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2章(5)
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榊さんを保健室のベッドに寝かせ、僕は自分の行いを激しく後悔した。僕が球技大会に出てほしいなんて言ったから、こんなことになったんだ。
彼女は体育の授業や学校行事を、好きでサボっているわけではなかった。参加したくでもできない理由があったのだ。
「君のせいじゃない」
榊さんはパイプ椅子の上で縮こまっている僕に向かって、天井を見つめたまま囁くように言った。左脚はベッドの上に投げ出されているが、右脚は膝をゆるく曲げ、タオルで固定するように保冷剤が当てられている。
「ごめん、気づかなくて」
形ばかりの謝罪に意味などない。僕は気づいていたはずだ。榊さんはいつだって右脚を引きずるような歩き方をしていた。階段を上る時も右膝がゆらゆらと揺れて、手すりを掴まなければ上ることも難しいようだった。一時的な怪我じゃない。慢性的に、彼女は右脚に問題を抱えていた。それを無視して、僕は榊さんの家まで押しかけて球技大会に出てほしいと言った。僕のせいに決まっている。
榊さんは天井に向けていた視線を、ゆっくりと僕のほうへ移した。白いシーツの上になめらかな黒髪が広がる。
「勝ててよかったね」
「……榊さんのおかげだよ」
もっと言うべきことがあるはずなのに、僕の口は上手く回ってくれない。
「本当に、気にしないで。すこし休めば治るから」
「いつから?」と聞いた僕の声は、ほとんど掠れて聞き取りにくいものだった。それでも榊さんは意図を汲んでくれて、茶色の透き通った瞳が過去を思い出すように遠くを見る。
「怪我したのは、ずっと前の小さい頃」
子どもの頃からずっと、彼女は自由のきかない右脚とともに成長してきたというのだろうか。その脚のせいで、体育の授業に出ることも、学校行事に出席することも制限されてきたのだろう。
どう声をかけるべきなのか、僕にはわからない。というか、僕ごときが彼女にかけるべき言葉を持つわけがない。
僕たちの会話が途切れたのを見計らったように、ベッドを囲むカーテンが細く開けられた。隙間から顔を出した保健室の先生が、ベッドに横たわる榊さんを見て沈痛な面持ちを見せる。
「お母さん、仕事みたいで電話繋がらないんだよね。他に迎えに来てくれる人って、いるかな?」
先生の言葉を聞いた榊さんが苦しみを吐き出すように大きく息をつく。
「迎えに来てくれる人はいません。一人で帰れます」
奇妙に感情を押し殺したような声だった。一瞬ちらりと合った目が怒りに燃えているように見えて、僕は耐えきれずにうつむく。
保健室の先生も負けじと榊さんに交渉する。
「一人で帰すわけにはいかないのよ。帰り道で歩けなくなったりとか……。もう一回、お母さんに電話――」
「やめてください!」
びりっと空気が震えるような叫びが保健室に響く。
ゆるやかに横たわっていた榊さんが、手をついて上半身を起こしていた。
「母に連絡するのは……やめてください」
怒りが抜け、懇願に近い声色で榊さんは先生に訴えた。よほど親との関係がよくないのだろうか。そういえば、榊さんの家に行った時も、彼女は家族はずっといないと言った。家族との間でなにか確執を抱えているのはたしかだろう。しかし、それを詮索するべきではない。僕だって、他人に母親のことを聞かれるのは嫌だ。
榊さんは先生が黙ったのを見ると、右膝に巻かれた保冷剤とタオルを引き剥がし、ベッドから足を下ろそうとした。
先生が動くより早く、僕は彼女の身体をベッドの上に押し留める。非難がましい目を向けられるが、無視した。どう考えてもその足で歩いて帰れるとは思えない。
「僕が送っていきます」
僕は気づけばそう口にしていた。不機嫌に細められていた榊さんの目が大きく見開かれる。
「でも……」と言いかけた先生を手を上げて遮る。
「僕も榊さんも、駅から家近いんで大丈夫です。ね、榊さん?」
頼む、話を合わせてくれ。念を込めて榊さんのほうを見る。せっかく勇ましく申し出たのに、「やっぱりいいです」なんて言われたら僕の心は回復不能なくらい傷つく。僕の勇気に免じて、どうか慈悲を……。
「森岡くんに送ってもらおうと思います」
榊さんが僕の腕に、自分の腕を絡ませる。左脚を床に下ろし、僕の腕にすがりつくようにして立ち上がる。肩のあたりにある頭から、シャンプーのいい匂いとほのかな汗の匂いが混じり合って立ち上っている。
意識を無理やり彼女から逸らしながら、僕は先生に向かって神妙にうなずいた。たぶん大丈夫、僕に任せてほしい。
それでも先生は「じゃあお願いね」とは言わない。生徒二人だけで帰すのが、そんなに不安なのだろうか。
でも榊さんのお母さんとは連絡が取れず、他に迎えに来てくれる人もいないとなると、彼女は一人で帰るか生徒の誰かと帰るしかない。まさかお母さんと連絡がついて迎えに来てくれるまで、保健室に軟禁するつもりなのか?
