9 / 12
第八章 いぬさんのたたかい 肆
いぬさんのたたかい 肆
しおりを挟む
第八章 いぬさんのたたかい 肆
新年が明けて二日目。
緊張状態は続き、開戦は明日か今日かと人が集まるたびに囁いているのが聞こえてくる。怯えが滲んでいるものは先ごろ迄公武合体論を唱えていた者たちだ。当初からの討幕派であった公家の声には自慢気な色合いがある。薩長の必勝を信じているというよりは、その間諜からもたらされる言葉を鵜呑みにしているだけだろう。
ここで鷹司が幕府軍は薩長の三倍から四倍は居るのだぞ。と伝えても信じたいものしか信じない状況の公家は冷笑を持って報いて来るだろう。ここ最近の幕府の為体や、大樹公の及び腰を薩長の力が増しているからだ。薩長が仰ぎ見ているのは朝廷、だから自分達にも力があるのだと思いたいのだろう。とんだ勘違いだと鷹司は思っている。
朝廷ははるかな昔、室町幕府と争った時を最後に力を失い、かろうじて権威のみにしがみついて細くて長い命脈を保って来た。朝廷は力を持ってはいけないのだ。帝が頂点にあり、その下で武家が世を力で守る。その構図が良い。徳川ひとつでは無くこの国の武家すべてが平等に帝と国を守るのがさらに良い。
「これはお久しいですな、中山卿、内裏に復帰なさったとは聞いておりましたが、ご挨拶もせずに申し訳ありませぬの」
内裏の清涼殿からこちらに向かってくる公家集団の先頭で中山忠能が歩いてくる。硬骨漢で知られ、先代の帝に逆らっても信念を曲げなかった、公家には珍しい男だ。すでに老齢といっても良いくせに、周囲に公家を侍らせ内裏を闊歩する姿は権力者然としている。
そして、この中山忠能と鷹司の仲は大変悪い。
飄々としていて掴みどころの無い鷹司は、中山からしてみれば根無し草の様で、誠に不快なのだそうだ。正面切って対決してこないのは、一応鷹司が五摂家の端に連なる男だからだろう。
「これは鷹司卿、昨今は公家の浮き沈みも激しくて目まぐるしいものじゃて、麿も昨日と今日でこの変わりようよ、お互いに時流に流されぬように生きねばな、なによりも帝の御為にの」
「ですな、すべては帝のご意思のみ、僭越ながら麿はそこだけは曲げてはおりませぬ」
内裏の深いところで、中山や三条、それに岩倉と薩摩の大久保が結託して倒幕の密勅が出されたと公然と噂されている。帝を守るためと嘯くだろうが、それで帝の御為であると言えるのかと言う意味をこめての言葉だった。
言われた中山は苦虫を噛み潰した表情をするどころか、薄く微笑みを浮かべていいかえしてきた。
「そうさな、帝を盛り立て、いざとなれば公家衆一丸となって守るのが役目じゃて、帝を前面に押し立てるは公家としてはまだまだよ、帝は最後に一声発すればよいのじゃて」
余裕たっぷりに言い捨てると、中山は取り巻きの公家と共に去って行った。正月も早々に多数派工作に忙しいのだろう。老いて益々盛んという事か。
しかし中山卿であれば、幕府軍の実情も掴んでおるだろうに、あの余裕の表情はなんなんじゃ。絶対に薩長が勝つ方法を知っているとでも言うのだろうか。
中山の後姿を見つめながら悩む鷹司である。倒幕がなれば藤原北家はまだしも、鷹司個人に内裏での居場所はなくなるだろう。岩倉などが我が物顔ででしゃばる内裏に居たいとも思わぬが。
「鷹司卿、しばし時はありまするか」
中山忠能が見えなくなってから、暗がりから顔を出したのは、普段は勢力争いから一歩も二歩も距離を置く冷泉家の諸子である為満だった。彼は真面目に精進すれば一角の歌人になると評価されながらも、本人にはその気が無いらしく鷹司同様にふらふらと世を渡っている。
そんな冷泉為満と鷹司は似たもの同士でありながら、今まで接点はなかった。お互いが自由気まま過ぎて出会うことが少ないのだ。
朝議の場に呼ばれる身分でもないので、朝廷の行事で稀に顔を合わせるくらいだ。
「これは珍しい、冷泉殿ではありませぬか、お声がけ頂いてうれしいですぞ」
「そんなもったいない。官位は鷹司卿のがだいぶ上ではありませぬか、麿などに殿などはいりませぬぞ、それでしばしお時間をいただけませぬでしょうか?内々のお話が」
今まで誰かと徒党を組んだりせず、ただ静かに歌を詠むのが冷泉家と言う物だった。南北朝時代には南朝側として征西府将軍宮に従い、瀬戸内水軍と共に暴れまわったご先祖はいるが、南北朝合一後では輝かしい歴史はなかった様に思う。
昨今の動乱でも中立を保って来た冷泉家だが、不安に思い始めたのだろうか。今度の事は様子見が通じる状況ではないかもしれない。旗幟を鮮明にしなければ生き残れないとでも思ったのだろうか。
いや、違うな。
もし、倒幕派に弓引くつもりなら諸子ではなく氏の長者が動くはずだ。そうでない以上、倒幕派とも佐幕派とも繋がっておこうとする、公家としては初歩の策だろう。
「時間はあまり無いかもしれませぬが、おそらく大変な内容でしょうな、では早速」
鷹司は通路の脇にある小部屋にほいっと入り込んだ。そこは家人が主人の謁見が終わるまで待機する小部屋で二畳もない小さな部屋だ。火鉢も無いため、空気がしんと凍りつく様に冷たい。およそ話し合いには不向きだが、今はそれが良い。誰かに盗み聞きされる事も少ないだろう。
「これはっ、さすが噂どおりですな鷹司卿」
「常識破りの放蕩公家とでも噂されておりましたかな?」
「いやいや、型に嵌らず自由に振舞う姿に憧れを抱く公家も多いのですぞ、旧弊に縛られぬ新しい公家と」
「いい過ぎですな、それで話とは」
狭い部屋であるため、膝がくっつきそうな距離で冷泉為満が話し始めた。
「鷹司卿は錦の御旗と言う物はご存知ですかな、はるか昔には使用されていたものですが」
「はて、室町の初期に足利家が授与されたとか、元々は源氏の東征軍に貸したとかいう、古い旗の事でしたかな」
錦の御旗は、はるかに昔、帝が討伐を許された相手に向かう際に下賜される官軍としての証の様なものだ。この旗に逆らうものすべては帝に逆らう逆賊ぞ、という意味がこめられた旗だ。しかしそんな旗が実在するのか鷹司は知らなかった。あったとしても室町の昔だ。ぼろぼろになっていてもおかしくは無い。
「その通り、その旗が明日か明後日には、宮様を通じて薩長に下賜される計画がございます、そうなれば・・・」
そうなれば戦闘どころの話ではない。逆賊となれば、櫛の歯がなくなるよりも早く、味方はいなくなり、こぞって敵になるだろう。それは幕府だろうが、薩長だろうが同じだ。幕府では会津や桑名は最後まで幕府と共にあるだろう。薩長も薩摩と長州は一心同体だ。だが、彦根藩や津藩、土佐藩や淀藩はどう出るか。おそらく錦の御旗と認識すれば、攻撃を手控えるだろう。絶対ではないが、錦の御旗があるほうが大きく勝ちに近づくことになる。
「しかし誰も、錦の御旗など見たことも無いのではないですかな、あるか無いか判らない物を下賜するとは面妖な」
「それが、すでに岩倉具視を中心に薩長によって作られており、すでにこの内裏のどこかで宮様に下賜する機会を狙っているのです」
「それは、面白くない話、帝の権威をないがしろにするとは、中山卿はご存知なのであろうか?」
あの硬骨漢の中山忠能であれば、勝手に作った錦の御旗を帝の命で宮様に下賜させるだろうか。
万が一幕府側勝利の暁には、間違いでしたといい逃れたところで、罪は問われないにしても批判はあがるだろう。帝から宮様へ下賜した事実は消せない。臣下が勝手にやった事にするならば、中山忠能という男はやるだろう。帝を前面に押し立てること以外ならばどんな事でも出来るし、やるのが中山忠能なのだ。
「中山卿は知らぬでしょう、薩長は帝から宮様、宮様から自分たちに下賜されたと言う事実を欲しているのです、それでこその錦の御旗ですから」
