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八章 安全で快適な暮らし
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しおりを挟むスイは無気力感に包まれていた。また閉じこめられる生活に逆戻りしてしまった。ここはオビングの家よりずっと広くて快適な屋敷だが、息苦しいことに変わりはない。監視つきだが庭に出られるだけあのときよりまだましではある。
精霊族だとばれた時点でこうなるほかなかったのだ。エリトにかくまわれるしかスイが安全に暮らす手段はない。エリトがいなければ今ごろオーブリーヌ家の屋敷に閉じこめられていただろう。ひょっとしたらあの離れに封印されていたかもしれない。
ソファに座ってぼうっと考え事をしていたスイは、ヴェントンに呼ばれていることに気づかなかった。
「聞いてます……? あの、ハインレイン様?」
「!?」
信じられない呼ばれ方をしてスイはびくりと肩を震わせた。
「えっ……今、ハインレイン様って言った?」
「はい」
「な、なんでそんなかゆい呼び方するんだ? 別におれはきみの主人じゃないんだから、様なんてつけなくていいって!」
「でも旦那様のお連れ様ですし……」
スイはぶんぶんと首を横に振った。様付けで呼ばれたことなんてないので鳥肌が立つ。
「だからって気を遣わないでいいよ! おれ全然偉くないし」
「じゃあなんとお呼びすればいいんですか?」
「普通にスイでいいよ! というか敬語もいらないから!」
「は……はい」
ヴェントンはおどおどとスイに頭を下げた。
「気が利かずにすみません……」
「あ……ごめん、言い方がきつくなっちゃったね。かしこまられることに慣れてないだけなんだ。だから普通に接してくれたほうが助かるんだよ。だから、できればそうしてもらえるかな」
「……わかりました。あ、いや……うん、わかった」
ヴェントンは戸惑いながらもスイの言う通りにしてくれた。
「ありがとう、ヴェントン」
「いえ……」
礼を言うとヴェントンは少し照れたように視線を落とした。彼は寡黙で真面目な使用人だった。茶髪の短髪で、スイより少し背の高いまだ年若い青年だ。いつも気配を殺して黙々と仕事をしていて、いつの間にかそばに寄られていてびっくりすることがたまにある。元騎士団員で鬼族のバルトローシュと違って普通の人に見えるが、どういういきさつでエリトの屋敷で働くようになったのだろう。
「あ、それで、なにかおれに用事?」
「ああ……その、これから買い物に行くので、夕食になにが食べたいか聞いてこいとバルが……」
「夕食か。そうだな、鶏肉料理なんかどうかな」
「わかった」
ヴェントンは短く答えると部屋を出て行った。
夜、エリトが帰宅した。部屋で庭用具の手入れをしていたスイは立ち上がってエリトを出迎えた。
「おかえり」
スイがやってくるとエリトはスイの背中に手を回し、すこしかがんでキスをした。
「ただいま」
エリトは団服を脱いで剣を置き、スイが差し出したシャツに着替えた。エリトが着替え終わったころにヴェントンが二人を呼びに来た。夕食の支度ができたらしい。
二人は一階のダイニングホールで夕食をとった。料理は執事のバルトローシュが作っていて、ヴェントンが給仕を務めている。鶏肉ときのことじゃがいもの煮込みは具材がやわらかくてとてもおいしかった。
夕食が終わるとスイはエリトと一緒に少しウイスキーを飲み、シャワーを浴びて寝室に入った。エリトのベッドはスイが使っていたベッドの二倍くらい大きい。大柄なエリトとスイが一緒に使っても十分余裕がある。
ふかふかの大きなベッドの上でエリトに抱かれながら、スイは自分を見下ろす眼差しがディリオムと同じだということに気がついた。でももうどうしようもなかった。
ゾールは精霊族の姿を見たからといって魔法にかかったわけではないと言った。催眠術に長けた彼がそう言うのならそれは正しいのだろう。だが、エリトやディリオムのように長い間スイと一緒に暮らした人はどうだろうか。スイと一緒に過ごすうちに、だんだんおかしくなってしまうということは考えられないだろうか。
精霊族と一緒にいると幸せになるという話は嘘で、実際は精霊族に魅せられて狂ったように愛するようになるだけなのかもしれない。そうでなければ精霊族と一緒にいると幸せになるなんて噂が広がる理由がわからない。スイは精霊を見たり精霊と話すことはできるが、人を幸せにできるような特殊能力は持っていない。
