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7章(3)
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宝井は混乱でたいして働きもしない頭を必死に働かせた。
この女の正体を言い当てないと、自分は殺される。昨日はじめて会った人間でないことは、女の言葉からも確かだ。
しかし思い出すことができない。単純に、これまで関わったことのある女の数が多すぎるのだ。一時期、出張のたびにホテルへ呼びつけていた女か? それとも先日営業メールを寄越してきたキャバ嬢か? それとも仕事のうちで知り合った女か?
顔を見ても一向に思い出すことができない。そもそも宝井は髪の長い女が好みだ。女のショートボブは幼い顔立ちによく似合っているが、金を払ってまで会いたいと思うほどの容姿ではない。昨日もたまたま知り合って流れるように寝ただけだ。商売女に金を払ったわけではない。
「さすがに覚えていないんじゃない? もう5年前のことなんだし」
長髪の男が助け舟を出すように、女に声をかけた。
5年前? 5年前といえば、自分はまだ本部長ではなかった。宝井の脳裏に、ふっと嫌な記憶が吹き込まれる。5年前の、銀行強盗事件。あの時、自分は犯人に殺されかけたのだ。示談金をたんまり用意したというのに、あの父親は逆上して銀行強盗までやって自分を殺そうとしたのだ。
思い出しただけで寒気がする。嫌な記憶には蓋をしてしまいたい。けれど、あの事件を乗り越えたからこそ、自分は出世できたのだともいえる。自分の命をなげうって人質を解放したことの手腕が評価されたのだ。警備部の部長から本部長までの輝かしい出世街道は、5年前の事件が確立させてくれたといっても過言ではない。
そこまで思い出しても、女は誰なのかはまったく思い出せない。記憶の中で引っかかるものもない。
「君は、なにかの事件の被害者か……? 警察組織に、恨みでも――」
宝井が言い終わらないうちに、頬を鋭い衝撃が襲った。女に殴られたと気づくまで、数秒かかった。コンクリートの床の上をのたうち回る宝井を、女は冷めた目で見つめていた。恐ろしく冷ややかで、今すぐ発砲してもおかしくないような殺気を放っていた。
「ちょっと彩鳥ちゃん、やりすぎたらすぐに死んじゃうよ?」
彩鳥と呼ばれた女は、男の言葉を特に感慨も持たない表情で飲み込んだらしかった。
手足を拘束されたままの宝井を仰向けに転がす。自分の体の下敷きになった両腕が悲鳴を上げていた。ちょうど心臓の辺りを彩鳥が踏みつける。あとわずかでも力を入れれば、凶器的な踵のヒールが宝井の心臓を破ってしまいそうなほど、強く。
出血し、殴られた頬も痛いし、拘束されたままの手首や足首も皮膚がちぎれそうに痛い。おまけに胸を踏みつける脚は徐々に力を込めているのか、どんどん心臓が圧迫され、潜在的な恐怖が想起させられる。
彩鳥は宝井を見下ろしながら、深いため息をついた。殺意が一瞬の陰りを見せ、憐れむような目つきで宝井を見ている。
「わたしの夫がお世話になりました」
吐き捨てるように彩鳥は言う。
「夫? 昨日は、結婚していないって」
胸を踏みつける脚にぐっと力がこもり、宝井は息苦しさに喘いだ。地雷を踏んでしまった、と思った時にはもう遅い。
彩鳥が小さなハンドバッグから写真を取り出す。写っているのは、警察官の制服を着た若い男だ。必死に記憶を漁るも、似たような顔を警察学校で見すぎて、誰が誰だか分からない。
「それが……君のご主人か?」
宝井の問いに、彩鳥は唇をゆがめた。笑みのような、憎悪のような、混沌とした表情で。
「ええ。機動隊銃器対策部隊所属の添木迅。あなたが盾にして、殺した男よ」
封じ込めていたはずの記憶が一気に逆流する。あの時の、若い隊員。顔面に浴びた、生ぬるい血を思い出す。あいつは、必要な犠牲だったのだ。
ふいに骨壺を振り上げる女の姿がフラッシュバックした。痩せ細り、血の気のない顔をした女から放たれた、地獄の深淵を覗き込むような圧倒的な憎しみ。