「偽勅や嘘の御教書、更には空令旨なれば出回った過去もありますが、錦の御旗の偽物とは少しやり過ぎではないかと、鷹司卿はどう思われます」
「ふうむ」
鷹司は多量にいい加減な所もあるが、公家であることを忘れたことは無い。公家は帝を崇め奉り、その身辺を守り申し上げる者であるとは、口には決して出さないが強く思っている。そして其の一点だけは中山忠能卿とも同じだと自負している。
だから倒幕や佐幕関係なく、尊王の心が厚いと見込んだ会津や新撰組に、影ながら助力しているのだ。彼らならば帝の意思を曲げてまで、自分たちの意志を無理に通しはしないだろう。その点で言えば過去の幕府も似たような物だ。昔の幕府がそのまま残ると言うことならば、鷹司は反対である。
複雑な話よ。
自嘲の笑みを浮かべつつ、鷹司はこれからの自分の振る舞いに思いを巡らせる。ふと庭をみれば白い犬が躑躅にかくれてこちらを見ているのに気づく。
賢い犬だ。内裏の中に自分たちが入れないことに気づいているし、ふたみから自分の身辺警護を依頼された事も理解していると思われる。
あやかしちゃうやろな。
自嘲の笑みを消し、つい本物の笑みが出てしまう。
あやつらみたいに、素直に生きれば面白いのじゃがな。
答えない鷹司に訝しげな目を向けつつ、これが上級の公家というものかと勝手に納得し、冷泉為満はうなづきつつ部屋を出て行った。
二
同じ頃、直接ではなく、大回りで伏見に荷を届け、ふたみは山科の鷹司別邸に向かっていた。一緒に荷を運んだ正嗣は、中身の使い方を説明するために伏見に残り、ふたみは護衛として着いてきた博徒さん達三十名と一緒だ。
伏見についた段階で義侠心に目覚めた複数の博徒が、新撰組に合流したのは意外だった。
博徒とは言え日本に住む同じ民の一人。住む場所でしか生活していない普通の人達よりも、あぶれ者の彼らのほうが濃い情報に接するため、熱い思いを育てていたと言うことなのね。
「けど、本当に正嗣様ってば相変わらずよね、こんな時でも動物が心配だなんて」
ふたみが山科に向かっているのには、訳がある。
正嗣からの願いを叶える為だ。
一両日中に、京を中心として合戦が起こるのはもう間違いない。いざ京で戦闘になれば数年前の蛤御門の変の時の様に市中に火が放たれるかもしれない。前回は京の半分近くが焼けたとの事だ。
どんどん火が回り燃え広がった光景を、京の民はどんどん焼けと呼び忌み嫌っている
それを聞いた正嗣が即座に気にしたのは、京に来た時に目にした数百頭の馬たちだった。
早めに保護しなければ、火に焼かれる馬が出るかもしれないし、それ以上に薩長に軍事物資として奪われては、死ぬまで戦場で働かされる事になるかもしれない。
それは可哀想だと言うのだ。
言い出したのが正嗣でなければ、ふたみは動かなかっただろう。確かに鷹司が助力する佐幕派に敵対する薩長に馬が渡るのは良くない。良くないがそれをふたみが何とかしなければならないというのは違うと感じていた。
しかし、正嗣に顔を寄せられ、頼むと言われてしまえば話は違う。
もう、正嗣様は仕方ないですねぇ
と、反論することもなく、一も二も無く引き受けてしまった。
引き受けなければ、正嗣が新撰組に武具の使い方を教える役目を放り出し、行ってしまいそうな勢いだったと言うのもある。
「お嬢、なんや機嫌よさげやね、なんぞ良い人の事でも考えはったんです?」
鶯の三季の手下で、護衛の長を務める善三だ。髪に白いものが混じる初老の男で、穏やかな風貌だが、絡んでくるあぶれ浪士が道を塞ごうとしてきた時に、鬼の形相で一喝し追い返したのを見てから、ふたみはこの男を頼りにしている。
「そっそんなこと、ないですよ、私には良い人なんて・・・」
「おやっそうなんでっか、お嬢も年頃なんやから、色恋のひとつもしないともったいないでっせ、色恋できる時期なんか長くはないんやから、あの、ええと、渡会はん?は、少し年いってるからお嬢とはちょっと良い人っていうより、家族って感じかも知れへんけど」
「はっ、な、なんですか、なんでそこで正嗣様ですか、もう、私は色恋の話はもういいんです、そっちはもう決めてますし、方法も、ですね、えっと」
顔を真っ赤にするふたみ。今日は籠ではなく、荷を届けた際に使用した荷車を馬に引かせた物に乗っている。乗り心地は悪いが歩いて行くには遠すぎるため仕方なくだ。
「お嬢、薩摩や・・・」
寒空にへんぽんと、丸に十をあしらった簡素な旗が立っている。旗はひとつきりなので、そんなに大部隊がいるわけではなさそうだ。御香宮に集結中の者たちと予想できる。
「ん~ここらの藩のもんなら貸し借りあるさかい、なんとで言えるんやけど、おのぼりさんの薩摩やと話通じへんかもな~、どうしましょ」
相手とこちらの人数を比べれば、こちらの人数のほうが多い。だけど相手は新装備で固めた薩摩兵だ。戦闘となれば蹂躙される。
うまく切り抜けぬけなければならない。
「みなさん、静かにして敵意など見せないでくださいね、私たちは善良な商い人です、京の公家様のお使いで山科の別邸に赴くのですから、武器は絶対に見られないようにしてくださいね」
すぐに善三が周囲のものたちに指示を出す。見た目は厳つ過ぎて、善良な商い人と見えるかどうかは賭けになるけど・・・。
薩摩側もこちらに気づき、一人が近づいてくる。薩摩は言葉が違いすぎるため、上方言葉を使える者を寄越したのだろう。対応する者としてふたみと善三が並んで迎える。
「こちらは新政府軍だ、その方らは何者だ」
居丈高に大声で威嚇してくる。新政府なんてどこにあるのかしらね、と思いながらふたみはゆっくりと頭を下げる。交渉は出だしで相手の予測を外す事は重要だ。厳つい男たちを従えている女主人として優雅を心がける。
「これは失礼いたしました、私は伊勢の商い人でふたみ庵の庵主ふたみと申します」
「伊勢の商い人がなんでこんな所にいるのだ、田舎から出てきて時勢が見えていないのか」
近畿周辺ではやっと売れ始めたふたみ庵の名前だが、さすがに薩摩の一兵士にはわからなかったようだ。
どっちが田舎者なのかしらね。
そう思っても、顔には一切出さないふたみ。目の鋭さだけは隠しようもないが
「さる公家様の御用で、山科に御用伺いに参ります、なにやら御所周辺から山科に家財を運ぶ手伝いとの事で荷車を持って参じる途次でございます」
途中まで嘘は言っていないし、合戦間近なので戦闘が始まる前に家財を避けようとするのは、ありがちな話だ。しかも御所周辺の屋敷からとなれば、かなり高位の公家となる。一兵士であれば面倒は避けたくなる筈だ。とそこまで計算してのふたみの返答だ。
「公家様御用の一行にしては、かなり人相が怪しいものどもが多いようだが、山賊では無いかと疑われてもおかしくなさそうだな」
「このご時勢でございますから、私たちも自衛しなければなりません、天朝さまのお膝元でこれは悲しい話ですけれども」
だから、早く何とかしろ、と言外に意味を込めた言葉だ。
言外の意味を察した薩摩兵はふっと自慢げに笑うと、ふたみの言葉の意味を真逆に取り違えて答えた。
「それも、もう一両日中だ、幕府などもはや無いのだ、烏合の衆などすぐに京からいなくなるから安心してよいぞ」
はっはっはっと豪傑の様に笑うと、薩摩兵は来た道を戻って仲間と合流した。彼らの服装は揃いの黒い洋装で、肩に外国製の小銃、腰には日本刀を携え、一門の大砲も持っていた。
これでは、鷹司様の思惑は外れるかも?とすこしふたみは不安になる。
彼らの武器は先日伏見に運び込んだ荷よりも強力に見えるし、洋装は袴と比べて動きやすそうだ。数に差はあるとの話だったが、だいじょうぶかしら?
