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7章(9)

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 ガタガタと手が震える。照準はとっくに的外れな方向へ向いている。まっすぐ立つことも難しいほど、将太はめまいを必死にこらえ、なんとか二本の足を床へ突き立てていた。
 いざという時、問題なく彩鳥さとりを撃つことができる。将太はそう相沢に宣言した。だが、実際はどうだ? 彼女に銃口を向けられているというのに、頭をよぎるのはきれいな思い出ばかり。

 はじめて弁当屋へ行った時のこと。花のようにささやかで、やわらかな笑み。閉店後のひっそりとしたふたりだけの食事。腕に触れた、焼けるように熱い手のひら。将太に体を開き、貪るように食いつくされた、あの悪夢のような夜。
 復讐に囚われ、生きる意味を失った彼女を救いたい。どうにかして彼女を宝井という呪縛から解き放ってあげたい。

 もし、自分の撃った弾が、彼女を永遠に解放するとしたら。
 それでも、自分は。

「そう……」

 彩鳥のささやく声がする。小鳥のさえずりのように、ひそやかに。

「将太くんは、撃ってくれないのね……」

 失望した響きをもって。
 一瞬、交錯した視線の中。

 引き金を――。


「え……?」


 ガラスの砕けるけたたましい響きで、将太は瞬時に意識を引き戻した。
 目の前には血だまりが広がっている。赤々とした海に倒れ伏す、ひとつの塊。ぴくりとも動かない、死体。

「本部長……?」

 銃を投げ捨て、床に這いつくばる。宝井たからいは驚愕の表情のまま、目を見開いて絶命していた。眼鏡は割れ、眼球に破片が突き刺さっている。額には、弾が抜けたであろう痕。立派な風穴が開いていた。

 恐る恐る顔を上げる。

 彩鳥も、あかつきも、狙撃から逃れるように身を伏せながら、目の前の事態を上手く飲み込んでいなかった。彩鳥が持っていたはずの拳銃は、床に投げ出されている。将太は這って移動すると、拳銃を検めた。暁が残した1発が、そこに収まっている。自分の自動小銃を引き寄せ、震える手で訓練通りに分解する。収めた弾は、ひとつも減っていない。自動小銃を元通りに組み立てながら、頭は別のことを考えている。床には薬莢ひとつ落ちていない。

 彩鳥も将太も、撃っていない。

 将太は体の震えを必死に抑えつけながら自動小銃を胸に構え直し、後ろを振り向いた。ドアの真横。灰色の壁にはくっきりと弾の抜けた跡が残っていた。
 ここにいない誰かの弾が、宝井を撃ち抜き、命を奪っていった。

『加藤! 状況はどうなっている!?』

 無線から、誰かの叫び声がする。
 将太は震えの収まらない体を抱きながら、切れ切れにつぶやいた。

「宝井本部長が、何者かに、外から撃たれました……」

 ひゅっと息を飲む音がする。がちがちと歯の根が合わないまま、続ける。

「即死、です……」



◇ ◇ ◇



 血の臭いだけが鼻をつく、どんよりとした沈黙を破ったのは暁の狂ったような笑い声だった。
 すでに事切れ、動かない宝井の腹を蹴り上げて、暁は目を血走らせたまま将太に向かって叫ぶ。

「まさか本当にやってくれるなんて! 期待以上の働きだよ!」

 そうして呆然と床に座り込む彩鳥に満面の笑みを向ける。

「どうだい、5年間待ち続けた瞬間は? 君が、彩鳥ちゃんが、宝井を死に至らしめたのだよ?」

 宝井の遺体を見つめる彩鳥の目には、なにも映っていない。復讐を果たした喜びも、突然何者かの手によって宝井が殺されたことによる困惑も、なにもない。あるのはただ、深く暗い闇だけだ。

『加藤! 聞こえているなら返事をしろ!』

 相沢の怒号で、将太は我に返った。

「は、はい! 聞こえています!」
『3分後に機動隊を突入させる! お前はその場で待機、気を抜くな!』

 3分。それが、将太と彩鳥に残された時間。

 将太は今後もう二度と、彩鳥に会えないような気がしていた。復讐を終えた彼女は、抜け殻のように動かず、だんだんと目の焦点も合わなくなっている。

添木そえぎさん」

 将太は向かいのビルで慌てふためく射撃班を見ながら、彩鳥へ歩み寄った。彩鳥は壁に背を預け、ぼんやりとしている。暁の狂騒も、いつの間にか収まっていた。
 彩鳥の瞳が一瞬きらめき、将太の顔を映し出した。

「3分後に機動隊がここへきます」

 彩鳥の目の前にしゃがみ込み、必死に言葉を探す。言いたいことはたくさんあるはずなのに、どれも口から吐き出されることはない。

「泣いているの?」

 彩鳥が母親のようにやさしい声で、そう言った。頬を冷たく濡らすもの。汗ではなく、涙なのだと、将太ははじめて気づいた。気づいてしまってからは、止めることができなかった。視界が滲んで、噛み殺した嗚咽が唇の端からもれ出す。

 彩鳥の手が、装備のヘルメットを持ち上げる。耳にはめられた無線のイヤホンも、彩鳥が器用に外していく。一気に頭が軽くなり、冷たい外気が頬を冷やす。とめどなくあふれる涙を、彩鳥の細い指先が拭っていく。拭われたそばから、新しい涙が頬を濡らす。

 彩鳥は泣きじゃくる我が子をあやすように、将太の頭を自分の胸に引き寄せた。ベッドに潜り込んだ時のような深い安心感と、やわらかさでなにも考えられなくなる。

「将太くん、お願いがあるの」

 耳元で彩鳥がささやく。とろけるように甘い声が、脳内を侵食する。

「俺に、できることなら」

 彩鳥がかすかに笑った。吐息が耳をくすぐり、体に痺れが走る。

 背後で誰かが動いた気がしたが、どうでもよかった。
 顔を上げ、彩鳥を目を合わせる。はじめて弁当屋へ行った時に見た、恥ずかしそうにはにかむ顔。熱に浮かされたようにうるんだ瞳。自分も、同じ目をしていただろう。

 彩鳥がわずかに唇の端を持ち上げ、ささやく。


「わたしと一緒に死んで?」
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