移した。吉野さんのほっそりとした指が、パネルに描かれたピラミッドの最下層……よりもさらに下を指す。

「労働を担うネズミよりもさらに下に、布団係がいるんです」
「布団係?」
「名前の通り、産まれた赤ちゃんネズミたちの布団になるのが仕事なんです。ハダカデバネズミは体毛がないから、仲間の肉布団で体温を調節するんですよ」

 それに、と吉野さんが続ける。

「布団係になったネズミは、巣穴で他のネズミとすれ違う時は必ず道を譲らないといけないらしいんです。もしすれ違う時に踏まれても文句も言えない……すごく、最下層って感じがしませんか?」

 僕は吉野さんの意図がわからず、うろたえた。ひとまずうなずいておいたものの、彼女が本当はなにを言いたかったのか、いまいち理解できない。
 吉野さんは返答に困る僕を見て、恥ずかしそうに風で乱れた前髪を整えた。

「すみません、こんなこと言われても意味わかんないですよね……。私が言いたかったのはつまり、人間も同じだなってことなんです」

 ショートカットの毛先を払い除け、吉野さんが展示パネルを見上げる。

「私はきっと、布団係なんです。ずっと下にいて、他の人に踏まれながら生きていく。女王になることもできない。底辺のまま、死んでいくんです」

 高校二年生にしては悲観的すぎる価値観に、僕はなんと返事をしていいものか迷い、結局なにも言わなかった。
 ちらりと吉野さんの横顔を見る。その顔は学校にいる時よりもやけに大人びて見えた。引き結ばれた小さな唇。切りそろえられた前髪の下で微動だにしない瞳。すこし運動が苦手で、大人しい、クラスでは目立たないタイプの人間だという印象しかなかった彼女が、今ではうんと大人で、遠くにいるように感じる。
 僕はどうだろうか。布団係か、はたまた兵隊か。僕の家において、女王はきっと母だろう。王様は父親だけど、今はいない。

「王様のいない巣穴は、どうなるの?」

 吉野さんがゆっくりと僕を見る。

「兵隊から新しい王様が補充されるんですよ。王様は女王と交尾するためだけに生き続けるんです」

 じっとりと背中に嫌な汗をかく。父親という王様が不在の僕の家で、次の王様になれるのは僕しかいない。
 僕はずっと、母親のためだけに生きていくっていうのか?


◇ ◇ ◇


 幌川に家がある吉野さんとは、駅で別れた。彼女は最後に「夏休みにまた一緒に出かけたい」と言ってくれたが、約束はできなかった。夏休み中に家を出られるかどうかも、まだ定かではないのだ。
 時刻は十六時を過ぎた頃。一人で星海町へ帰る電車に揺られながら、だんだんと足や肩が重くなってくる。家が近づくごとに、帰りたくないという気持ちが膨らんでいく。
 母には友達に頼まれごとをして帰るのが遅くなると言い訳しておいた。補習を言い訳に使ってもよかったが、万が一学校に連絡されたら一瞬で嘘だとバレる。今日の母は機嫌がいいみたいで、なるべく遅くならないようにという一言で済ませてくれた。
 機嫌がいいうちに帰ればいいというのはわかっている。それが一番波風が立たないし、平穏が保たれる。いつもの僕ならこのまままっすぐ家に帰っただろう。でも、なぜだか今日は電車を降りても足がずっしりと重く、徒歩七分の家への道ですら満足に歩けなかった。

 星海町の駅は、無人駅だ。人々が古ぼけた駅舎を通り抜けて足早に帰路へ着いている。僕は控えめな帰宅ラッシュの波を見つめながら、駅舎のガタつくベンチに腰を下ろした。頭上の蛍光灯がチカチカと点滅し、ベンチにはすこし前まで人が座っていたのか、妙なぬくもりが残っている。
 僕の背後で、駅舎のドアがギシギシと音を立てて開いた。いつもは開けっ放しなのに、誰かが親切心を発揮して閉めたらしい。僕一人だけの駅舎に、履きかけの靴を引きずるような足音が響く。
 僕はなんの気なしに振り返って――。

「榊さん?」

 無表情なその顔を、まじまじと見つめてしまった。
 榊さんは黒のショートパンツに、黒のパーカーを合わせた部屋着のような出で立ちで、そこに立っていた。むき出しの脚がやわらかな夕日を浴びて光り輝いている。彼女はサンダルを履いた脚を引きずりながら僕の横まで来ると、お腹のあたりにあるパーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、どかりとベンチに座った。

「帰りたくないんでしょ」

 僕の心を見透かしたように榊さんが言う。彼女はなぜか、僕に対してある種の鋭さを発揮する。まるで僕の家を、母親とのやりとりを、すべて見てきたかのように。
 ポケットから出てきた手が、するりと僕の腕に絡みつく。榊さんの手はひんやりとしていて、夏の夕日で炙られた肌をやさしく冷やした。
 ゆっくりと顔を上げる。榊さんと目が合う。駅舎の開け放たれたドアから風が吹き込み、彼女の細い黒髪をさらっていく。
 榊さんは無表情のまま、共犯めいた囁きを漏らした。

「うちに来る?」
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