その後一行は誰に遮られる事無く、山科の馬宿に辿り着く。宿の主達はこぞって京の情勢に戦々恐々としており、もし大火など起きたらと怯えていた。しかし大事な預かり物の馬である為、放置して自分たちだけ逃げることも出来ずにいたのだ。
「大丈夫です皆様、鷹司卿の別邸を使う許可は頂いております、ここから二里ほどの距離ですが、京から離れているため、戦闘は起きないでしょう、火が掛けられても南に逃げ道もあります、ここですと御所にも近く巻き込まれてしまう事も、責任は鷹司様が取っていただけます、さあ、早く準備をいたしましょう」
逃げるか、あくまでここに残るか悩んでいた馬宿の主たちはふたみの言葉を聞き、何かあったら五摂家の鷹司様が何とかしてくれるならと、半分以上が納得してくれた。
京に住む彼等からしてみれば鷹司家と言う五摂家の名前は大きい。各藩からの預かり物である馬を守ら無ければならないという馬宿としての誇りもある。
「あんたがふたみかい、歳に似合わず大胆な事をするって噂だったけど、本当だねぇ」
馬宿の主たちの奥から声がかかった。張りがある大きな声だが、その声音は高い女性の物だった。
「は、はい、私がふたみですが、そちら様はどなたでしょう?」
人の間を抜けて、大柄な女性が前に出る。裾の短い猟師のような格好で、肩に火縄を紐でぶら下げ、腰には鎖で繋がれた鎌ももっている。
綺麗な顔をしているが、泥で汚れており、挑戦的な目はそこらの男性を寄せ付けない空気がある。
「あたしかい、あたしは鶯の三季だよ、ずいぶん協力してやってんだから、ちっと顔でも見せて礼でもしてもらおうかって来たんだよ」
「そ、それはご丁寧に、私はふたみ庵で庵主をしておりますふたみです、はて、鶯の三季様は板野親分の弟分と聞いておりますけれど、女の方だったんですね、申しわけありません」
と、ふたみが挨拶する横で、善三が顎まで外れるんじゃないかというくらい口をあけて絶句している。大丈夫かしらん。親分がいきなり現れて吃驚したというより、魂が飛ぶくらい驚天動地の出来事を見ているみたいだけれど。
「おっお嬢様!なんですかその格好は!せっかく播磨の武家に嫁ぎ、真っ当な道を歩むと親分も私も安堵しておりましたのに、何故にこのような場所に、そのような格好でいらっしゃるんですか!親分は知っての事ですか」
「ああん、こんな時に播磨の片田舎でじっとなんかしていられるかってんだ、親父には後で言うからよ善三、黙っとけよな、それとふたみ」
「はっはい!」
「これだけの馬を運ぶには人数が足りねぇな、それに場所が狭い!もっと南に出て醍醐寺には話を通せないのかい、あっこも鷹司家とは懇意だろうが」
醍醐寺は鷹司の山科別邸からさらに南に下る場所にある。京からも遠ざかるし、場所はよい。しかし醍醐寺と鷹司家が懇意とは知らなかった。醍醐寺の広さがあれば二百から三百の馬も何とかなるだろう。なにかあれば僧兵が出てくれるかもしれないし、近くには勸修寺もある。醍醐天皇の創建で、皇室と藤原氏に関係が深い。藤原北家正統の鷹司の名があればそちらにも協力してもらえる。
「調べがたんねぇぞふたみ、商い人がそれで大丈夫かよ、まっまだ小娘だし、どうせ生娘だろっ仕方が無いか、今からあたしが姉貴分としてみっちり教えてやるから安心しな」
「はっはい、よろしくお願いいたします」
ふたみが計算するよりも早く、矢継ぎ早に言葉をぶつけてくる鶯の三季?の勢いに飲まれ、つい素直に答えてしまう。
「お嬢さん、自己紹介もまだでいきなり過ぎですぜ、ふたみ嬢さん目を白黒させてまさぁ、仲良くなりたいなら焦りは禁物、まったく播磨の武家は何を教えてくれたのやら」
「旦那の悪口は言うな、あの人は体が弱いからってあたしの自由にさせてくれる稀有な人なんだぞ、っと、そうそう自己紹介だったな、あたしは三季だ、鶯つけないただの三季だ、宜しくな」
差し出してくる手を握り返すふたみ。握手と言う挨拶は最近覚えたが、なんとなく悪くないと思うふたみなのであった。
三
明けて正月三日。
前夜からしとしとと冷たい雨が静かに降り始め、寒さを倍加させている。
震えそうになる体に渇をいれ、前方のかがり火をにらむ。
会津の軍を仲介にして新鮮組に荷を渡した時、正嗣とふたみが探す継乃介は、伏見には居なかった。大阪に引く近藤の護衛で一度伏見を離れて居たのだ。戻るのは今日の正月三日だという。
武具の使い方を教える必要もあったが、それよりも継乃介に会う事のほうが目的だ。本当ならふたみと会わせるのが良いのだろうが、少し考えて、新撰組の他の隊士から聞いた話を吟味した正嗣は、ふたみに継乃介の事は何も言うまいと決めた。
どうも継乃介からはふたみに会いたい素振りは無いようで、なんとなくだが会いたくないと思っているのかもしれないように思えるのだ。
そんな相手を無理にふたみに会わせたら、旨く行かないだろうと思ったので、まずは自分が会って緩衝となる方がお互いの為と考えた。
そこでふたみには、気になる馬達の事を願い、伏見から離れてもらった。
今考えても、これは自分で自分を褒めたくなる位に良い仕事だった。今日になって幕府軍の一部が鳥羽方面から北上、京に入ることが知らされたからだ。
戦。
それ自体がどうなるかは正嗣には分からないが、鳥羽で戦えば、伏見でも戦いが始まらない訳がない。そして新撰組のいる場所から敵のいる御香宮まで目と鼻の先である。ふたみがもし居たら、戦いに巻き込まれ怪我では済まないかもしれない、刀と違い銃弾は人を選ばないのだ。
「渡会、お前まだ逃げてなかったのかよ、もうどうなるか分からないぞ」
声をかけてきたのは、あの日、土方に会って以来新撰組に合流している松原だ。その後ろの馬上には洋装に身を包んだ土方が続いている。開戦前の視察なのだろう。思わず格好良いなぁと呟いてしまうぐらいの男ぶりだ。
「いや何ここまで付き合った義理もありますし、もうすぐ継乃介も大阪から戻るという話でしたからね、継乃介の顔くらい見ないと帰れませんよ、それより松原さんはもう拳銃は大丈夫なんですか?」
若い隊士はすぐに使い方を覚えて、他の隊士に教えるくらいに上達したが松原くらいの年代の隊士は危なっかしかった。正嗣が教えている時にも暴発させてそうな危険な場面があった。
「あ、ああ、まあなぁ、なんか細かいことは分からないけどよ、引き金引けば弾が飛ぶんだろう、狙いなんか適当で構わんだろう、外れない距離で使えばいいんだからな、それよりもあの投げ焙烙はとんでもないな、陣の中にでも放り込めば大打撃を与えられる、それになこれは内緒なんだが、若い隊士で、あの投げ焙烙を手ぬぐいに包んでこうぐるぐると回してから飛ばすと二町も飛ばすやつが出てな、立派な飛び道具として使えるぞ」
新式装備に身を固めた薩長の軍が見える位置にいる。自分たちが槍や刀だけだったらこうも明るくは喋れない。薩長は英国から連発銃を輸入して最前線に装備させている。刀では近づく前に蜂の巣になるしかない。
「本当に助かったぞ渡会くん、あの武具のおかげで戦える、すでに投げ焙烙の扱いが旨い小隊も作った、向こうから大砲の弾も飛んで来ようが、動く的には当たりにくい筈、隠れて近づいて奇襲という策も取れる、鳥羽方面には仏式を学んだ精鋭もいる、この戦は負けないさ」
馬上から饒舌に語る土方。やや声が大きいのは周囲に聞かせる目的もあるのだろう。不安に思っている隊士や、隣に布陣している会津兵にも勝てる戦と思わせたいのだ。
勝てない戦で銃弾の前に身をさらす、なんて事は簡単にできない。出来るとしたら新撰組の古参隊士くらいだろう。