「でもねぇ……二人で帰ってる途中でなにかあったら困るでしょう? もし榊さんの身になにかあったら、お母さんに説明しなきゃいけないのは先生なのよ?」
「大丈夫です。母はわたしに興味ないので。もしわたしが帰り道で死んだとしても、母は葬式もやりませんよ」
それはそれで問題がある気もするが……榊さんの家にも色々な事情があるんだろう。
僕の腕を掴んでいる榊さんの手に力がこもる。ジャージ越しに冷たい氷を当てられているような、ひんやりとした手のひらの感触を覚える。
なおも渋る先生を二人がかりで説き伏せて、僕たちはなんとか保健室から抜け出した。自分のリュックに加えて、榊さんのリュックも肩にかける。教科書が入っていない分、それほど重みはなくて負担にもならない。
右脚を引きずり、僕の腕に体重を預けながら榊さんが一歩踏み出す。
「お腹空いた」
ビー玉のようにきらめいて、まんまるな榊さんの瞳が僕を見上げる。
時刻は十三時を過ぎたところ。今日は昼で帰ると言ってあるから、母親が家で昼食を作って待っているかもしれない。
でも、そんなことは気にならなかった。榊さんと昼食をとって帰宅後、母の作ってくれた昼食も胃に押し込めばいい。彼女の歩調を合わせて、僕もゆっくり歩き出す。
「なにか食べてから帰ろうか」
榊さんがこっくりとうなずく。
いつも近寄りがたい雰囲気のある榊さんだけれど、球技大会でチームのために頑張ってくれたり、クラスメイトの僕を頼ってくれたり。案外接しやすい部分もあるんだな、と僕はぼんやり考えながら彼女と一緒に帰路に着いた。
彼女は体育の授業や学校行事を、好きでサボっているわけではなかった。参加したくでもできない理由があったのだ。
「君のせいじゃない」
榊さんはパイプ椅子の上で縮こまっている僕に向かって、天井を見つめたまま囁くように言った。左脚はベッドの上に投げ出されているが、右脚は膝をゆるく曲げ、タオルで固定するように保冷剤が当てられている。
「ごめん、気づかなくて」
形ばかりの謝罪に意味などない。僕は気づいていたはずだ。榊さんはいつだって右脚を引きずるような歩き方をしていた。階段を上る時も右膝がゆらゆらと揺れて、手すりを掴まなければ上ることも難しいようだった。一時的な怪我じゃない。慢性的に、彼女は右脚に問題を抱えていた。それを無視して、僕は榊さんの家まで押しかけて球技大会に出てほしいと言った。僕のせいに決まっている。
榊さんは天井に向けていた視線を、ゆっくりと僕のほうへ移した。白いシーツの上になめらかな黒髪が広がる。
「勝ててよかったね」
「……榊さんのおかげだよ」
もっと言うべきことがあるはずなのに、僕の口は上手く回ってくれない。
「本当に、気にしないで。すこし休めば治るから」
「いつから?」と聞いた僕の声は、ほとんど掠れて聞き取りにくいものだった。それでも榊さんは意図を汲んでくれて、茶色の透き通った瞳が過去を思い出すように遠くを見る。
「怪我したのは、ずっと前の小さい頃」
子どもの頃からずっと、彼女は自由のきかない右脚とともに成長してきたというのだろうか。その脚のせいで、体育の授業に出ることも、学校行事に出席することも制限されてきたのだろう。
どう声をかけるべきなのか、僕にはわからない。というか、僕ごときが彼女にかけるべき言葉を持つわけがない。
僕たちの会話が途切れたのを見計らったように、ベッドを囲むカーテンが細く開けられた。隙間から顔を出した保健室の先生が、ベッドに横たわる榊さんを見て沈痛な面持ちを見せる。
「お母さん、仕事みたいで電話繋がらないんだよね。他に迎えに来てくれる人って、いるかな?」
先生の言葉を聞いた榊さんが苦しみを吐き出すように大きく息をつく。
「迎えに来てくれる人はいません。一人で帰れます」
奇妙に感情を押し殺したような声だった。一瞬ちらりと合った目が怒りに燃えているように見えて、僕は耐えきれずにうつむく。
保健室の先生も負けじと榊さんに交渉する。
