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5章(7)
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暁は一切の動揺を見せなかった。彩鳥の名前が出ても、ぴくりとも反応しない。ただ短く、「どうしてそう思った?」と尋ねてきただけだ。
将太も思いつきで言ったわけではない。事件のことを知ってから、ずっと頭の中で考えてきた。彩鳥のことを疑っているわけでもない。
けれど、どうしても彩鳥の昏い目が頭を離れないのだ。夫は宝井に殺されたのだと主張する彩鳥の昏く、深い底なし沼のような瞳。その瞳の奥にくすぶっていた炎は、復讐を誓っているように見えた。
誰かにこの考えを否定してほしかった。誰か一人でもいいから、彩鳥はまちがいなくやっていない、今回の件とは一切関わりがないと断言してほしかった。
グラスの外側で水滴が滑り落ち、コースターを濡らす。
「添木さんは旦那さんが、宝井本部長に殺されたと思っています。そして本部長に復讐するために暁さんと手を組むことにした……ちがいますか?」
「いや、続けて」
「添木さんにとって復讐とは、本部長を殺すことではなく、本部長の大切なものを奪うことなんじゃないでしょうか? 自分が旦那さんを奪われたように、添木さんも本部長から奥さんとお子さんを奪ったのでは……」
言いながらも、将太は答えを期待していなかった。きっと暁は、やったともやっていないとも言わないだろう。事実は、もう目の前に並べられているのだから。
「でも、彼女の姿は監視カメラに映っていない。どれだけ捜査本部が頑張ろうと、監視カメラの映像から得られる証拠など、ひとつもない」
暁は投げやりに言い切った。監視カメラによる捜査が上手くいっていないことまで、彼は知っているのだ。
どこまで情報を持っている? いや、暁はどこまで知っている? なぜ監視カメラから証拠が出ないと言い切れるのか。
「彩鳥ちゃんが関わっているかどうかに関しては、ノーコメントだ。そんなに気になるなら本人にでも聞けばいい」
暁は氷が解けて薄くなったウイスキーを飲み干した。ウイスキーで湿った唇を舐め、艶然と将太を見やる。
「取引をしよう。加藤くんがオレたちに協力すると言うのなら、オレは知っていることをすべて話す。そこにはもちろん、県警もまだ知らない情報が含まれている」
「たとえば?」
「たとえば? そうだな……宝井の家から見つかった、身元不明遺体が誰なのか、とか」
あと少しで将太は叫び出すところだった。警察ですらまだ掴めていない情報。その場にいた人間しか、知り得ないような情報。
心臓が早鐘を打つ。早く、暁から聞くだけ聞き出して、上司に報告しなければならない。顔も指紋も潰されたあの遺体が誰なのか、それが分かれば捜査は一気に進展するはずだ。未だ姿すら分からない、身元不明遺体を作り出した第三者に近づくこともできるだろう。
将太は一度ジントニックをぐっと飲み、心を落ち着けた。暁は情報に交換条件を出している。自分たちに協力すること。彩鳥と暁に、将太が手を貸すこと。なにに? 宝井への復讐?
「俺に、なにをさせようとしているんです?」
将太は我に返って尋ねた。彩鳥や暁に協力することが、なにを意味しているのか。それが分からないほど子どもではない。
暁はもったいぶるように指先でグラスの中の氷をつついた。カラカラと音を立てて、氷が回る。
「簡単なことさ。彩鳥ちゃんの望みを叶える手伝いをするだけだ」
暁は直接的な言及を避けているようにも見えた。それでも彩鳥の望みが示唆することはひとつ。宝井への復讐にちがいない。暁は将太に復讐を手伝えと迫っているのだ。
無為な沈黙だけが流れた。情報は欲しい、しかし暁と彩鳥に協力することはできない。将太にはふたりの行く先が、破滅の道のように思えたからだ。
自分も一緒になって、落ちていく様を想像するだけで胸が痛んだ。母や兄、相沢の顔が脳裏に浮かんでくる。彼らを裏切りたくはない。けれど情報は欲しい。早く事件を解決して、宝井の警護から解放されたい。手柄を立てて、相沢の役に立ちたい。母に立派な警察官になったのだと、感心してもらいたい。
「加藤くんには、宝井に恩を売っておいてもらわないと困るんだよ。君の持ち帰った情報で事件を解決したら、宝井はまちがいなく加藤くんを引き立てる。宝井に忠誠を誓う犬のような顔をして、ある日突然、その首に噛みついてやるのさ」
将太もだんだんと、暁の言わんとしていることが分かりはじめた。暁は今後のために、警察内部の協力者がほしいのだ。相沢ではなく、もっと別の。たとえば、彩鳥に心酔し、彩鳥のためなら犬にでもなるような協力者を。
「オレの言うことが信用できないなら、後で弁当屋でも彩鳥ちゃんの部屋でもどこでも行けばいい。きっと彼女の方が、熱烈に加藤くんを求めてくれるよ」
暁がじわじわと包囲網を狭めていく。相沢は同期の恨みを晴らすために、暁に魂を売った。では、自分は? なんのためにふたりに協力するのだ? ここで得ようとしている情報は、時間が経てば捜査本部でもたどり着くものではないのか?
