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第5章 宵の口
第38話 涙の道
しおりを挟む「…………と、とりあえず、お顔を上げてください……!」
紳士は千鶴の言うとおりに顔を上げましたが、ソファに掛け直すことはなく、カーペットの上に座した状態で彼女を見つめています。
「えっと、ごめんなさい。本で見て知ったわけじゃなくて……。たまたま、人魚と交流した人の記録を見る機会があったので…………」
「人魚と交流した人の記録……とは? 旅先で出会い、言葉を交わした体験記のようなものでしょうか。そうではなく、私のように人魚と苦楽をともにした人間の…………?」
紳士は興奮を抑えきれない様子で立ち上がり、つかつかと千鶴の元に歩み寄ってきました。
(偶然なんだろうけど、鋭いなあ……。どっちも合ってる)
千鶴は布団に上に投げ出していた両手を使い、宙に長方形を描きます。
「日記……です。おじさまと同じ、人魚と結ばれた男性の……。でも、すごく私的なもので、内容も…………」
「……図書館で扱うことはもちろん、公に発行するのも憚られるような話を含んだものということでしょうか」
紳士の目は、標的に狙いを定めた猛禽類のごとく鋭くなりました。
「はい。大体そんな感じだったので……。わたしが覚えていることのなかにも、おじさまの探してるような情報はないんじゃないかと思います。わたしからしても、奥さんの行方の手掛かりになりそうなことは書かれてなかったですし…………。お役に立てなくて、すみません」
「貴女が頭を下げることはないでしょう。私のほうこそ、早合点してしまい、申し訳ございません」
「でも……。人魚について知りたいんですよね? だから、わざわざわたしがどれだけ知っているか聞いて…………」
謝罪を返された千鶴は、胸を満たす罪悪感に苛まれながら、力なく首を振りました。
「いえ、少し違います。『未知の情報が得られれば……』と思っていたのも事実ですが、先ほどの話題を追及したのは――――」
「違ったんですか?」
「…………すみません。私は人魚の存在を信じていなかったもので、『人魚なんて架空の生きものなのだから、予知能力があったとしても恐るるに足りない』と説くつもりだったのですが…………」
千鶴は、まばたきもせずに紳士の言葉を待っています。
「貴女はもう人魚に会ってしまっている。……ということは、その説得は通じないということです。お力になれなかったのは、やはり私のほうですよ」
窓の外を向いた紳士は、波間に愛した人の影を探しているのでしょうか。
(……そっか。この人はこの人で、わたしのことを励まそうとしてくれてたんだ……)
罪悪感の代わりにあたたかい感情が満ちていくと同時に、目尻から耳のほうに続く涙の道が形作られました。
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