星渡る舟は、戻らない

蘇 陶華

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もう一つの僕の顔

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「これだけは、約束してほしい」
専属のバイオリニストとして、契約したいという榊さんの申し出には、いくつか、条件があった。
「うちでは、音楽部門をいろいろ考えていてね。だから、他への露出は、控えてほしいんだ」
この段階で、榊さんが僕のシーイとしての活動は知らない。
「今は、いろんな媒体があるから、君くらいの腕前の子は、メディアで活動してても、おかしくないが、僕は、安売りして欲しくないと決めている」
僕と榊さんの話を、ニコニコしながら、榊さんの娘は、聞いていた。
名前を萌という。
「本当だったら、今頃、結婚していたんだけどね。少し前に、悲しい事故があって、恋人を亡くしてしまった。そこから、一人なんだよ」
萌さんが、席を立った時に、榊さんが、ぼそっと言った。
「早く、結婚してほしい。君が、娘を欲しいと言ってくれるなら、いつでも、いい返事をするつもりだ」
勿論、僕は、冗談として、聞いた。
「君は、バイオリン一筋なのか?」
あえて、僕は、返事しなかった。
歌も好きだ。
自分で、詩を書いて、寧大が曲をつける。
それを、バイオリンで、弾いたり、ライブをしたり。
実際、それで、食べていく事は、難しいと思うけど、僕には、この活動をやめるつもりはない。
「メディアの件ですけど」
断ろうと思った。
榊さんの数あるレストランで、演奏する事で、僕の知名度が上がって、それで、仕事が出来るならと、思っていたが。
「友人と活動している事もあります」
「ほう・・・そうか」
言わないで、隠す事もできるが。
「僕の挑戦だと思っています。いろんな人に、僕の猿翁を聞いてもらいたい。勿論、顔は出していません。技術だけを評価して欲しいから」
「ずいぶん、自信があるんだな」
「名前がなくても・・。いつか、僕の父親の耳に届いてくれたらと思っていて」
それを聞いた榊さんの顔色が変わった。
「いつか・・父親って。側に、いないのか?」
「父親は、僕が生まれた事を知りません。別れた後に、僕が生まれたので。その母親も、僕が、幼い頃に、亡くなりました」
「え・・・」
榊さんの僕を見つめる瞳の奥に、悲しさが、込められていた。
「そうなのか・・・」
言葉少なくなっていく。
萌さんが、淹れたコーヒーを持って来るまで、榊さんは、あれこれと、想いに耽っているようだった。
「で。パパとの契約は、どうしたの?」
徐に、僕に聞く。
「もう少し、考えさせてもらおうかな。友人とも相談したいし」
「専属は、無理って事?」
「何か、活動されているそうだ」
榊さんが、そういうと、萌さんが目を輝かせた。
「そうなの?是非、聞いてみたい」
そう身を乗り出した所で、携帯が鳴った。
澪からだった。
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