「お前、は、葬式の……!」
手首や足首の皮膚が擦りむけるのを気にせず、がむしゃらに手足を動かし、なんとかこの場を脱出しようとする。
宝井の頭の中を占めているのは死にたくない、その一心だった。
◇ ◇ ◇
中央署の人間が最初に話を持ち込んだ先が相沢だったということもあり、宝井の捜索には相沢率いる小隊が動員されることになった。ハロウィンの雑踏警備は非番の隊員も駆り出して任せることになるため、引継ぎや計画書の確認などで機動隊本部が一気に騒がしくなる。
大事にしては宝井が出てきづらくなるかもしれない、という配慮で他の隊や署には事情を知らせないまま、捜索活動が行なわれることになった。具体的な事情を知っているのは相沢隊の隊員20名程度と、普段宝井の運転手や護衛などを務めている中央署の人間数名だけである。
奇しくも今日はハロウィンである。夜になれば、繁華街を中心に人でごった返すはずだ。人混みの中での捜索はほとんど望みがないといってもいい。なんとしてでも夜までに見つけなければ、捜索は困難を極めることが予想された。
「事件に巻き込まれた可能性もあることを、忘れないように。必ず、数人で行動すること、分担地域から出ないこと、なにかあれば俺に連絡してくれ。伝達事項は以上だ」
相沢の言葉に隊員がそれぞれ気の引き締まった返事をする。
将太は自動的に、相沢と一緒のグループへ配置された。制服を着込み、装備もつけた後だったが寮に戻って着替え、私服に無線だけを携える。
先ほどからずっと、悪い想像が止まらない。相沢もおそらく同じだろう。もし暁が言葉通りに行動を起こしているのなら、宝井はすでに生きていないかもしれない。彩鳥は? どこにいるのだろう。まさか、暁と一緒に行動をしているなんてことは――。
「加藤、本当に休まなくていいのか? 今からでも法事には間に合うだろう?」
よほど浮かない顔をしていたのか、相沢が心配そうな顔で声をかけてくる。将太はおどけたように「大丈夫っす」と軽い返事をして車に乗り込んだ。
今はなにも考えないようにしよう。とにかく、足を動かして早いところ宝井を見つけるしかない。
この女の正体を言い当てないと、自分は殺される。昨日はじめて会った人間でないことは、女の言葉からも確かだ。
しかし思い出すことができない。単純に、これまで関わったことのある女の数が多すぎるのだ。一時期、出張のたびにホテルへ呼びつけていた女か? それとも先日営業メールを寄越してきたキャバ嬢か? それとも仕事のうちで知り合った女か?
顔を見ても一向に思い出すことができない。そもそも宝井は髪の長い女が好みだ。女のショートボブは幼い顔立ちによく似合っているが、金を払ってまで会いたいと思うほどの容姿ではない。昨日もたまたま知り合って流れるように寝ただけだ。商売女に金を払ったわけではない。
「さすがに覚えていないんじゃない? もう5年前のことなんだし」
長髪の男が助け舟を出すように、女に声をかけた。
5年前? 5年前といえば、自分はまだ本部長ではなかった。宝井の脳裏に、ふっと嫌な記憶が吹き込まれる。5年前の、銀行強盗事件。あの時、自分は犯人に殺されかけたのだ。示談金をたんまり用意したというのに、あの父親は逆上して銀行強盗までやって自分を殺そうとしたのだ。
思い出しただけで寒気がする。嫌な記憶には蓋をしてしまいたい。けれど、あの事件を乗り越えたからこそ、自分は出世できたのだともいえる。自分の命をなげうって人質を解放したことの手腕が評価されたのだ。警備部の部長から本部長までの輝かしい出世街道は、5年前の事件が確立させてくれたといっても過言ではない。
そこまで思い出しても、女は誰なのかはまったく思い出せない。記憶の中で引っかかるものもない。
「君は、なにかの事件の被害者か……? 警察組織に、恨みでも――」
宝井が言い終わらないうちに、頬を鋭い衝撃が襲った。女に殴られたと気づくまで、数秒かかった。コンクリートの床の上をのたうち回る宝井を、女は冷めた目で見つめていた。恐ろしく冷ややかで、今すぐ発砲してもおかしくないような殺気を放っていた。
