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3章 心が通い合う時③

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「千鶴はとっくに他の相手と結婚している。地震が起こる直前、散々俺に惚気ていたから顔が赤かったんだろう。今はただの友人だよ」

 目を瞬かせる夕花に白夜は説明してくれた。

「婚約当時は赤坂財閥が傾いていてね、彼女は金銭的な事情で俺の婚約者になったんだ。だが千鶴は赤坂財閥を自分が立て直すと申し出て、俺は金を貸しただけだ。彼女は実際に立て直して金を返してくれた。それで俺とも円満に婚約を解消したんだ。その後、すぐに恋仲だった幼馴染の男性を婿にして結婚したんだよ。だからよりを戻すということはありえない」

 白夜の話を、夕花は呆然としながら聞いた。

「それに言っておくが、俺は千鶴を女性として好きだったことは一度もない。しかし何故そんな風に思い込んだ? 君に変なことを吹き込むやつでもいたのか?」

 夕花はふるふると首を横に振った。

「い、いえ……、本を読んだからです。白夜さんの書いた本『兎に狼を殺せるか』あれを読んだ私は、てっきり千鶴さんと白夜さんのお話なのだとばかり……」

 出ていく女性を愛しながら、手放すことを選んだ話。
 夕花はすっかり二人の話なのだと思い込んでしまったのだ。

「あの話を書いたのは、千鶴と婚約するよりも前のことだよ。千鶴とは無関係だ」

 白夜は怒ることもなくそう言った。
 夕花は完全に思い違いをしていたようだ。早とちりに顔から火が出るほど恥ずかしい。

「すみません……私、早とちりしてしまって」
「だが、いい線はついている。……確かに狼は俺自身がモデルだ。でも一つ違うのは、狼は兎に恋愛感情を持っていたわけではないということ。……兎のモデルはね、俺を置いて出て行った、母親なんだ」
「……お母様……ですか」

 白夜が語ったところによると、白夜の両親にはそれぞれ恋人がいたらしい。どちらも相手はごく普通の、異能のない人間だった。しかし両親は恋しい相手と添い遂げることは許されなかった。白夜の父は吸血鬼の月森家当主として、母は月森家に金で売られた幻羽族の娘として、吸血鬼の血を受け継ぐ子供を作る必要があったのだという。

「だが、形ばかりの夫婦となってもうまくいくはずなかった。吸血鬼は子供のうちに最低でも一回は両親から血を与えられるものだが、母はそれを拒んだ。そして俺が小さい頃に、義務は果たしたと出て行った。父は俺が生まれた時にはとっくにいなくなっていた。親の愛と共に与えられるべき血を与えられなかった俺は、血を吸ったことがない」

 そんな、と夕花はショックを受けていた。

 夕花も羽なしとして、父から愛されていなかった。しかし、亡き母だけは夕花を愛し、全力で慈しんでくれたのだ。そのおかげで夕花は今も母の思い出を胸に生きていける。しかし、白夜にはそれすら与えられなかったなんて。

「俺が血を吸えないのは精神的なものだ。婚約を解消する時、千鶴が好意で血を吸わせようとしてくれた。だが、俺は千鶴の血を吸えなかった。吸血鬼の本能としては吸いたいのに、どうしても頭が拒んで飲み込めないんだ」
「で、でも、血を吸わなくても生きていけるのなら、それでいいではないですか」

 血を吸えば怪我が治癒するといっても、何か起きない限り大怪我などしない。異能の力も極力使わず、危険な場所にも行かず、静かに暮らせばいい。

「通常の吸血鬼ならな。だが、俺くらい強い異能の力を持っているだけで、まったく血を吸わずには生きていけない。少なくとも十年に一度くらいは飲む必要があるそうだ。どうしても吸えない場合は、血液から作成した薬を飲むんだ。俺も幼い頃に、幻羽族の血液から作った薬を飲んでいたんだが、ある時から薬を飲んでも効果がなくなってしまった」
「白夜さんが血を飲めないとなると、今後どうなってしまうんですか……」
「おそらく、寿命が著しく短くなるだろう。あと何年生きられるか、わかったものではない」
「……そ、そんな……」

 夕花はザアッと血の気が引くのを感じていた。

「すぐに死ぬというわけではないが、今後どうなるかわからないということだ。二、三年であっさり死ぬのならまだしも、下手に寝たきりのまま十年か二十年生きてしまう可能性もある。それもあって夕花をそばに置いておくのが辛い。助けるつもりで君を連れてきたのに、それだけ長く辛い思いをさせるのは忍びない。俺なんかのために、母のようにしたいことを我慢させ、好きな人とも添い遂げられずに、ただ人生を消費させてしまうのが、辛いんだ」
「そんな、私はしたいことを我慢なんてしていません! 代書屋で働かせてもらっていますし、好きなのは──」

 白夜だ、とは言えなかった。代わりにカアッと頬を赤らめた。

「白夜さんは、同情で私を助けてくれたんですか……? やっぱり、倒れたところを助けた恩返しには、大きすぎます」
「俺は……君に初めて会ったあの頃、ひどく病んでいた。血を吸えなかった──いや、親の愛情を口にできなかった俺は、ろくに睡眠も取れず、何を食べても味がしなかった。ふらふらと出歩いて、亘理にも何度も迷惑をかけていてね。綾地町にいたのは、きっと母を探していたんだ。母から血を吸わせてもらえれば、なんとかなるんじゃないかって」
「白夜さんのお母さんはあの町にいるのですか!?」

 しかし白夜は首を横に振る。

「……いや、いないよ。いないってわかっているのに、吸血鬼でも幻羽族でもない恋人のところに向かった母の面影を、あの町で探してしまうんだ」

 きっとそれは、綾地町が異能を持たないごく普通の人たちの営みの場所だからなのだろう。夕花も綾地町の人々の明るさや優しさに何度も心を救われた。そしてそれは、白夜も一緒だったのだ。

「俺は倒れた時も、もう全てがどうでもよかった。このまま目をつぶって終わりにしようと思ったんだよ。そこを君に救われた」
「ただ代書屋の座敷に寝かせただけですよ」
「君はあの時もそう言ったね。だが、そんなことはないよ。君のそばは久しぶりに安らかに眠れたし、君と分け合った饅頭はあれほど美味しいものを食べたのは初めてだと感じるくらいだった。もしかしたら君が心を尽くしてくれたから余計そう感じたのかもしれない。そして俺は目を覚まして、この世で最も美しいものを見たと感じたんだ」

 夕花はあの時を思い出そうとしたが、よく思い出せない。美しいものなどあっただろうか。

「それは?」
「──君だよ、夕花」

 白夜は、目を細め、優しく微笑む。そのあまりの美しさに、時間が止まったかと錯覚していた。
 少なくとも息をするのを忘れて白夜の微笑みに見入っていた。
 いや、魅入られていたのかもしれない。
 ハッと我に返り、呼吸を再開した夕花に白夜は言う。

「俺は、君を愛している。目を覚ましたあの時、君の姿を見てから、どうしようもなく君に惹かれてしまったんだ」
「白夜さんが……私を……?」
「だから、月森家の力で半ば無理矢理に連れてきてしまった。君が神楽家で幸せなら、我慢できたかもしれない。調べさせた君の生活に、どうしても放っておくことはできなかった。でも、俺のわがままはこれで終わりだ。俺は狼、そして君は兎だ。手放すことも愛だと受け入れるよ」

 白夜はそう言って、夕花の頬を優しく撫でた。するすると離れていき、白夜の感触がなくなる。それがとても寂しい。

「……嫌です……」

 夕花はなんて言ったらいいものか、全然わからなかった。ただ、嫌だと小さな子供のように繰り返す。

「私、白夜さんのそばにいたい。それが私の望みなんです。だって私、私も──白夜さんが、好き」

 心の中がぐちゃぐちゃで、涙を止めることはもうできなかった。神楽家でどんなに辛くても、何度も我慢できていた涙が、感情と共に溢れ出る。しかし、諦めの涙ではなかった。俯いて流す涙とは違う、白夜の方を真っ直ぐに見たまま、熱い心をぶちまけるような涙だった。

「白夜さんが、私の好きにさせてくれるというのなら、私は白夜さんのそばがいい。私は兎じゃありません。あんなに賢くもないし、気高くなんてない。それに何よりも、私は狼を……白夜さんを愛しているんですから!」

 狼を愛さなかった兎とは違う。
 夕花はその本心を白夜に向けて叫んだ。

 気が付くと、夕花は白夜に抱きしめられていた。
 白夜からする甘い匂いに包まれ、白夜の温かさを感じる。

「そんなことを言ったら、もう二度と君を手放さない。いいのか?」
「いいに決まってます……!」

 夕花も白夜に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。心臓が今更ドキドキとして、口から飛び出してしまいそうだ。顔も真っ赤だし、泣いたばかりの目もきっと赤いことだろう。

 白夜は夕花の頬を両手で挟む。

「目が赤くて兎みたいだ。……でも兎ではないんだな」

 目を閉じて、と耳元で囁かれ、夕花は目をギュッと閉じた。
 頬に、額に、そして唇に、柔らかな感触が降ってくる。クスッと白夜が含み笑いするのが聞こえた。

「そんなに強く閉じなくていいんだよ」

 余計に恥ずかしく、おそるおそる目を開くと、白夜の端正な顔が間近にあった。
 再び唇に白夜の唇が優しく触れる。何度も何度も、キスの雨が降ってくる。夕花は手を振るわせながらも、それを全て受け入れた。

 夕花にはもう、白夜以外は何も見えない。木漏れ日の煌めく薄暗い森も、森の外の輝く湖も、全てが意識の外で、ただ白夜のことだけが心を占めていた。 
 白夜の紅色の瞳にも、夕花だけが映っている。

 想いは通じ合い、とろけるような甘いひとときを、心ゆくまで過ごしたのだった。
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