ここから【短編集】

行原荒野

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 驚くほど小さくて、少し汗ばんだ手が、結城ゆうきの人差し指を懸命に掴んでいる。
「ほら、お兄ちゃん、抱っこしてみてよ」
 妹の頼子よりこに言われて怖々と腕に抱くと、赤ん坊は両手両足を忙しなく動かしながらきゃっきゃと機嫌よさげに騒ぎ出した。
「さっそく伯父さんが気に入ったか」
 頬を緩めっぱなしの父が、汗で小さな頭に張り付いた柔らかい髪を、優しい手つきで撫で上げる。
「サキちゃんはイケメンが好きなんだよねー」
 母はさきのほっぺたをつつきながら、いたずらっぽく結城を見た。
「イケメンがどこにいるんだよ」
「あ、照れた! 咲ちゃん、伯父ちゃんが照れたよ!」
 頼子がからかうのに苦笑しながら、結城は咲を頼子の腕に戻した。
(イケメンていうのは、あいつみたいなやつを言うんだ)
 そんなことを考えて指の先がジンと痺れる。けれどそれは次の瞬間、小さな痛みへと変わった。
 この絵に描いたような幸せのなかに居て、結城が感じるのは、そこはかとない疎外感だ。
 昨年の秋に妹が出産したことはもちろん知っていたが、今日、ようやく実家に帰ることができた。姪の咲はもう三ヶ月だ。
 さほど遠方という訳でもないのに結城が帰らなかったことを、妹も両親も責めることはなかった。頼子などは、無理をして会いに来てくれて、と逆に礼を言ってくれたほどだ。
 頼子だけじゃない。結城の家族はみんな優しい人たちばかりだ。誰も結城の生活について根ほり葉ほり訊くことはないし、干渉することも一切ない。
 結城にとってそれはとてもありがたいことだったが、どこか不自然な関係であることも十分に理解していた。皆、結城の前では互いに気を遣い、無難な話題だけが上っ面を滑ってゆく。
 きっかけは結城が中学生の頃だ。自らの性的指向について悩んでいた時、結城は男色や衆道を扱った本をまとめて何冊か借りたことがあった。それらは主に純文学や時代小説といった至極真面目なものではあったが、中には明らかにそれを匂わせる表紙のものや、裏表紙の紹介文に衆道といった文字が入っているものなどもあったため、結城は後ろめたさから、借りた本をクローゼットの中に隠すように置いていた。
 ある日、学校から帰宅した結城は、部屋の様子が違っていることに気付き、慌ててクローゼットを開いた。本は確かにそこにあったが、僅かに動かした形跡があり、結城の心臓が嫌な感じに跳ねた。
「母さん、オレの部屋、掃除した……?」
 階下に下り、キッチンで夕飯の支度をしている母に、努めてなんでもないフリを装って尋ねた。
「ああ、洗濯物置くついでにね」
「ふうん、……ありがとう」
 結城はぼんやりとした頭のまま、また階段を上った。母は一度も自分を見なかった。
 結城が借りた本はどれも文学的な価値の高い本でもあったから、話自体に興味があったと言うことも出来た。
 けれど結城は本を「隠して」しまった。そのことが何を意味するのか、思春期の息子を持つ母親なら、当然考えを巡らせたことだろう。
 結局、母がそのことについて触れることはなかったが、この日のことはいつまでも結城を苦しめ続けた。
 母は父に話しただろうか。もし話したなら、父はどう思っただろう。
 結城はいつも怯え、自分の態度は不自然ではないか、もしかしたら今夜あたり父に呼ばれるかもしれない、そんなことばかりがいつも頭の中を駆け巡っていた。
 妹の彼氏について母と妹が楽しそうに話しているのを見たことがある。けれど母は一度も結城に、彼女がいるのかなんて訊いたことはなかった。それがいっそう結城の確信を強めた。
 頼子とは仲の良い兄妹だったが、成人して結城が家を出たあとは、結城の色恋沙汰について訊いてきたことはない。結城の仕事のこと、朗読のことなどについては積極的に話をふってくるのに、…いや、恋愛や結婚の話題を避ける不自然さを避けるために、あえてそうしているのだろうと結城は思う。
 家族がこの件について触れなかったのは、結城を気遣ったということもあるかもしれない。けれどその奥底にあるのは、彼らの怯えだ。知りたくない、という気持ちが透けて見えて、結城は面と向かって問い質されるよりも辛い気持ちがした。
 自分の知らないところで家族たちが、結城のデリケートな問題について「相談」をしていたのかと思うと、ひどく惨めで、情けないような、居たたまれないような、たまらない気持ちになる。それと同時に、どうしようもない疎外感を感じた。
 結城はずっと孤独だった。
 優しい家族に囲まれて、ずっと孤独に生きてきた。
 けれど多分、自分と彼らとの関係はこのままで行くのだろう、と結城は思う。互いに傷つけあうよりは、その方がいいのだと。
 