「武具については某は何も、感謝するならば鷹司とふたみでお願いいたします、なので継乃介の件は頼みますよ、落ち着いたら国に帰すって話を忘れないでください」
「ああ、分かっているさ、勝てれば約束は守る、この土方の名で誓うさ」
自信ありげな笑みを残して土方は、会津兵が居る方へと去って行った。
「しかし、渡会よ、大丈夫なのか、本当にここに居たら巻きこまれるぜ、俺は嫌だからな、ふたみのお嬢さんに、何で正嗣様に怪我させたんですかってあの鋭い目で睨まれるのは」
「そうですね、状況を見て危なそうだったら逃げますよ、松原さんこそ気をつけてくださいよ、銃弾はどこからだって飛んでくるらしいですから」
「おう、任せろやっ」
と、松原が言った瞬間、どぉんよ山崩れでも起こったような音が響いた。
周りでは何だろうと周囲を見回す者ばかりだったが、うっすらと見える御香宮方面で人が慌しく動くのが見えた。
「まずい、開戦だ、正嗣、とにかく怪我するなよ、こっちは気にするな、おい、お前らっ準備しろ、拳銃確認、投げ焙烙隊は姿勢を低く、静かに動け!大砲の弾がそろそろ飛んでくるぞ、全員散れっ」
御香宮と伏見奉行所は大砲なら目と鼻の先だ。開戦となれば大砲の弾が雨のように降って来るだろう。
直後、どんどんと先ほどより近い音が響く。一呼吸の後に伏見奉行所の外壁に振動が連続した。
「いけっいけっ、止まるな、敵は数百しか居ないぞ、ここに残ると大砲の餌食だ、全員外へ、敵陣に突っ込むぞ」
隊士達がばらばらと伏見奉行所から伏見の町に散っていく。出会いがしらに薩長の兵にぶつかり、咄嗟の遭遇戦が各所で起きる。
遭遇戦とは言え、刀の届く距離ではない。
拳銃を持っていない会津兵は、ばたばたと撃たれて倒れる。
だが、拳銃を持っている新撰組は出会いがしらに拳銃をぶっ放す。英国から輸入された新式銃とは言え、突然に目の前に敵が現れたら拳銃の方が撃つのは早い。
当たるか当たらないかではなく、やはり撃たれたと思えば人は隠れようとするので、そこから刀の距離に入り込むのだ。刀の距離なら人斬り集団として先鋭化した新撰組隊士達は負けなしだ。
最初の大砲が着弾して一刻、散発的な町中での遭遇戦は佐幕派が圧倒していた。拳銃を持たない会津兵も、敵を見たら路地まで逃げ、単発式の洋式銃や火縄銃を構えた集団の前に誘い込む戦法で敵を倒していく。これが同じくらいの人数だったら囮作戦は不可能だったが、人数では幕府側が数倍にもなる。
「おいっ正嗣、生きているか!」
いつの間にか空は暗くなっており夜がやって来ていた。佐幕派も討幕派も日没と共に戦闘を縮小し、お互い伏見奉行所と御香宮に引いて明日に備える体勢だ。
正嗣は伏見奉行所近くの藪に隠れており、松原の隊が戻ってきたのに合わせて奉行所に戻った。
「ご無事でしたか松原さん、最初は激しくこっちにも砲弾やら銃弾やら飛んできましたけど、すぐに静かになりましたよ」
新撰組が伏見の町に散った後は、町中での遭遇戦が主だったようで、正嗣は敵も見ていない。
「こっちは大勝だな、明日になったら御香宮を落として京にも進めるかもな」
「いや、そうでも無いぞ松原くん、あっちは大敗だそうだ、見廻組は壊滅して四散、伝習歩兵もろくに戦えないで下鳥羽まで引いた、鳥羽は障害物の少ない平野だったせいで、大砲で崩され、新式銃で撃たれて、斬り込み隊が溶けるように消えたとの事だ、こちらも町中からでれば的になる、拳銃では届かない距離から撃たれてしまう」
今度は小声で戦況を告げに来る土方。松原や正嗣であれば本当の事を伝えても問題ないと考えたのだろうし、相談もしたいのかもしれない。勝った勝ったで盛り上がる他の隊士には相談できないことだろうし。
「伏見が勝利で、鳥羽が大敗ですか、戦場が二つに引き裂かれ、鳥羽で勝利した敵が背後に回ってきたら事ですね、ここだけ勝っても」
「うむ、勝負に勝って合戦に負ける事にもなりかねない、渡会くん、松原くん、何か良い策は無いものかな」
正嗣はじっくりと考えてみる。拳銃は狭くて距離がなければ強いが、広い場所で遠くから撃たれては勝負にならない。刀や槍では問題外だ。そうなると後は相手の不意をつくしかない。
「相手の不意を突くため、少人数で隠れて接近し、相手の砲兵を狙うというのは考えられますね」
人との争いが嫌いな正嗣だが、ただ冷静に考えればこれくらいは思いつく。部外者であると言うのも重要な要素なのかもしれない。
「不意をつくか・・・、新撰組ならば可能だが、会津は無理だな、侍は正面から堂々と等と言う者ばかりだからね」
ありそうな話だ。武士とはなにかと問い続けて百年以上。形骸化した理想を信奉している武士も多い。
「新撰組だけですと数は二百、さすがにそれだけでは・・・」
四
時は数日遡る。
内裏にて鷹司が冷泉為満から錦の御旗について話を聞いている頃、内裏の庭に忍び込んでいたミツキの鋭敏な聴覚にかすかな鳴き声が聞こえてきた。
まだ距離は遠いようだが、聞きなれた鳴き声だ。
隣を見て、ここまで同行してきたスズランを見ると、間違いないと微かに唸る。
スズランはミツキの群れの中で若い犬たちの代表だ。元から正嗣の屋敷に居た犬たちではなく、この五年で合流した犬で、彼らを纏め上げた実力がある。
群れの頭になる力量はあるが、人との付き合い方がまだまだ甘い。正嗣や正嗣の伴侶候補であるふたみ、最近の使命で観察する時間が増えた鷹司。この辺りまでの人に対しては大丈夫だが、ミツキが居ない場所では人に対しての敵愾心が強すぎる。ミツキも正嗣も居なかったら自らの群れと人を対立させてしまい、最後には狩られてしまうかもしれない。
それが何とかなるまでは群れの頭は譲れんな。もう隠居したいと微かに思っているミツキであった。
くぅん
そのスズランが、いいのかい、あいつら黙っていたらこっちにくるぜ。と伝えてくる。
それは、よくないと目で意思を伝える。ここは人の世の中心だ。人に慣れている彼等ではあるけれど、それでも二十の犬が纏まって街中を徘徊したら、人との対立が生まれるだけだ。
軽く首を振って、なんとかしろとスズランに指示をだす。護衛を任されている鷹司はここ最近、この大きな建物とその周りで起居している。ここには嫌な匂いを発する人も多いが、自分たちが出る様な危険の存在は感知出来ない。ならば二匹で待機していなくて大丈夫だろう。
スズランはミツキの合図で嬉々として藪から抜け出し、風の様に走り始めた。待機していたのに飽きていたのだろう。仕方の無い奴め。
スズランが戻り、あいつらには、ふたみの匂いを追うように指示を出したと確認出来た頃、ミツキは鷹司に首元をなでられ、大きな手ぬぐいを掛けられていた。
布の感触と、その奥に紙の感触がある。新参の、むかし偲び犬として育てられた経験のあるサザンカに聞いた話から推測すると、これは密書という奴だろう。
「いいかいミツキ、これを正嗣に届けてくれ、麿はここで踏ん張って時間を稼ぐ事にする、だからこれを正嗣に届けておくれ」
頭をなでてくる鷹司。これは新たな使命という事なのだな。ご主人であり、犬の味方でもある正嗣の元に戻ってよいと言う事ならばミツキに異存は無い。
正嗣の伴侶候補であるふたみの元には別の仲間が向かった。ならば自分は正嗣の下に走るとしよう。
わぅ。
小さくスズランが不満を表明する。
自分はここに残されるのかと思って不満なのだ。スズランはスズランなりに正嗣を好いている。戻ってよいなら戻りたいのであろう。
だが、だめだ。
この建物周辺に嫌な臭いが増してきている。塀の外にも多くは無いが、嫌な臭いと、力の気配を持つ人が増えてきている。二匹でここを離れて鷹司に何かあればふたみの願いを裏切る事になる。
わん!
