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2章 塵の焔

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その日の義経は、後白河法皇から与えられた屋敷で、うつらうつらとしていた。
 狩衣の胸ははだけ、白粉など塗らずとも貴族にも負けない白い頬にはうっすらと、無精鬚まで浮いてきている。
 頭を預けているのはこれも、後白河院より賜った白拍子の一人であるが、その名は覚えていない。元来義経は人の名を覚えるのが苦手で、何かに関連付けなければすぐに忘れてしまうのだ。
 だが、戦関連の人間の名は直ぐに覚えるし、忘れない。
例えば一の谷急襲の際に、背後でひときわ大声を上げていた武将の名など、普通は混乱に紛れてしまうものだが、義経はそれを簡単に覚えてしまう。
「しかしつまらんな、こうも暇であると、いっそ平家でも木曽の残党どもでも構わぬから、出てきてはくれぬのかのぉ」
「そんな事を仰いますな九朗殿、またこの京を火の海にでもするつもりですか?」
 義経の声に反応したのは頭を預けている白拍子ではない。れっきとした朝廷に官位を持つ貴族階級の男だった。貴族階級とは言っても、藤原氏の下級貴族である。
 例によって義経は、顔はわかっているが、名は覚えていない。
 覚えていないが、覚えていないと面と向かって言うのはどこか恥ずかしいので、義経は適当に相手をすることにした。
 戦っていない時は、そんな自分で良いと義経自身思ってもいる。
「皆々様は京を火の海にするなと良く言いますが、この義経を使い、早々に平家を抹殺すれば良いのです、そうなれば火をかける者など居なくなりましょう」
「しかし木曽殿の残党の噂もあり、院は義経殿を京から放したくないご様子」
「それがなぁ~、この退屈のうさも晴らせぬ理由よ」
 下級貴族とはいえ、官位で言えばはるかに上の男相手に義経は姿勢を正さず、そのままの姿勢で話し続ける。
 坂東武者、それも頼朝に近い武士であればあるほど、官位に恐れを抱き、藤原氏の係累と聞けば板の間に這いつくばって、顔も上げられないのが普通だ。
 坂東で何某の者と名乗って威張り散らしている武者も、貴族には頭が上がらない。
 義経はそれが何故だかわからないのだが、自分は特殊と割り切っている。
 流石に京にて政をつかさどる後白河院や摂関家には平身低頭するが、決して心から遜っているわけではない。
「まあまあ長い時は掛かりませんでしょう、未だに平家は西国に割拠しておりますし、院は平家とは決して和解されることはないでしょうからな」
「ふむ、それならば良いのですがね」
 義経にとって、この京に来て何が不思議と言って、後白河院ほど不思議な存在はない。義経が打倒平家を叫んでいる理由は、父の仇と言うのもあるが、平家を仇とせねば自ら
の居場所が無かったからだ。
 鞍馬山に幽閉されている自分、吉次の手を借りて奥州へ渡った自分。そのどちらも義経の終着点にはならなかった。鞍馬山では平家の監視もつき、年古い上級の僧に文字通り体ごと弄ばれる日々は苦痛でしかなかった。
 奥州に渡った後は、賓客とは言われながらも自由は少なく、接待という名で奥州の豪族の娘が纏わりつき、馬を鍛える事も出来なかった。
 誰もが平家に気を使い、源氏嫡流の自分を押さえ込もうとしてきた。
 だからこそ、義経は父の仇と言う名目を持って、平家を憎み、打倒に向けて活動した。だが今の義経は誰にも言わないが、目的であった清盛入道が身罷った為、進むべき道を
見失っていた。平家打倒を切望していると他には思わせている義経だが、清盛入道亡き後
の平家に恨みはない。兄である鎌倉殿が望む事の中で、自らに出来ることが戦しかないと
いうのもある。
 翻って後白河院はどうであろうか?
 一時期は平清盛と手を結び、源氏の棟梁、義経の父義朝を陥れた張本人ではないか。
 その後白河院は、父も母も、血族に一人として平家に命を奪われてはいない。むしろ血族の中には平家の係累も多い筈。
 それなのに、平家を憎むこと蛇蝎のごとくだ。
 後白河院に謁見した義経は即座にその事に疑問を抱き、不思議の人と後白河院を思うことにした。
 義経の院への評価は肌感覚で言えば、平家に起こることは源氏にも起こると言う、叔父である新宮行家の言葉通りだった。
 今は源氏を頼りにする院も、その実、幽閉されるまでは平家を頼みにすると表面上は言っていたのだ。院の命令で、都から平家を追い出した木曽義仲を、同じ源氏に対して追討令を出し、滅亡させたという実例もある。
「さて、それでは私はそろそろお暇いたしまするな、あまり義経殿と長話をしていると、疑る者も出てきますので」
 微笑と共に立ち上がる男。その時なんとなくだが、義経の脳裏にこの男の名が浮かんできた。
 美濃から近江に陣を移す際に、出迎えに来た青年貴族の一人だったか。確か藤原氏とは言っても傍流で、名は藤原恒柾と言う筈だ。
 意外に馬術は巧みで、戦陣を走るのは無理でも、行軍は出来るくらいの技量はあった。
「義経個人には恐れられるような力量はありませぬよ恒柾殿、しかし近江路で以前言っていた事、まだ志しておりますか?」
 その義経の不意の言葉に、恒柾は作っていない笑顔を浮かべて頬まで紅潮させてうなづく。美濃から近江路を義経と同道した際にこの男は、戦にも同道し、平家に一泡吹かせたいと語っていたのだ。
 どうやら父が官位を餌に、平宗盛に辱められたと話していた。また平家が滅びたならば
父の旧領に下向し、土地と共に生きたいとも言っていた。
 この時代、都の下級官吏が一念発起して地方の荘園に土着することは多々あった。しかしその多くは鄙の生活に苦しみ、都に向かって嘆きながら世を終えるという。
 それを危惧して、戦場を経験した後に、在地の武士達と対等に渡り合いたいとも言っていたのが恒柾だった。
 名さえ覚えていなかったのに、一気にここまで思い出すのも、義経と言う男の魅力かもしれない。
「ならば、機会は間も無くやってくるでしょう」
「?」
 今までのだらしない義経と、姿勢こそ変わらなかったが、口調に真剣な響きがあった。まるで占い師が、占う未来を的中するかのような響きだ。
「御曹司!九朗殿はいずこっ!」
 突然、外から天も揺るがす大声が聞こえてくる。
 義経の監視役として派遣されている梶原景時の声だった。その声は緊迫しており、大事出来の様相がおのずとわかる。
 恒柾が予言を的中させた占い師を見る驚愕の瞳で、見つめてくるのを涼しい顔で受ける義経であった。
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