決断を迫られる。今のところは協力するふりをして情報だけかすめ取ればいい。分かっている。
彩鳥のやわらかな笑みが、将太の心を支配した。はじめて弁当屋で行った時の、恥ずかしそうな笑み。小鳥の鳴くようなささやかな声で、将太の名を呼ぶ声。腕に触れた、吸いつくような熱さを持った手のひら。
彩鳥のすべてが、将太を深く蝕んでいる。最初から、将太のことを求めていたかのように。
「知っていることを……すべて話してください」
暁の形のいい唇が、凄絶にゆがんだ。将太には分からなかったが、それは笑みを模してるようだった。
将太も思いつきで言ったわけではない。事件のことを知ってから、ずっと頭の中で考えてきた。彩鳥のことを疑っているわけでもない。
けれど、どうしても彩鳥の昏い目が頭を離れないのだ。夫は宝井に殺されたのだと主張する彩鳥の昏く、深い底なし沼のような瞳。その瞳の奥にくすぶっていた炎は、復讐を誓っているように見えた。
誰かにこの考えを否定してほしかった。誰か一人でもいいから、彩鳥はまちがいなくやっていない、今回の件とは一切関わりがないと断言してほしかった。
グラスの外側で水滴が滑り落ち、コースターを濡らす。
「添木さんは旦那さんが、宝井本部長に殺されたと思っています。そして本部長に復讐するために暁さんと手を組むことにした……ちがいますか?」
「いや、続けて」
「添木さんにとって復讐とは、本部長を殺すことではなく、本部長の大切なものを奪うことなんじゃないでしょうか? 自分が旦那さんを奪われたように、添木さんも本部長から奥さんとお子さんを奪ったのでは……」
言いながらも、将太は答えを期待していなかった。きっと暁は、やったともやっていないとも言わないだろう。事実は、もう目の前に並べられているのだから。
「でも、彼女の姿は監視カメラに映っていない。どれだけ捜査本部が頑張ろうと、監視カメラの映像から得られる証拠など、ひとつもない」
暁は投げやりに言い切った。監視カメラによる捜査が上手くいっていないことまで、彼は知っているのだ。
どこまで情報を持っている? いや、暁はどこまで知っている? なぜ監視カメラから証拠が出ないと言い切れるのか。
「彩鳥ちゃんが関わっているかどうかに関しては、ノーコメントだ。そんなに気になるなら本人にでも聞けばいい」
暁は氷が解けて薄くなったウイスキーを飲み干した。ウイスキーで湿った唇を舐め、艶然と将太を見やる。
「取引をしよう。加藤くんがオレたちに協力すると言うのなら、オレは知っていることをすべて話す。そこにはもちろん、県警もまだ知らない情報が含まれている」
「たとえば?」
「たとえば? そうだな……宝井の家から見つかった、身元不明遺体が誰なのか、とか」
あと少しで将太は叫び出すところだった。警察ですらまだ掴めていない情報。その場にいた人間しか、知り得ないような情報。
心臓が早鐘を打つ。早く、暁から聞くだけ聞き出して、上司に報告しなければならない。顔も指紋も潰されたあの遺体が誰なのか、それが分かれば捜査は一気に進展するはずだ。未だ姿すら分からない、身元不明遺体を作り出した第三者に近づくこともできるだろう。
将太は一度ジントニックをぐっと飲み、心を落ち着けた。暁は情報に交換条件を出している。自分たちに協力すること。彩鳥と暁に、将太が手を貸すこと。なにに? 宝井への復讐?
「俺に、なにをさせようとしているんです?」
将太は我に返って尋ねた。彩鳥や暁に協力することが、なにを意味しているのか。それが分からないほど子どもではない。
暁はもったいぶるように指先でグラスの中の氷をつついた。カラカラと音を立てて、氷が回る。
「簡単なことさ。彩鳥ちゃんの望みを叶える手伝いをするだけだ」
暁は直接的な言及を避けているようにも見えた。それでも彩鳥の望みが示唆することはひとつ。宝井への復讐にちがいない。暁は将太に復讐を手伝えと迫っているのだ。
無為な沈黙だけが流れた。情報は欲しい、しかし暁と彩鳥に協力することはできない。将太にはふたりの行く先が、破滅の道のように思えたからだ。
自分も一緒になって、落ちていく様を想像するだけで胸が痛んだ。母や兄、相沢の顔が脳裏に浮かんでくる。彼らを裏切りたくはない。けれど情報は欲しい。早く事件を解決して、宝井の警護から解放されたい。手柄を立てて、相沢の役に立ちたい。母に立派な警察官になったのだと、感心してもらいたい。
「加藤くんには、宝井に恩を売っておいてもらわないと困るんだよ。君の持ち帰った情報で事件を解決したら、宝井はまちがいなく加藤くんを引き立てる。宝井に忠誠を誓う犬のような顔をして、ある日突然、その首に噛みついてやるのさ」
将太もだんだんと、暁の言わんとしていることが分かりはじめた。暁は今後のために、警察内部の協力者がほしいのだ。相沢ではなく、もっと別の。たとえば、彩鳥に心酔し、彩鳥のためなら犬にでもなるような協力者を。
「オレの言うことが信用できないなら、後で弁当屋でも彩鳥ちゃんの部屋でもどこでも行けばいい。きっと彼女の方が、熱烈に加藤くんを求めてくれるよ」
暁がじわじわと包囲網を狭めていく。相沢は同期の恨みを晴らすために、暁に魂を売った。では、自分は? なんのためにふたりに協力するのだ? ここで得ようとしている情報は、時間が経てば捜査本部でもたどり着くものではないのか?
決断を迫られる。今のところは協力するふりをして情報だけかすめ取ればいい。分かっている。
彩鳥のやわらかな笑みが、将太の心を支配した。はじめて弁当屋で行った時の、恥ずかしそうな笑み。小鳥の鳴くようなささやかな声で、将太の名を呼ぶ声。腕に触れた、吸いつくような熱さを持った手のひら。
彩鳥のすべてが、将太を深く蝕んでいる。最初から、将太のことを求めていたかのように。
「知っていることを……すべて話してください」
暁の形のいい唇が、凄絶にゆがんだ。将太には分からなかったが、それは笑みを模してるようだった。
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