一声でスズランの願いを却下する。悪いがここは群れの頭として命令を下す。
くぅん。
哀れっぽく鳴くが、心を鬼にして軽く唸り牙を見せる。これ以上不満を表明するならば、許さないという意思を示す。
仕方ないと尻尾を垂れさせてすごすごと座るスズラン。そのやり取りを興味深そうに見てくる鷹司。
「よろしく頼んだの」
鷹司に背中を叩かれてミツキは力を調整して走り出した。
正嗣の臭いは遠い。
しばらく走り詰めになるだろう。
新年が明けて二日目。
緊張状態は続き、開戦は明日か今日かと人が集まるたびに囁いているのが聞こえてくる。怯えが滲んでいるものは先ごろ迄公武合体論を唱えていた者たちだ。当初からの討幕派であった公家の声には自慢気な色合いがある。薩長の必勝を信じているというよりは、その間諜からもたらされる言葉を鵜呑みにしているだけだろう。
ここで鷹司が幕府軍は薩長の三倍から四倍は居るのだぞ。と伝えても信じたいものしか信じない状況の公家は冷笑を持って報いて来るだろう。ここ最近の幕府の為体や、大樹公の及び腰を薩長の力が増しているからだ。薩長が仰ぎ見ているのは朝廷、だから自分達にも力があるのだと思いたいのだろう。とんだ勘違いだと鷹司は思っている。
朝廷ははるかな昔、室町幕府と争った時を最後に力を失い、かろうじて権威のみにしがみついて細くて長い命脈を保って来た。朝廷は力を持ってはいけないのだ。帝が頂点にあり、その下で武家が世を力で守る。その構図が良い。徳川ひとつでは無くこの国の武家すべてが平等に帝と国を守るのがさらに良い。
「これはお久しいですな、中山卿、内裏に復帰なさったとは聞いておりましたが、ご挨拶もせずに申し訳ありませぬの」
内裏の清涼殿からこちらに向かってくる公家集団の先頭で中山忠能が歩いてくる。硬骨漢で知られ、先代の帝に逆らっても信念を曲げなかった、公家には珍しい男だ。すでに老齢といっても良いくせに、周囲に公家を侍らせ内裏を闊歩する姿は権力者然としている。
そして、この中山忠能と鷹司の仲は大変悪い。
飄々としていて掴みどころの無い鷹司は、中山からしてみれば根無し草の様で、誠に不快なのだそうだ。正面切って対決してこないのは、一応鷹司が五摂家の端に連なる男だからだろう。
「これは鷹司卿、昨今は公家の浮き沈みも激しくて目まぐるしいものじゃて、麿も昨日と今日でこの変わりようよ、お互いに時流に流されぬように生きねばな、なによりも帝の御為にの」
「ですな、すべては帝のご意思のみ、僭越ながら麿はそこだけは曲げてはおりませぬ」
内裏の深いところで、中山や三条、それに岩倉と薩摩の大久保が結託して倒幕の密勅が出されたと公然と噂されている。帝を守るためと嘯くだろうが、それで帝の御為であると言えるのかと言う意味をこめての言葉だった。
言われた中山は苦虫を噛み潰した表情をするどころか、薄く微笑みを浮かべていいかえしてきた。
「そうさな、帝を盛り立て、いざとなれば公家衆一丸となって守るのが役目じゃて、帝を前面に押し立てるは公家としてはまだまだよ、帝は最後に一声発すればよいのじゃて」
余裕たっぷりに言い捨てると、中山は取り巻きの公家と共に去って行った。正月も早々に多数派工作に忙しいのだろう。老いて益々盛んという事か。
しかし中山卿であれば、幕府軍の実情も掴んでおるだろうに、あの余裕の表情はなんなんじゃ。絶対に薩長が勝つ方法を知っているとでも言うのだろうか。
中山の後姿を見つめながら悩む鷹司である。倒幕がなれば藤原北家はまだしも、鷹司個人に内裏での居場所はなくなるだろう。岩倉などが我が物顔ででしゃばる内裏に居たいとも思わぬが。
「鷹司卿、しばし時はありまするか」
中山忠能が見えなくなってから、暗がりから顔を出したのは、普段は勢力争いから一歩も二歩も距離を置く冷泉家の諸子である為満だった。彼は真面目に精進すれば一角の歌人になると評価されながらも、本人にはその気が無いらしく鷹司同様にふらふらと世を渡っている。
そんな冷泉為満と鷹司は似たもの同士でありながら、今まで接点はなかった。お互いが自由気まま過ぎて出会うことが少ないのだ。
朝議の場に呼ばれる身分でもないので、朝廷の行事で稀に顔を合わせるくらいだ。
「これは珍しい、冷泉殿ではありませぬか、お声がけ頂いてうれしいですぞ」
「そんなもったいない。官位は鷹司卿のがだいぶ上ではありませぬか、麿などに殿などはいりませぬぞ、それでしばしお時間をいただけませぬでしょうか?内々のお話が」
今まで誰かと徒党を組んだりせず、ただ静かに歌を詠むのが冷泉家と言う物だった。南北朝時代には南朝側として征西府将軍宮に従い、瀬戸内水軍と共に暴れまわったご先祖はいるが、南北朝合一後では輝かしい歴史はなかった様に思う。
昨今の動乱でも中立を保って来た冷泉家だが、不安に思い始めたのだろうか。今度の事は様子見が通じる状況ではないかもしれない。旗幟を鮮明にしなければ生き残れないとでも思ったのだろうか。
いや、違うな。
もし、倒幕派に弓引くつもりなら諸子ではなく氏の長者が動くはずだ。そうでない以上、倒幕派とも佐幕派とも繋がっておこうとする、公家としては初歩の策だろう。
「時間はあまり無いかもしれませぬが、おそらく大変な内容でしょうな、では早速」
鷹司は通路の脇にある小部屋にほいっと入り込んだ。そこは家人が主人の謁見が終わるまで待機する小部屋で二畳もない小さな部屋だ。火鉢も無いため、空気がしんと凍りつく様に冷たい。およそ話し合いには不向きだが、今はそれが良い。誰かに盗み聞きされる事も少ないだろう。
「これはっ、さすが噂どおりですな鷹司卿」
「常識破りの放蕩公家とでも噂されておりましたかな?」
「いやいや、型に嵌らず自由に振舞う姿に憧れを抱く公家も多いのですぞ、旧弊に縛られぬ新しい公家と」
「いい過ぎですな、それで話とは」
狭い部屋であるため、膝がくっつきそうな距離で冷泉為満が話し始めた。
「鷹司卿は錦の御旗と言う物はご存知ですかな、はるか昔には使用されていたものですが」
「はて、室町の初期に足利家が授与されたとか、元々は源氏の東征軍に貸したとかいう、古い旗の事でしたかな」
錦の御旗は、はるかに昔、帝が討伐を許された相手に向かう際に下賜される官軍としての証の様なものだ。この旗に逆らうものすべては帝に逆らう逆賊ぞ、という意味がこめられた旗だ。しかしそんな旗が実在するのか鷹司は知らなかった。あったとしても室町の昔だ。ぼろぼろになっていてもおかしくは無い。
「その通り、その旗が明日か明後日には、宮様を通じて薩長に下賜される計画がございます、そうなれば・・・」
そうなれば戦闘どころの話ではない。逆賊となれば、櫛の歯がなくなるよりも早く、味方はいなくなり、こぞって敵になるだろう。それは幕府だろうが、薩長だろうが同じだ。幕府では会津や桑名は最後まで幕府と共にあるだろう。薩長も薩摩と長州は一心同体だ。だが、彦根藩や津藩、土佐藩や淀藩はどう出るか。おそらく錦の御旗と認識すれば、攻撃を手控えるだろう。絶対ではないが、錦の御旗があるほうが大きく勝ちに近づくことになる。
「しかし誰も、錦の御旗など見たことも無いのではないですかな、あるか無いか判らない物を下賜するとは面妖な」
「それが、すでに岩倉具視を中心に薩長によって作られており、すでにこの内裏のどこかで宮様に下賜する機会を狙っているのです」
「それは、面白くない話、帝の権威をないがしろにするとは、中山卿はご存知なのであろうか?」
あの硬骨漢の中山忠能であれば、勝手に作った錦の御旗を帝の命で宮様に下賜させるだろうか。
万が一幕府側勝利の暁には、間違いでしたといい逃れたところで、罪は問われないにしても批判はあがるだろう。帝から宮様へ下賜した事実は消せない。臣下が勝手にやった事にするならば、中山忠能という男はやるだろう。帝を前面に押し立てること以外ならばどんな事でも出来るし、やるのが中山忠能なのだ。