エリトはスイと一緒にいることで変わってしまった。スイはエリトを自分に縛り付けてしまっていることを申し訳なく思った。だが、エリトに愛されることは嬉しかった。
◆
スイはエリトの屋敷で何不自由ない生活を送った。身の回りのことはヴェントンがすべてやってくれるので、スイは家の中で本を読んだり庭で花壇の手入れをしたりしていればよかった。
エリトに甘やかされて暇をもてあましたスイは厨房にちょくちょく顔を出すようになり、出納帳をつけるバルトローシュの仕事をのぞきこんだり、料理を作るところを見て作り方を学んだりした。そのうちバルトローシュも慣れてきて、夕食の味見や調理の手伝いを頼むようになった。
ある日いつものように厨房に行くと、昼食の準備をしていたバルトローシュに声をかけられた。
「ちょうどよかった。スイ、それを庭に持っていってくれ」
テーブルの上には水差しと二つのコップが置かれている。
「これを庭に?」
「ああ。今日は団長が休みだろ? ヴェントンに稽古をつけてるところだから水を渡して休憩させてやってくれ」
「稽古? なんの?」
「団長が教えるんだから、もちろん戦い方だよ」
「えっ、ヴェントンにエリトが?」
ヴェントンは兵士ではなく使用人だ。戦う力があるとは思えない。それなのにエリトから戦い方を教わるなんてとんでもなく無謀な気がする。無茶なしごかれ方をしてけがをしないか心配だ。
スイの考えを察したバルトローシュはにやりと笑った。
「見ればわかるよ」
「へえ……?」
スイは仕方なく水差しとコップを盆に載せ、それを持って玄関から庭に出た。
庭ではエリトとヴェントンが素手で打ち合っていた。主にエリトが攻撃してヴェントンがそれを受けている。エリトは容赦なくヴェントンにこぶしを打ちこみ蹴りを繰り出す。ヴェントンはその攻撃をすべてはじき返し、攻撃の手が緩んだ一瞬の隙を見て反撃した。エリトはヴェントンの突きを紙一重でかわすと同時に足払いをした。ヴェントンがバランスを崩すとエリトはヴェントンの腹を思いきり蹴り上げた。
ヴェントンは軽々と吹き飛ばされて庭木に背中から激突した。幹がみしりと鳴って葉っぱが数枚落ちてきた。
「足元がおぼつかねえな! 試合じゃねえんだぞ!」
エリトが怒鳴る。ヴェントンは地面にどさりと倒れたが、すぐに立ち上がって何事もなかったかのようにまたエリトに向かっていく。
スイはぽかんとしてその様子を眺めた。ヴェントンがこんなに強かったなんて知らなかった。普段おどおどしているのが嘘のように俊敏に動いてエリトとやり合っている。しかもエリトの蹴りを腹に食らって平然としている。ゾールでさえエリトから一撃を食らっただけで動きがだいぶ鈍くなっていたというのに。ヴェントンは尋常でなく頑丈な体を持っているようだ。
しばらく戦ったあと、エリトはすっと手のひらをヴェントンに向けた。
「この辺にするか」
「はい」
スイは水差しの水をコップに注いでヴェントンに近寄った。
「はいどうぞ」
「あっ、ありがとう」
とたんにヴェントンはいつもの彼に戻り、照れながらコップを受け取った。
「ヴェントンってこんなに強かったんだね。全然知らなかったよ」
「それほどでもないよ。人より少し丈夫なだけだよ」
「……もしかして無理してないか? 痛いのを我慢してるだけなんじゃ……」
エリトが怖くて言い出せないだけなのではと心配になったスイがそう言うと、エリトはふんと鼻を鳴らした。
「お前に心配されるほどこいつはやわじゃねえよ。なんならちょっと殴ってみろって」
「はあ? なに言ってんだよ」
「別に構わないよ」
「ええっ」
スイが目を見開くと、ヴェントンは水を飲みながら平然とこちらに体を向けてきた。
「好きなところをどうぞ」
「む、無理しなくていいんだぞ……」
「無理してないから」
「そ……そこまで言うなら……。えい」
スイは腹筋で守られていそうな腹の中心を殴った。ヴェントンはにこりと笑う。
「かわいいパンチだね」
「なにい……? おれを本気にさせたな!?」
今度は渾身の力をこめて殴ってやった。しかしヴェントンは揺らぎもしなかった。
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