「一人で帰すわけにはいかないのよ。帰り道で歩けなくなったりとか……。もう一回、お母さんに電話――」
「やめてください!」
びりっと空気が震えるような叫びが保健室に響く。
ゆるやかに横たわっていた榊さんが、手をついて上半身を起こしていた。
「母に連絡するのは……やめてください」
怒りが抜け、懇願に近い声色で榊さんは先生に訴えた。よほど親との関係がよくないのだろうか。そういえば、榊さんの家に行った時も、彼女は家族はずっといないと言った。家族との間でなにか確執を抱えているのはたしかだろう。しかし、それを詮索するべきではない。僕だって、他人に母親のことを聞かれるのは嫌だ。
榊さんは先生が黙ったのを見ると、右膝に巻かれた保冷剤とタオルを引き剥がし、ベッドから足を下ろそうとした。
先生が動くより早く、僕は彼女の身体をベッドの上に押し留める。非難がましい目を向けられるが、無視した。どう考えてもその足で歩いて帰れるとは思えない。
「僕が送っていきます」
僕は気づけばそう口にしていた。不機嫌に細められていた榊さんの目が大きく見開かれる。
「でも……」と言いかけた先生を手を上げて遮る。
「僕も榊さんも、駅から家近いんで大丈夫です。ね、榊さん?」
頼む、話を合わせてくれ。念を込めて榊さんのほうを見る。せっかく勇ましく申し出たのに、「やっぱりいいです」なんて言われたら僕の心は回復不能なくらい傷つく。僕の勇気に免じて、どうか慈悲を……。
「森岡くんに送ってもらおうと思います」
榊さんが僕の腕に、自分の腕を絡ませる。左脚を床に下ろし、僕の腕にすがりつくようにして立ち上がる。肩のあたりにある頭から、シャンプーのいい匂いとほのかな汗の匂いが混じり合って立ち上っている。
意識を無理やり彼女から逸らしながら、僕は先生に向かって神妙にうなずいた。たぶん大丈夫、僕に任せてほしい。
それでも先生は「じゃあお願いね」とは言わない。生徒二人だけで帰すのが、そんなに不安なのだろうか。
でも榊さんのお母さんとは連絡が取れず、他に迎えに来てくれる人もいないとなると、彼女は一人で帰るか生徒の誰かと帰るしかない。まさかお母さんと連絡がついて迎えに来てくれるまで、保健室に軟禁するつもりなのか?
「でもねぇ……二人で帰ってる途中でなにかあったら困るでしょう? もし榊さんの身になにかあったら、お母さんに説明しなきゃいけないのは先生なのよ?」
「大丈夫です。母はわたしに興味ないので。もしわたしが帰り道で死んだとしても、母は葬式もやりませんよ」
それはそれで問題がある気もするが……榊さんの家にも色々な事情があるんだろう。
僕の腕を掴んでいる榊さんの手に力がこもる。ジャージ越しに冷たい氷を当てられているような、ひんやりとした手のひらの感触を覚える。
なおも渋る先生を二人がかりで説き伏せて、僕たちはなんとか保健室から抜け出した。自分のリュックに加えて、榊さんのリュックも肩にかける。教科書が入っていない分、それほど重みはなくて負担にもならない。
右脚を引きずり、僕の腕に体重を預けながら榊さんが一歩踏み出す。
「お腹空いた」
ビー玉のようにきらめいて、まんまるな榊さんの瞳が僕を見上げる。
時刻は十三時を過ぎたところ。今日は昼で帰ると言ってあるから、母親が家で昼食を作って待っているかもしれない。
でも、そんなことは気にならなかった。榊さんと昼食をとって帰宅後、母の作ってくれた昼食も胃に押し込めばいい。彼女の歩調を合わせて、僕もゆっくり歩き出す。
「なにか食べてから帰ろうか」
榊さんがこっくりとうなずく。
いつも近寄りがたい雰囲気のある榊さんだけれど、球技大会でチームのために頑張ってくれたり、クラスメイトの僕を頼ってくれたり。案外接しやすい部分もあるんだな、と僕はぼんやり考えながら彼女と一緒に帰路に着いた。
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