「中山卿は知らぬでしょう、薩長は帝から宮様、宮様から自分たちに下賜されたと言う事実を欲しているのです、それでこその錦の御旗ですから」
「偽勅や嘘の御教書、更には空令旨なれば出回った過去もありますが、錦の御旗の偽物とは少しやり過ぎではないかと、鷹司卿はどう思われます」
「ふうむ」
鷹司は多量にいい加減な所もあるが、公家であることを忘れたことは無い。公家は帝を崇め奉り、その身辺を守り申し上げる者であるとは、口には決して出さないが強く思っている。そして其の一点だけは中山忠能卿とも同じだと自負している。
だから倒幕や佐幕関係なく、尊王の心が厚いと見込んだ会津や新撰組に、影ながら助力しているのだ。彼らならば帝の意思を曲げてまで、自分たちの意志を無理に通しはしないだろう。その点で言えば過去の幕府も似たような物だ。昔の幕府がそのまま残ると言うことならば、鷹司は反対である。
複雑な話よ。
自嘲の笑みを浮かべつつ、鷹司はこれからの自分の振る舞いに思いを巡らせる。ふと庭をみれば白い犬が躑躅にかくれてこちらを見ているのに気づく。
賢い犬だ。内裏の中に自分たちが入れないことに気づいているし、ふたみから自分の身辺警護を依頼された事も理解していると思われる。
あやかしちゃうやろな。
自嘲の笑みを消し、つい本物の笑みが出てしまう。
あやつらみたいに、素直に生きれば面白いのじゃがな。
答えない鷹司に訝しげな目を向けつつ、これが上級の公家というものかと勝手に納得し、冷泉為満はうなづきつつ部屋を出て行った。
二
同じ頃、直接ではなく、大回りで伏見に荷を届け、ふたみは山科の鷹司別邸に向かっていた。一緒に荷を運んだ正嗣は、中身の使い方を説明するために伏見に残り、ふたみは護衛として着いてきた博徒さん達三十名と一緒だ。
伏見についた段階で義侠心に目覚めた複数の博徒が、新撰組に合流したのは意外だった。
博徒とは言え日本に住む同じ民の一人。住む場所でしか生活していない普通の人達よりも、あぶれ者の彼らのほうが濃い情報に接するため、熱い思いを育てていたと言うことなのね。
「けど、本当に正嗣様ってば相変わらずよね、こんな時でも動物が心配だなんて」
ふたみが山科に向かっているのには、訳がある。
正嗣からの願いを叶える為だ。
一両日中に、京を中心として合戦が起こるのはもう間違いない。いざ京で戦闘になれば数年前の蛤御門の変の時の様に市中に火が放たれるかもしれない。前回は京の半分近くが焼けたとの事だ。
どんどん火が回り燃え広がった光景を、京の民はどんどん焼けと呼び忌み嫌っている
それを聞いた正嗣が即座に気にしたのは、京に来た時に目にした数百頭の馬たちだった。
早めに保護しなければ、火に焼かれる馬が出るかもしれないし、それ以上に薩長に軍事物資として奪われては、死ぬまで戦場で働かされる事になるかもしれない。
それは可哀想だと言うのだ。
言い出したのが正嗣でなければ、ふたみは動かなかっただろう。確かに鷹司が助力する佐幕派に敵対する薩長に馬が渡るのは良くない。良くないがそれをふたみが何とかしなければならないというのは違うと感じていた。
しかし、正嗣に顔を寄せられ、頼むと言われてしまえば話は違う。
もう、正嗣様は仕方ないですねぇ
と、反論することもなく、一も二も無く引き受けてしまった。
引き受けなければ、正嗣が新撰組に武具の使い方を教える役目を放り出し、行ってしまいそうな勢いだったと言うのもある。
「お嬢、なんや機嫌よさげやね、なんぞ良い人の事でも考えはったんです?」
鶯の三季の手下で、護衛の長を務める善三だ。髪に白いものが混じる初老の男で、穏やかな風貌だが、絡んでくるあぶれ浪士が道を塞ごうとしてきた時に、鬼の形相で一喝し追い返したのを見てから、ふたみはこの男を頼りにしている。
「そっそんなこと、ないですよ、私には良い人なんて・・・」
「おやっそうなんでっか、お嬢も年頃なんやから、色恋のひとつもしないともったいないでっせ、色恋できる時期なんか長くはないんやから、あの、ええと、渡会はん?は、少し年いってるからお嬢とはちょっと良い人っていうより、家族って感じかも知れへんけど」
「はっ、な、なんですか、なんでそこで正嗣様ですか、もう、私は色恋の話はもういいんです、そっちはもう決めてますし、方法も、ですね、えっと」
顔を真っ赤にするふたみ。今日は籠ではなく、荷を届けた際に使用した荷車を馬に引かせた物に乗っている。乗り心地は悪いが歩いて行くには遠すぎるため仕方なくだ。
「お嬢、薩摩や・・・」
寒空にへんぽんと、丸に十をあしらった簡素な旗が立っている。旗はひとつきりなので、そんなに大部隊がいるわけではなさそうだ。御香宮に集結中の者たちと予想できる。
「ん~ここらの藩のもんなら貸し借りあるさかい、なんとで言えるんやけど、おのぼりさんの薩摩やと話通じへんかもな~、どうしましょ」
相手とこちらの人数を比べれば、こちらの人数のほうが多い。だけど相手は新装備で固めた薩摩兵だ。戦闘となれば蹂躙される。
うまく切り抜けぬけなければならない。
「みなさん、静かにして敵意など見せないでくださいね、私たちは善良な商い人です、京の公家様のお使いで山科の別邸に赴くのですから、武器は絶対に見られないようにしてくださいね」
すぐに善三が周囲のものたちに指示を出す。見た目は厳つ過ぎて、善良な商い人と見えるかどうかは賭けになるけど・・・。
薩摩側もこちらに気づき、一人が近づいてくる。薩摩は言葉が違いすぎるため、上方言葉を使える者を寄越したのだろう。対応する者としてふたみと善三が並んで迎える。
「こちらは新政府軍だ、その方らは何者だ」
居丈高に大声で威嚇してくる。新政府なんてどこにあるのかしらね、と思いながらふたみはゆっくりと頭を下げる。交渉は出だしで相手の予測を外す事は重要だ。厳つい男たちを従えている女主人として優雅を心がける。
「これは失礼いたしました、私は伊勢の商い人でふたみ庵の庵主ふたみと申します」
「伊勢の商い人がなんでこんな所にいるのだ、田舎から出てきて時勢が見えていないのか」
近畿周辺ではやっと売れ始めたふたみ庵の名前だが、さすがに薩摩の一兵士にはわからなかったようだ。
どっちが田舎者なのかしらね。
そう思っても、顔には一切出さないふたみ。目の鋭さだけは隠しようもないが
「さる公家様の御用で、山科に御用伺いに参ります、なにやら御所周辺から山科に家財を運ぶ手伝いとの事で荷車を持って参じる途次でございます」
途中まで嘘は言っていないし、合戦間近なので戦闘が始まる前に家財を避けようとするのは、ありがちな話だ。しかも御所周辺の屋敷からとなれば、かなり高位の公家となる。一兵士であれば面倒は避けたくなる筈だ。とそこまで計算してのふたみの返答だ。
「公家様御用の一行にしては、かなり人相が怪しいものどもが多いようだが、山賊では無いかと疑われてもおかしくなさそうだな」
「このご時勢でございますから、私たちも自衛しなければなりません、天朝さまのお膝元でこれは悲しい話ですけれども」
だから、早く何とかしろ、と言外に意味を込めた言葉だ。
言外の意味を察した薩摩兵はふっと自慢げに笑うと、ふたみの言葉の意味を真逆に取り違えて答えた。
「それも、もう一両日中だ、幕府などもはや無いのだ、烏合の衆などすぐに京からいなくなるから安心してよいぞ」
はっはっはっと豪傑の様に笑うと、薩摩兵は来た道を戻って仲間と合流した。彼らの服装は揃いの黒い洋装で、肩に外国製の小銃、腰には日本刀を携え、一門の大砲も持っていた。
これでは、鷹司様の思惑は外れるかも?とすこしふたみは不安になる。
彼らの武器は先日伏見に運び込んだ荷よりも強力に見えるし、洋装は袴と比べて動きやすそうだ。数に差はあるとの話だったが、だいじょうぶかしら?