「ちょっと彩鳥ちゃん、やりすぎたらすぐに死んじゃうよ?」
彩鳥と呼ばれた女は、男の言葉を特に感慨も持たない表情で飲み込んだらしかった。
手足を拘束されたままの宝井を仰向けに転がす。自分の体の下敷きになった両腕が悲鳴を上げていた。ちょうど心臓の辺りを彩鳥が踏みつける。あとわずかでも力を入れれば、凶器的な踵のヒールが宝井の心臓を破ってしまいそうなほど、強く。
出血し、殴られた頬も痛いし、拘束されたままの手首や足首も皮膚がちぎれそうに痛い。おまけに胸を踏みつける脚は徐々に力を込めているのか、どんどん心臓が圧迫され、潜在的な恐怖が想起させられる。
彩鳥は宝井を見下ろしながら、深いため息をついた。殺意が一瞬の陰りを見せ、憐れむような目つきで宝井を見ている。
「わたしの夫がお世話になりました」
吐き捨てるように彩鳥は言う。
「夫? 昨日は、結婚していないって」
胸を踏みつける脚にぐっと力がこもり、宝井は息苦しさに喘いだ。地雷を踏んでしまった、と思った時にはもう遅い。
彩鳥が小さなハンドバッグから写真を取り出す。写っているのは、警察官の制服を着た若い男だ。必死に記憶を漁るも、似たような顔を警察学校で見すぎて、誰が誰だか分からない。
「それが……君のご主人か?」
宝井の問いに、彩鳥は唇をゆがめた。笑みのような、憎悪のような、混沌とした表情で。
「ええ。機動隊銃器対策部隊所属の添木迅。あなたが盾にして、殺した男よ」
封じ込めていたはずの記憶が一気に逆流する。あの時の、若い隊員。顔面に浴びた、生ぬるい血を思い出す。あいつは、必要な犠牲だったのだ。
ふいに骨壺を振り上げる女の姿がフラッシュバックした。痩せ細り、血の気のない顔をした女から放たれた、地獄の深淵を覗き込むような圧倒的な憎しみ。
「お前、は、葬式の……!」
手首や足首の皮膚が擦りむけるのを気にせず、がむしゃらに手足を動かし、なんとかこの場を脱出しようとする。
宝井の頭の中を占めているのは死にたくない、その一心だった。
◇ ◇ ◇
中央署の人間が最初に話を持ち込んだ先が相沢だったということもあり、宝井の捜索には相沢率いる小隊が動員されることになった。ハロウィンの雑踏警備は非番の隊員も駆り出して任せることになるため、引継ぎや計画書の確認などで機動隊本部が一気に騒がしくなる。
大事にしては宝井が出てきづらくなるかもしれない、という配慮で他の隊や署には事情を知らせないまま、捜索活動が行なわれることになった。具体的な事情を知っているのは相沢隊の隊員20名程度と、普段宝井の運転手や護衛などを務めている中央署の人間数名だけである。
奇しくも今日はハロウィンである。夜になれば、繁華街を中心に人でごった返すはずだ。人混みの中での捜索はほとんど望みがないといってもいい。なんとしてでも夜までに見つけなければ、捜索は困難を極めることが予想された。
「事件に巻き込まれた可能性もあることを、忘れないように。必ず、数人で行動すること、分担地域から出ないこと、なにかあれば俺に連絡してくれ。伝達事項は以上だ」
相沢の言葉に隊員がそれぞれ気の引き締まった返事をする。
将太は自動的に、相沢と一緒のグループへ配置された。制服を着込み、装備もつけた後だったが寮に戻って着替え、私服に無線だけを携える。
先ほどからずっと、悪い想像が止まらない。相沢もおそらく同じだろう。もし暁が言葉通りに行動を起こしているのなら、宝井はすでに生きていないかもしれない。彩鳥は? どこにいるのだろう。まさか、暁と一緒に行動をしているなんてことは――。
「加藤、本当に休まなくていいのか? 今からでも法事には間に合うだろう?」
よほど浮かない顔をしていたのか、相沢が心配そうな顔で声をかけてくる。将太はおどけたように「大丈夫っす」と軽い返事をして車に乗り込んだ。
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