 翌日の夕方、結城は実家を出た。名残惜しそうにする母たちに、また近いうちに来るよ、と言いながら、結城は深く深呼吸をする。実家から離れてゆくにつれて、呼吸が楽になってゆくような気がした。
 あの家に滞在するのはいつも一泊が限度だ。それ以上は持たない。自分のアパートに戻る頃にはいつも、心身ともに激しく消耗していた。
 部屋に帰りつくなり、結城はバサリとベッドにうつ伏せに倒れた。自分の指を握った赤ん坊の手の感触を思い出しながら、ぎゅっと目を閉じる。
 賀川かがわに会いたいと思った。優しくて、温かくて、絶対に自分を傷つけないあの逞しい腕の中で、存分に甘やかされたいと、強く願う。
 賀川しゅん。この世でひとりきりの、想い人。
 初めて逢ったとき、その目に吸い込まれた。何故かは判らない。
 けれど「出逢った」と感じた。
 賀川も自分を見ていたと思う。自分と違って人気者で、快活で、まっすぐな男。
 彼の周りはいつもたくさん人がいて賑やかだったけれど、結城が彼を見ると、必ず彼も結城を見ていた。そのたびに身体中が熱くなって、指先が痺れるような感覚を何度も味わった。
 賀川は弓道部に所属しており、部内でも一、二を争う実力だと言われていた。結城は何度かこっそりと彼の練習を覗きに行ったことがある。 
 初めて弓道場を訪れた時、静かで厳しい横顔と、構えの美しさにハッと息を呑んだ。鋭い音を立てて放たれた矢が一本、二本、三本と的を捉え、四本目で皆中を決めたとき、結城は完全に恋に落ちた。