その後一行は誰に遮られる事無く、山科の馬宿に辿り着く。宿の主達はこぞって京の情勢に戦々恐々としており、もし大火など起きたらと怯えていた。しかし大事な預かり物の馬である為、放置して自分たちだけ逃げることも出来ずにいたのだ。
「大丈夫です皆様、鷹司卿の別邸を使う許可は頂いております、ここから二里ほどの距離ですが、京から離れているため、戦闘は起きないでしょう、火が掛けられても南に逃げ道もあります、ここですと御所にも近く巻き込まれてしまう事も、責任は鷹司様が取っていただけます、さあ、早く準備をいたしましょう」
逃げるか、あくまでここに残るか悩んでいた馬宿の主たちはふたみの言葉を聞き、何かあったら五摂家の鷹司様が何とかしてくれるならと、半分以上が納得してくれた。
京に住む彼等からしてみれば鷹司家と言う五摂家の名前は大きい。各藩からの預かり物である馬を守ら無ければならないという馬宿としての誇りもある。
「あんたがふたみかい、歳に似合わず大胆な事をするって噂だったけど、本当だねぇ」
馬宿の主たちの奥から声がかかった。張りがある大きな声だが、その声音は高い女性の物だった。
「は、はい、私がふたみですが、そちら様はどなたでしょう?」
人の間を抜けて、大柄な女性が前に出る。裾の短い猟師のような格好で、肩に火縄を紐でぶら下げ、腰には鎖で繋がれた鎌ももっている。
綺麗な顔をしているが、泥で汚れており、挑戦的な目はそこらの男性を寄せ付けない空気がある。
「あたしかい、あたしは鶯の三季だよ、ずいぶん協力してやってんだから、ちっと顔でも見せて礼でもしてもらおうかって来たんだよ」
「そ、それはご丁寧に、私はふたみ庵で庵主をしておりますふたみです、はて、鶯の三季様は板野親分の弟分と聞いておりますけれど、女の方だったんですね、申しわけありません」
と、ふたみが挨拶する横で、善三が顎まで外れるんじゃないかというくらい口をあけて絶句している。大丈夫かしらん。親分がいきなり現れて吃驚したというより、魂が飛ぶくらい驚天動地の出来事を見ているみたいだけれど。
「おっお嬢様!なんですかその格好は!せっかく播磨の武家に嫁ぎ、真っ当な道を歩むと親分も私も安堵しておりましたのに、何故にこのような場所に、そのような格好でいらっしゃるんですか!親分は知っての事ですか」
「ああん、こんな時に播磨の片田舎でじっとなんかしていられるかってんだ、親父には後で言うからよ善三、黙っとけよな、それとふたみ」
「はっはい!」
「これだけの馬を運ぶには人数が足りねぇな、それに場所が狭い!もっと南に出て醍醐寺には話を通せないのかい、あっこも鷹司家とは懇意だろうが」
醍醐寺は鷹司の山科別邸からさらに南に下る場所にある。京からも遠ざかるし、場所はよい。しかし醍醐寺と鷹司家が懇意とは知らなかった。醍醐寺の広さがあれば二百から三百の馬も何とかなるだろう。なにかあれば僧兵が出てくれるかもしれないし、近くには勸修寺もある。醍醐天皇の創建で、皇室と藤原氏に関係が深い。藤原北家正統の鷹司の名があればそちらにも協力してもらえる。
「調べがたんねぇぞふたみ、商い人がそれで大丈夫かよ、まっまだ小娘だし、どうせ生娘だろっ仕方が無いか、今からあたしが姉貴分としてみっちり教えてやるから安心しな」
「はっはい、よろしくお願いいたします」
ふたみが計算するよりも早く、矢継ぎ早に言葉をぶつけてくる鶯の三季?の勢いに飲まれ、つい素直に答えてしまう。
「お嬢さん、自己紹介もまだでいきなり過ぎですぜ、ふたみ嬢さん目を白黒させてまさぁ、仲良くなりたいなら焦りは禁物、まったく播磨の武家は何を教えてくれたのやら」
「旦那の悪口は言うな、あの人は体が弱いからってあたしの自由にさせてくれる稀有な人なんだぞ、っと、そうそう自己紹介だったな、あたしは三季だ、鶯つけないただの三季だ、宜しくな」
差し出してくる手を握り返すふたみ。握手と言う挨拶は最近覚えたが、なんとなく悪くないと思うふたみなのであった。
三
明けて正月三日。
前夜からしとしとと冷たい雨が静かに降り始め、寒さを倍加させている。
震えそうになる体に渇をいれ、前方のかがり火をにらむ。
会津の軍を仲介にして新鮮組に荷を渡した時、正嗣とふたみが探す継乃介は、伏見には居なかった。大阪に引く近藤の護衛で一度伏見を離れて居たのだ。戻るのは今日の正月三日だという。
武具の使い方を教える必要もあったが、それよりも継乃介に会う事のほうが目的だ。本当ならふたみと会わせるのが良いのだろうが、少し考えて、新撰組の他の隊士から聞いた話を吟味した正嗣は、ふたみに継乃介の事は何も言うまいと決めた。
どうも継乃介からはふたみに会いたい素振りは無いようで、なんとなくだが会いたくないと思っているのかもしれないように思えるのだ。
そんな相手を無理にふたみに会わせたら、旨く行かないだろうと思ったので、まずは自分が会って緩衝となる方がお互いの為と考えた。
そこでふたみには、気になる馬達の事を願い、伏見から離れてもらった。
今考えても、これは自分で自分を褒めたくなる位に良い仕事だった。今日になって幕府軍の一部が鳥羽方面から北上、京に入ることが知らされたからだ。
戦。
それ自体がどうなるかは正嗣には分からないが、鳥羽で戦えば、伏見でも戦いが始まらない訳がない。そして新撰組のいる場所から敵のいる御香宮まで目と鼻の先である。ふたみがもし居たら、戦いに巻き込まれ怪我では済まないかもしれない、刀と違い銃弾は人を選ばないのだ。
「渡会、お前まだ逃げてなかったのかよ、もうどうなるか分からないぞ」
声をかけてきたのは、あの日、土方に会って以来新撰組に合流している松原だ。その後ろの馬上には洋装に身を包んだ土方が続いている。開戦前の視察なのだろう。思わず格好良いなぁと呟いてしまうぐらいの男ぶりだ。
「いや何ここまで付き合った義理もありますし、もうすぐ継乃介も大阪から戻るという話でしたからね、継乃介の顔くらい見ないと帰れませんよ、それより松原さんはもう拳銃は大丈夫なんですか?」
若い隊士はすぐに使い方を覚えて、他の隊士に教えるくらいに上達したが松原くらいの年代の隊士は危なっかしかった。正嗣が教えている時にも暴発させてそうな危険な場面があった。
「あ、ああ、まあなぁ、なんか細かいことは分からないけどよ、引き金引けば弾が飛ぶんだろう、狙いなんか適当で構わんだろう、外れない距離で使えばいいんだからな、それよりもあの投げ焙烙はとんでもないな、陣の中にでも放り込めば大打撃を与えられる、それになこれは内緒なんだが、若い隊士で、あの投げ焙烙を手ぬぐいに包んでこうぐるぐると回してから飛ばすと二町も飛ばすやつが出てな、立派な飛び道具として使えるぞ」
新式装備に身を固めた薩長の軍が見える位置にいる。自分たちが槍や刀だけだったらこうも明るくは喋れない。薩長は英国から連発銃を輸入して最前線に装備させている。刀では近づく前に蜂の巣になるしかない。
「本当に助かったぞ渡会くん、あの武具のおかげで戦える、すでに投げ焙烙の扱いが旨い小隊も作った、向こうから大砲の弾も飛んで来ようが、動く的には当たりにくい筈、隠れて近づいて奇襲という策も取れる、鳥羽方面には仏式を学んだ精鋭もいる、この戦は負けないさ」
馬上から饒舌に語る土方。やや声が大きいのは周囲に聞かせる目的もあるのだろう。不安に思っている隊士や、隣に布陣している会津兵にも勝てる戦と思わせたいのだ。
勝てない戦で銃弾の前に身をさらす、なんて事は簡単にできない。出来るとしたら新撰組の古参隊士くらいだろう。
「武具については某は何も、感謝するならば鷹司とふたみでお願いいたします、なので継乃介の件は頼みますよ、落ち着いたら国に帰すって話を忘れないでください」
「ああ、分かっているさ、勝てれば約束は守る、この土方の名で誓うさ」
自信ありげな笑みを残して土方は、会津兵が居る方へと去って行った。
「しかし、渡会よ、大丈夫なのか、本当にここに居たら巻きこまれるぜ、俺は嫌だからな、ふたみのお嬢さんに、何で正嗣様に怪我させたんですかってあの鋭い目で睨まれるのは」
「そうですね、状況を見て危なそうだったら逃げますよ、松原さんこそ気をつけてくださいよ、銃弾はどこからだって飛んでくるらしいですから」
「おう、任せろやっ」
と、松原が言った瞬間、どぉんよ山崩れでも起こったような音が響いた。
周りでは何だろうと周囲を見回す者ばかりだったが、うっすらと見える御香宮方面で人が慌しく動くのが見えた。
「まずい、開戦だ、正嗣、とにかく怪我するなよ、こっちは気にするな、おい、お前らっ準備しろ、拳銃確認、投げ焙烙隊は姿勢を低く、静かに動け!大砲の弾がそろそろ飛んでくるぞ、全員散れっ」
御香宮と伏見奉行所は大砲なら目と鼻の先だ。開戦となれば大砲の弾が雨のように降って来るだろう。
直後、どんどんと先ほどより近い音が響く。一呼吸の後に伏見奉行所の外壁に振動が連続した。
「いけっいけっ、止まるな、敵は数百しか居ないぞ、ここに残ると大砲の餌食だ、全員外へ、敵陣に突っ込むぞ」
隊士達がばらばらと伏見奉行所から伏見の町に散っていく。出会いがしらに薩長の兵にぶつかり、咄嗟の遭遇戦が各所で起きる。
