上 下
26 / 106

星のない海に漂う人

しおりを挟む
暫くして、莉子は、僕の前から消えた。いつものように、日々が流れて行く。莉子の夫は、あれからすぐ、彼女を迎えに来て、誰にも見送られる事なく、病院を後にした。屋上から見送る僕は、あまりにも、未練がましく惨めだった。僕の行いが、彼女の決心を固くしたのか、わからなかったが、僕も、どうして、あんな事をしたのか、わからなかった。
「子供ね」
莉子は、そう言った。そうだよ。僕は、子供だ。親のしがらみから、抜け出せないでいる。力ずくで、僕は、莉子を連れ去れば良かったのか?莉子の夫は、ピアニストの生命とも言うべき、右手で、僕を殴っていた。演奏を諦めたから、僕を殴って、傷ついても、平気なのか?それとも、莉子を失う恐怖がそうさせたのか?僕は、前者であってほしかった。僕は、凄く、自虐だった。
「あ・ら・た」
黒壁は、変わらず、新しい学生のリハビリに夢中だった。変わらず、僕にちょっかいをかけて来る。
「俺、カフェイン抜き」
黒壁の差し出したコーヒーを押し戻す。
「いつまで、引きずっているんだよ。まさか、本気だったなんて?」
「自分でも、わからん。歩行困難と言われた症例を、どこまで、回復させたか。自分の能力を試したいだけだったのか」
熱かったのか、一口、コーヒーを口に入れた黒壁は、
「あちち」
慌てて、コーヒーを吐き戻した。
「障害がありすぎるよ。彼女は」
黒壁は言う。
「興味を持つのは、わかる。だけど、車椅子の人妻だよ。なんで、なんでも、手にできるお前が、わざわざ、選ぶ?」
「今は、だろう?今は、車椅子。今は、人の妻」
「おいおい。人に聞かれたら、どうするんだよ」
黒壁は、辺りを見回した。
「お前さ。まさかまさか、だけど。移動願いなんて出してないよな?」
「何で?また、安達達が、何か、聞きつけたのか?」
僕は、知らないふりをした。あの騒ぎにあった日に、父親の病院から来た整形外科医が、事件の詳細を、報告したのだ。幸い、怪我は、捻挫で済んで車の運転もできる程度だったが、僕の無謀さに、両親がカンカンになっていた。
「すぐ、帰るように」
これだ。僕を守ろうとするのは、嬉しいが、どこまで、逃げても、所詮は、親の掌の中にいる。移動を希望したのではなく、親の圧がかかって、移動させられそうになっていた。
「どこにも行かないさ」
ここから移動したら、二度と莉子に会えない気がしていた。
「移動する意思がないならいいが。いつだったか、市長が院長に挨拶に来てたらしいぞ。お前のお陰で、娘が助かったって」
「そもそも、親父さんが原因の事故なんだけどな」
「それで・・・彼女が会員の協会のステージがあるらしい。復興の活動をしているらしく、チャリティーショーをやるから、来てくれって」
「チャリティーショー?何の?」
莉子が入っていた協会とは、フラメンコか?
「フラメンコの大御所も、随分、来るらしい。もしかしたら、会えるかもよ」
僕は、笑った。
「興味ないよ。もう、違う世界の人なんだ」
僕は、黒壁が差し出して、断ったカフェイン入りのコーヒーを、思わず、口にしていた。チャリティーショーに来るかもしれない。僕は、慌てて、ネット検索をしていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

帰らなければ良かった

jun
恋愛
ファルコン騎士団のシシリー・フォードが帰宅すると、婚約者で同じファルコン騎士団の副隊長のブライアン・ハワードが、ベッドで寝ていた…女と裸で。 傷付いたシシリーと傷付けたブライアン… 何故ブライアンは溺愛していたシシリーを裏切ったのか。 *性被害、レイプなどの言葉が出てきます。 気になる方はお避け下さい。 ・8/1 長編に変更しました。 ・8/16 本編完結しました。

やり直すなら、貴方とは結婚しません

わらびもち
恋愛
「君となんて結婚しなければよかったよ」 「は…………?」  夫からの辛辣な言葉に、私は一瞬息をするのも忘れてしまった。

どうやら婚約者が私と婚約したくなかったようなので婚約解消させて頂きます。後、うちを金蔓にしようとした事はゆるしません

しげむろ ゆうき
恋愛
 ある日、婚約者アルバン様が私の事を悪く言ってる場面に遭遇してしまい、ショックで落ち込んでしまう。  しかもアルバン様が悪口を言っている時に側にいたのは、美しき銀狼、又は冷酷な牙とあだ名が付けられ恐れられている、この国の第三王子ランドール・ウルフイット様だったのだ。  だから、問い詰めようにもきっと関わってくるであろう第三王子が怖くて、私は誰にも相談できずにいたのだがなぜか第三王子が……。 ○○sideあり 全20話

私の恋が消えた春

豆狸
恋愛
「愛しているのは、今も昔も君だけだ……」 ──え? 風が運んできた夫の声が耳朶を打ち、私は凍りつきました。 彼の前にいるのは私ではありません。 なろう様でも公開中です。

王命を忘れた恋

須木 水夏
恋愛
『君はあの子よりも強いから』  そう言って貴方は私を見ることなく、この関係性を終わらせた。  強くいなければ、貴方のそばにいれなかったのに?貴方のそばにいる為に強くいたのに?  そんな痛む心を隠し。ユリアーナはただ静かに微笑むと、承知を告げた。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

砕けた愛は、戻らない。

豆狸
恋愛
「殿下からお前に伝言がある。もう殿下のことを見るな、とのことだ」 なろう様でも公開中です。

処理中です...