誰かが尾鰭をつけた話

片喰 一歌

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第2章 夜明けの海辺

第22話 標榜

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「でも、過度に期待をさせてしまったら悪いから、先に伝えておこう。くどいようだけれど、私は『普通の人よりは多少、医術の心得がある』という程度だ。期待するなとは言わないけれど、程々で頼むよ。……というわけで、早速診てみるかい?」

 滑らかな動作で立ち上がった紫水に、千鶴も倣います。

「……お願いします」

 案内されたのは、奥の部屋でした。

 病床が数台に、あちこちにそれらしい器具も置かれていましたが、その他の調度品などは生活空間から大きく逸脱したものではなく、診察のための部屋というよりも、一風変わった書斎といった雰囲気です。

「うん。じゃあ、そこの椅子に掛けていて」

 紫水は本棚の前で背表紙を見比べながら、手持ち無沙汰になってしまっていた千鶴に指示を出しました。
 
「はい……」

「緊張しないで。着ているものを脱がせたりはしないし、痛みをともなう検査をしたりすることもないから。話していたら、あっという間さ」

 手掛かりになりそうな情報はすでに話したあとなので、問診は必要ないということでしょう。

 戻ってきた紫水も、持ってきたものを置いたあと、隣の椅子に腰掛けました。

「紫水さんは、いつもここで患者さんを診てるんですか?」

「そうそう。多い日はひっきりなしに人が訪れるけれど、来ない日は来ないねえ。本当なら、毎日そうであってほしいくらいだよ。どんな人でも、なにをするにも、まず第一に健康でなくてはね?」

 見る角度によって微妙に色が変化する紫水の瞳は、千鶴がまばたきひとつするごとに異なる表情を見せています。

「『本職に身が入るから』という理由もないわけではないけれど、私が医者の真似事をしないで済む。……いや、私に限ったことではないか。病を根絶することは不可能だとわかっていても、『医者が必要とされない世界になればいいのに』なんていう青臭い願いは、いつまでも捨てられないなあ」

 現実と理想とのあいだに立ちはばかる壁を憎んでいるのでしょうか。

 彼の左手はきつく握られていました。

「…………そうですね。本当に、そう思います」

「わかってくれるかい? 嬉しいよ」

 ぱっと笑顔になった紫水を見上げて、千鶴は切り出します。
 
「あの……。さっきから気になってたんですけど、紫水さんの本職っていうのは? ……あ、聞いちゃいけない感じだったら、忘れてください!」

 高い志を持った理想の医者がごとき彼が他に請け負っている仕事がなんなのか、彼女には皆目見当もつきませんでした。
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