遭遇戦とは言え、刀の届く距離ではない。
拳銃を持っていない会津兵は、ばたばたと撃たれて倒れる。
だが、拳銃を持っている新撰組は出会いがしらに拳銃をぶっ放す。英国から輸入された新式銃とは言え、突然に目の前に敵が現れたら拳銃の方が撃つのは早い。
当たるか当たらないかではなく、やはり撃たれたと思えば人は隠れようとするので、そこから刀の距離に入り込むのだ。刀の距離なら人斬り集団として先鋭化した新撰組隊士達は負けなしだ。
最初の大砲が着弾して一刻、散発的な町中での遭遇戦は佐幕派が圧倒していた。拳銃を持たない会津兵も、敵を見たら路地まで逃げ、単発式の洋式銃や火縄銃を構えた集団の前に誘い込む戦法で敵を倒していく。これが同じくらいの人数だったら囮作戦は不可能だったが、人数では幕府側が数倍にもなる。
「おいっ正嗣、生きているか!」
いつの間にか空は暗くなっており夜がやって来ていた。佐幕派も討幕派も日没と共に戦闘を縮小し、お互い伏見奉行所と御香宮に引いて明日に備える体勢だ。
正嗣は伏見奉行所近くの藪に隠れており、松原の隊が戻ってきたのに合わせて奉行所に戻った。
「ご無事でしたか松原さん、最初は激しくこっちにも砲弾やら銃弾やら飛んできましたけど、すぐに静かになりましたよ」
新撰組が伏見の町に散った後は、町中での遭遇戦が主だったようで、正嗣は敵も見ていない。
「こっちは大勝だな、明日になったら御香宮を落として京にも進めるかもな」
「いや、そうでも無いぞ松原くん、あっちは大敗だそうだ、見廻組は壊滅して四散、伝習歩兵もろくに戦えないで下鳥羽まで引いた、鳥羽は障害物の少ない平野だったせいで、大砲で崩され、新式銃で撃たれて、斬り込み隊が溶けるように消えたとの事だ、こちらも町中からでれば的になる、拳銃では届かない距離から撃たれてしまう」
今度は小声で戦況を告げに来る土方。松原や正嗣であれば本当の事を伝えても問題ないと考えたのだろうし、相談もしたいのかもしれない。勝った勝ったで盛り上がる他の隊士には相談できないことだろうし。
「伏見が勝利で、鳥羽が大敗ですか、戦場が二つに引き裂かれ、鳥羽で勝利した敵が背後に回ってきたら事ですね、ここだけ勝っても」
「うむ、勝負に勝って合戦に負ける事にもなりかねない、渡会くん、松原くん、何か良い策は無いものかな」
正嗣はじっくりと考えてみる。拳銃は狭くて距離がなければ強いが、広い場所で遠くから撃たれては勝負にならない。刀や槍では問題外だ。そうなると後は相手の不意をつくしかない。
「相手の不意を突くため、少人数で隠れて接近し、相手の砲兵を狙うというのは考えられますね」
人との争いが嫌いな正嗣だが、ただ冷静に考えればこれくらいは思いつく。部外者であると言うのも重要な要素なのかもしれない。
「不意をつくか・・・、新撰組ならば可能だが、会津は無理だな、侍は正面から堂々と等と言う者ばかりだからね」
ありそうな話だ。武士とはなにかと問い続けて百年以上。形骸化した理想を信奉している武士も多い。
「新撰組だけですと数は二百、さすがにそれだけでは・・・」
四
時は数日遡る。
内裏にて鷹司が冷泉為満から錦の御旗について話を聞いている頃、内裏の庭に忍び込んでいたミツキの鋭敏な聴覚にかすかな鳴き声が聞こえてきた。
まだ距離は遠いようだが、聞きなれた鳴き声だ。
隣を見て、ここまで同行してきたスズランを見ると、間違いないと微かに唸る。
スズランはミツキの群れの中で若い犬たちの代表だ。元から正嗣の屋敷に居た犬たちではなく、この五年で合流した犬で、彼らを纏め上げた実力がある。
群れの頭になる力量はあるが、人との付き合い方がまだまだ甘い。正嗣や正嗣の伴侶候補であるふたみ、最近の使命で観察する時間が増えた鷹司。この辺りまでの人に対しては大丈夫だが、ミツキが居ない場所では人に対しての敵愾心が強すぎる。ミツキも正嗣も居なかったら自らの群れと人を対立させてしまい、最後には狩られてしまうかもしれない。
それが何とかなるまでは群れの頭は譲れんな。もう隠居したいと微かに思っているミツキであった。
くぅん
そのスズランが、いいのかい、あいつら黙っていたらこっちにくるぜ。と伝えてくる。
それは、よくないと目で意思を伝える。ここは人の世の中心だ。人に慣れている彼等ではあるけれど、それでも二十の犬が纏まって街中を徘徊したら、人との対立が生まれるだけだ。
軽く首を振って、なんとかしろとスズランに指示をだす。護衛を任されている鷹司はここ最近、この大きな建物とその周りで起居している。ここには嫌な匂いを発する人も多いが、自分たちが出る様な危険の存在は感知出来ない。ならば二匹で待機していなくて大丈夫だろう。
スズランはミツキの合図で嬉々として藪から抜け出し、風の様に走り始めた。待機していたのに飽きていたのだろう。仕方の無い奴め。
スズランが戻り、あいつらには、ふたみの匂いを追うように指示を出したと確認出来た頃、ミツキは鷹司に首元をなでられ、大きな手ぬぐいを掛けられていた。
布の感触と、その奥に紙の感触がある。新参の、むかし偲び犬として育てられた経験のあるサザンカに聞いた話から推測すると、これは密書という奴だろう。
「いいかいミツキ、これを正嗣に届けてくれ、麿はここで踏ん張って時間を稼ぐ事にする、だからこれを正嗣に届けておくれ」
頭をなでてくる鷹司。これは新たな使命という事なのだな。ご主人であり、犬の味方でもある正嗣の元に戻ってよいと言う事ならばミツキに異存は無い。
正嗣の伴侶候補であるふたみの元には別の仲間が向かった。ならば自分は正嗣の下に走るとしよう。
わぅ。
小さくスズランが不満を表明する。
自分はここに残されるのかと思って不満なのだ。スズランはスズランなりに正嗣を好いている。戻ってよいなら戻りたいのであろう。
だが、だめだ。
この建物周辺に嫌な臭いが増してきている。塀の外にも多くは無いが、嫌な臭いと、力の気配を持つ人が増えてきている。二匹でここを離れて鷹司に何かあればふたみの願いを裏切る事になる。
わん!
一声でスズランの願いを却下する。悪いがここは群れの頭として命令を下す。
くぅん。
哀れっぽく鳴くが、心を鬼にして軽く唸り牙を見せる。これ以上不満を表明するならば、許さないという意思を示す。
仕方ないと尻尾を垂れさせてすごすごと座るスズラン。そのやり取りを興味深そうに見てくる鷹司。
「よろしく頼んだの」
鷹司に背中を叩かれてミツキは力を調整して走り出した。
正嗣の臭いは遠い。
しばらく走り詰めになるだろう。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
仏の顔
akira
歴史・時代
江戸時代
宿場町の廓で売れっ子芸者だったある女のお話
唄よし三味よし踊りよし、オマケに器量もよしと人気は当然だったが、ある旦那に身受けされ店を出る
幸せに暮らしていたが数年ももたず親ほど年の離れた亭主は他界、忽然と姿を消していたその女はある日ふらっと帰ってくる……
晩夏の蝉
紫乃森統子
歴史・時代
当たり前の日々が崩れた、その日があった──。
まだほんの14歳の少年たちの日常を変えたのは、戊辰の戦火であった。
後に二本松少年隊と呼ばれた二本松藩の幼年兵、堀良輔と成田才次郎、木村丈太郎の三人の終着点。
※本作品は昭和16年発行の「二本松少年隊秘話」を主な参考にした史実ベースの創作作品です。

松前、燃ゆ
澤田慎梧
歴史・時代
【函館戦争のはじまり、松前攻防戦の前後に繰り広げられた一人の武士の苦闘】
鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争。東北の諸大名家が次々に新政府軍に恭順する中、徳川につくか新政府軍につくか、頭を悩ます大名家があった。蝦夷地唯一の大名・松前家である。
これは、一人の武士の目を通して幕末における松前藩の顛末を描いた、歴史のこぼれ話――。
※本作品は史実を基にしたフィクションです。
※拙作「夜明けの空を探して」とは別視点による同時期を描いた作品となります。
※村田小藤太氏は実在する松前の剣客ですが、作者の脚色による部分が大きいものとご理解ください。
※参考文献:「福島町史」「北海道の口碑伝説」など、多数。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
幕末レクイエム―士魂の城よ、散らざる花よ―
馳月基矢
歴史・時代
徳川幕府をやり込めた勢いに乗じ、北進する新政府軍。
新撰組は会津藩と共に、牙を剥く新政府軍を迎え撃つ。
武士の時代、刀の時代は終わりを告げる。
ならば、刀を執る己はどこで滅ぶべきか。
否、ここで滅ぶわけにはいかない。
士魂は花と咲き、決して散らない。
冷徹な戦略眼で時流を見定める新撰組局長、土方歳三。
あやかし狩りの力を持ち、無敵の剣を謳われる斎藤一。
schedule
公開:2019.4.1
連載:2019.4.19-5.1 ( 6:30 & 18:30 )
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる