誰かが尾鰭をつけた話

片喰 一歌

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第3章 昼下がりの川辺

第57話 焦燥/尚早

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「……っ! 紫水さん?」
 
「私が何度、頭のなかで君を乱したと思っているんだい……? それでも必死に耐えてきたというのに、他でもない君が、私の努力を無駄にするつもりかな?」
 
 紫水は手を止め、真剣に問います。
 
「……ずるいです、紫水さん。そんなこと言われたら、引くしかないじゃないですか」

 瞳にいっぱい涙を溜めた千鶴は、恨めしげに彼を睨みましたが、上目遣いのそれに迫力などあろうはずもなく。

「ずるくて結構さ。私はまだ当分、君とそういうことをする気はないよ。突き放すように聞こえてしまうかもしれないけれどね」

 彼の決意を覆すことも、かないませんでした。

「本当ですよ……」

「…………ねえ、千鶴。君は、なにをそんなに焦っているのかな?」

 紫水はようやく腕のなかの千鶴を解放しましたが、彼女は彼から離れようとはしません。
 
「君には君の速度というものがあるはずだよ。私には、千鶴が早く大人になりたがっているように思えて、心配なんだ。焦ることなんて、なにもないのに……」

「…………せりもしますよ……」 

 困った挙句、大人として医者として、ありふれた一般論で説き伏せにかかった紫水でしたが、は彼女にとって、禁句にも等しい言葉でした。
  
「ん?」 

「焦りもしますよ!!」

 我慢の限界に達した千鶴は、半ば叫ぶようにして、心の澱を吐き出しました。

「千鶴……?」

「この際だから言いますけど、無笛村には『満十七歳までに結婚しないといけない掟』があって、それを守れない人は、村を追い出されるんです」
 
「…………確か、あのとき……千鶴も十七歳だと言っていたね。ということは、君が村を出てきたのは……」

 声を荒らげた千鶴を見守る紫水の表情は、目に見えて曇っていきます。
 
「そうです。村に置いてもらえなくなったからです。変な掟ですよね。わたしもいまだに意味がわかりません。でも、掟は絶対なんです。あの村の人たちにとっては、もしかしたらなにより大事なものなのかもしれません。家族より、友達より……。だから、結果的には、あそこを出られてよかったと思ってます。最初に出会えたのが紫水さんだったのも、幸運でした」

 当時の強がりを本心から口にしたことで、いくぶん胸のつかえが下りたのは事実でしたが、とうに普通から逸脱してしまった千鶴は、相も変わらず、たとえ形だけでも普通であることを求めていました。

「でも、小さい頃から触れてきた常識って、ちょっとやそっとじゃ変わってくれないみたいで……。わたしの基準とか感覚の一部は、たぶんあの頃のままなんです」

「千鶴…………」 

 紫水の手は、彼女の身体に触れるか触れないかのところで、彷徨を続けています。
 
「ねえ、紫水さん。わたしたちが出会った日からどのくらい経ってるか、知ってますか? ……わたしはもう、数えるのやめちゃったんですけど。同い年の、満十七歳に間に合うようにお嫁に行った子たちは、当然、だって、もうとっくに済ませてるわけで……」
  
 喉元で滞留するどす黒い感情の一部は、来た道を引き返し、少女の心の奥底へと還っていきます。
 
 紫水と過ごす日々のなかで、同年代の女の子たちとのあいだに開いていた差が少しは縮まったのではないかと感じていた千鶴でしたが、所詮そんなものはまやかしで、自分だけはあの場所から一歩も動けていないのだという絶望が、内側からじわじわと彼女を蝕んでいくかのようでした。
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