銀色の精霊族と鬼の騎士団長

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六章 嗤う人妖族

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「……!」

 そのとき、スイはめまいを感じた。なにか忘れているような気がする。でも、それがなんなのか思い出せない。

「大丈夫?」

 ふらついたスイをゾールがそっと支え、エリトの腕を払った。

「風邪でもひいたのかもしれないな。歩ける?」
「う、うん」

 スイは濡れて顔に張りついた髪をどけようとしてフードの中に手を突っこみ、ふと右耳に冷たい感触があることに気がついた。なめらかな丸い金属が指先に触れる。

「あれ、ピアス……? おれ、こんなものしてたっけ?」
「? ずっとしてたよ?」

 ゾールはそう言ったが、スイはこのピアスに覚えがなかった。耳になじんでいるのですっかり存在を忘れていたようだが、そもそも自分は耳にピアス穴すらなかったはずだ。

「……それは俺がやったピアスだ。俺が耳に穴を開けてつけてやったんだろ。忘れたのか?」

 エリトが言う。スイは驚いてエリトを見上げた。ゾールも驚いた様子で、しまったと言うように顔をしかめる。エリトはその表情を見逃さなかった。

「……お前、こいつに魔法でもかけたのか?」
「急になんだよ。そんなことしてねえっつの」

 ゾールはすぐに言い返したが、エリトは確信を持ったようだった。

「いくらなんでもピアスを開けたことを忘れるわけないだろ。……ああ、そうだよ。お前、人妖族じゃねえか。催眠術はお手の物だろ?」
「人聞きの悪いこと言うんじゃねーよ。オレがいつそんなことしたっていうんだよ。なあ?」

 ゾールはスイに優しく笑いかけて同意を求めた。スイは大きくうなずいた。ゾールに術などかけられた覚えはない。好きで一緒にいるだけだ。

 エリトはいらだった様子で再びスイに手を伸ばしたが、ゾールが素早くスイを抱き寄せてその手を避けた。

「……そいつから離れろ」
「それはオレの台詞だね。スイに触んな」

 エリトの機嫌はどんどん悪くなっていき、額に青筋を立ててゾールをにらみつけている。視線だけで殺せるものなら殺したいと言わんばかりの眼力だ。スイはエリトが恐ろしくてゾールにすがりついた。この底冷えする殺意を向けられて平然としていられるゾールの胆力もすごい。

 雨が降りしきる中、エリトとゾールはにらみ合った。スイは二人の威圧感に気圧されて指一本動かせなかった。時間は遅々として進まない。

「……ふっ……、ふふ」

 不意にゾールが肩を小刻みにゆらして笑い出した。

「ふふ……あははっ! その顔、けっさくだな!」

 ゾールはエリトを見てけらけらと笑う。

「もしかして自分たちは固い絆で結ばれてるとか思ってた? ははっ、馬鹿みてえ!」

 スイはぽかんとしてゾールを見上げる。

「……ゾール?」
「一度逃げられたくせに、よくそんな余裕かましてられるよな。それなのにオレに取られそうになって急に焦りだしたのかよ? 笑えるな」
「術をかけて無理やり自分のものにするようなゲス野郎になにか言われる筋合いねえんだよ。そこまでしてこいつが欲しかったのか? かわいそうな奴」

 エリトが鼻で笑うと、ゾールは両腕をまわしてスイをぎゅっと抱きしめた。

「……そうだよ。この子の本当の姿を見て、オレも欲しくなっちゃったんだ」
「……え?」

 エリトの目にわずかに怯えが混じる。ゾールは目を細めて言った。

「お前も見たんだろ……? スイのきれいな銀髪を」

 エリトは目を見開いた。

「お前……なんでそれを……?」

 動揺するエリトを見てゾールは満足そうに笑う。

「だから、お前だけがスイのことをなんでも知ってると思ったら大間違いなんだよ」

 エリトは緊張した面持ちでスイを見た。

「お前、こいつにあの姿を見せたのか?」
「い、いや……見せたというか、見られちゃったというか……」
「一体どこで……、……あれか? あの屋敷の庭の池か?」

 スイはこわごわうなずいた。

「あの池に入ったのか!?」
「……うん」
「……この馬鹿……! ゾール、スイを返せ。今すぐにだ!」

 エリトが詰め寄るがゾールは聞き入れない。

「別にお前のものじゃねーだろ」
「こいつは俺のだ。……いや、もうすぐ・・・・俺の・・ものに・・・なるんだ・・・・。今さらてめえなんかにくれてやるかよ」

 エリトは腰の剣に手をかけた。

「お、おい!」

 スイがぎょっとして叫ぶ。ゾールも慌てて一歩下がった。

「は……、騎士団長ともあろう者が、私情で剣を抜くのかよ」

 エリトは剣の柄を握ったが、思い直したのか手を離した。

「……てめえなんか剣を使うまでもねえ」

 そう言うが早いか、エリトはゾールに殴りかかった。ゾールは紙一重でエリトのこぶしをかわして逆に殴りかかる。

「やめてくれ!!」

 スイは真っ青になって金切り声を張り上げた。この二人の喧嘩はしゃれにならない。エリトは力の強い鬼族の中でも最も強い戦士で、ゾールはデアマルクトを荒らし回ったごろつき共の元リーダーだ。どちらも戦い慣れている。本気でやり合ったら怪我では済まない。

「やめろ! やめろってば!」

 スイがいくら叫んでも二人の耳には入らない。ゾールはいつの間にかフードが脱げ、鬼気迫った顔でエリトに向かっていく。喧嘩慣れしているゾールもエリトの腕力は怖いらしく、一撃も食らわないように必死になっている。

 ゾールは水たまりを蹴り上げ、エリトの顔めがけて泥水を飛ばした。エリトは腕を上げて顔をかばい、そのまま肘鉄をゾールの肩に落とした。

「……っ」

 肘鉄を食らったゾールは歯を食いしばってよろめいた。さらに追撃しようとエリトが一歩前に踏み出したとき、ゾールは素早く足を振り上げてエリトの鳩尾を蹴り飛ばした。エリトは後ろに倒れかかったが、なんとか踏みとどまって再びこぶしを振り上げる。

 もはや二人の視界にスイは入っていない。どちらかが倒れるまでやめないだろう。

 エリトに殴られて口端を切ったゾールは、地面に血をはきだすと目の前の男をにらみ据えた。

「……なめてんじゃねえぞてめえぇ! 手加減なんかしやがって!」

 ゾールが歯をむき出して怒鳴った。スイには全力にしか見えないのだが、どうやらゾールはエリトに手加減されていると感じたらしい。

「なめてっとぶっ殺すぞ!」

 激昂したゾールはエリトに殴りかかったが、すでに受けた傷が痛むようで先ほどまでの勢いがなくなっている。スイはゾールが死んでしまうのではないかと怖くなった。エリトの瞳は新月の夜のように真っ黒だ。それを見たスイの胸がざわついた。この目は知っている。以前も見た目だ。

「……あ」

 胸の内がざわざわと震える。頭がきゅっとしぼむように痛んだ。スイは頭を両手で押さえた。

 怖い。エリトが怖い。――どうしてそう思ったんだっけ。

 意識が遠のいていく。すべてが曖昧になっていく。世界が真っ黒に塗りつぶされそうになったとき、ふとたくさんの物事が吹き出すように戻ってきた。エリトと過ごしたたくさんの日々が、頭の中に一気に流れこんでくる。

「……っ!」

 いつの間にか息を止めていたらしく、スイは大きく呼吸を繰り返した。頭がさえてくると、スイは二人に向かって駆けだした。

「やめろ!!」

 スイは殴り合う二人に飛びかかり、エリトの背中に抱きついた。

「やめてくれエリト! ゾールは悪くないんだ!」
「……スイ?」

 エリトは立ち止まって後ろを振り向いた。虚を突かれた様子のエリトを見上げ、スイは必死に訴えた。

「もうこんなのやめてくれ! ゾールは悪くない! ゾールがおれに術をかけたのは、おれのあの姿を見たからだ! あの姿を見た人はみんなおかしくなっちゃうんだ!」

 それを聞いたゾールはハッとした。

「お前……自力で催眠を解いたのか?」
「うん。全部思い出した。きみに術をかけられたことも」

 今は頭がすっきりしていた。ふわふわとした幸福感はなくなり、地に足が着いているのがわかる。もうゾールを見ても心が躍ることはない。

「ごめん、ゾール。こんなことになったのはおれのせいなんだ。きみは悪くないんだ」

 ゾールはスイの精霊族の姿を見て魅入られてしまった。それだけのことだ。

「お前のせいじゃねえだろ。こいつがやったことだ」

 エリトが低い声で言う。まだエリトはゾールを許していないようだ。再びエリトがゾールにつかみかかろうとして、スイは死にものぐるいでエリトの背中にしがみついた。

「待ってくれ! これ以上はやめてくれっ!」
「こいつはお前に催眠術をかけて好き勝手しやがったんだぞ。それを許せるほど広い心は持ってねえ」
「やめろってば!」

 これ以上は本当にゾールを殺してしまうかもしれない。ゾールはまだ二本の足で立っているが、殴られた腹を押さえて苦しそうな息をしている。

 それでもエリトの怒りは収まらない。エリトはスイを引きずったままゾールに殴りかかった。
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