 言葉を交わしたのは一度だけだった。でも二つの心臓は、痛いほどに呼応していた。言葉などなくても、視線を交わせば互いの気持ちは手に取るように判った。
 けれど結局、二度目の言葉を交わすことはなく、二人は別々の道へと別れてしまったのだ。
 卒業後、彼の噂を聞く機会は何度かあった。そのたびに、懐かしいという言葉では片づけられない、ひどく生々しい感情に胸を焼かれた。
 そしてある日、図書館にやってきた元クラスメイトから、賀川が結婚するらしいと聞いたとき、心臓をひねり潰されたような痛みを覚え、そのあと身体中の力が抜けて、うまく動けなくなったのを憶えている。
 そうなんだ、と呟いた自分の声を、どこか遠くで聞いているような感覚だった。
 それからしばらくは食べ物を受け付けなくなり、無理をして食べても吐いてしまった。
 もう二度と自分たちの道が交わることはないのだ、そう考えると、この世の全てが色を失くしたみたいだった。
 だから再会したときは、夢を見ているのかと思った。相変わらず綺麗に伸びた背筋と、誠実さを表す、深く澄んだ瞳。
 その瞳が結城を捕えた瞬間、あの頃と少しも変わらない、狂おしいほどの熱を伝えてきた。
 これは現実なんだ。また逢えた。そう思った瞬間、心臓が壊れそうなくらい、音を立てて鳴り始めた。けれど賀川は結城に声を掛けることもせずに、呆気なく帰ってしまったのだ。
 ショックだった。次はいつ会えるかも判らない。もう、これが最後かもしれない。そう思うのに、足がすくんで追いかけることも出来なかった自分をどれほど呪ったかしれない。
 予想に反して賀川はその後、何度か図書館を訪れてくれたが、やはり声をかけることは出来なかった。
 もう自分になど興味はないのかもしれない。ただ仕事の息抜きにここへ来ているだけなのだろう。そんな風に考えて心を戒めもした。
 けれど結城の朗読を聴く時の彼の目には、あの頃と変わらない熱を感じて、賀川が一体何を考えているのか判らず、結城は少なからず混乱していたと思う。
 賀川がまた遠い場所へと離れていくことを知ったのは、彼が図書館を訪れるようになってふた月ほど経った頃のことだ。あまりの衝撃に言葉もなく立ち竦んでいたとき、賀川からの思いがけないメッセージが届いた。
 あの公園までの道のりを、どんな風にして辿ったのか、幾ら考えても思い出せない。ただ、それが夢でないことだけを願っていたのだと思う。
 そしてそこで初めての言葉を貰って、初めての言葉を伝えて、初めて賀川の烈しい熱に抱かれた。
 離れてからの十ケ月。その間に会えたのは数える程度だ。約束があれば待てると言ったけれど、ひと月、ふた月と経つうちに恋しさが募り、胸が苦しくなっていった。
 賀川はとても忙しい様子だったが、頻繁に連絡をくれていた。結城からはあまり連絡することは出来なかった。出来るだけ、賀川の負担にはなりたくなかったのだ。
 それでもどうしても会いたくて、無理を言って自分から名古屋まで行き、近くのホテルで慌ただしく抱き合ったこともある。
 別れが辛くて結城が黙ると、賀川も黙って時間が許すギリギリまで抱いていてくれた。
 
 
 賀川に望まれて、朗読のCDを何枚か送ったこともある。求められているのだと感じて嬉しかった。一日の疲れを纏った彼が、目を閉じて、この声に耳を傾けてくれるのだと思うと、声は自然と甘くなった。賀川はそんな結城の心をすぐに悟ったことだろう。声はとても雄弁だ。
 結城も大切にしている賀川の「声」がある。普段はどんなに遅くなっても賀川からの電話がある日は起きているのに、体調の悪さと疲労からうっかり眠ってしまったことがあったのだ。
 そのときに賀川が残してくれた留守電のメッセージは、結城の支えであり、心強いお守りだった。
『もしもーし、――もう寝たのか? ……おーい、ゆうきひろしくーん……。――(咳払い)風邪ぎみだって言ってたので気になってかけてみました。……ちゃんと食べてるかー。肉もたまには食えよ。卵でもいいからな。…………寝たのか。……そっかそっか……。ふぅ……。んじゃぁー、……またかけるな。――――俺の夢見ろよ!』
 もうこれまでに何度聴いたか判らない。特に彼からの電話がない日は、寝る前に何度でも聴いていた。今ではもう、息継ぎの場所や、声が掠れる部分まで、鮮明に頭の中で再現できるくらいだ。賀川にはそんなこと、恥ずかしくて絶対に言えないけれど。


 早めの夕食をとって、漫然とテレビを見ていたが、何故だか心臓が不自然に脈打って落ち着かなかった。実家から戻ったあとは、いつもこんな風になる。
 結城はチラと時計を見た。午後六時半。今日は土曜日だから賀川は休みのはずだけれど、いつもゆっくり話すために、どちらがかける時も、電話は夜の九時くらいと決めていた。
 今夜も多分、賀川はそのくらいに電話をくれるはずだ。けれど今日の結城はその時間まで待つのが辛かった。
 携帯を手に取り、たっぷり五分ほど迷ってから思い切って賀川にかけた。未だに自分から電話をかける時は緊張する。ドキドキする胸を押さえながら待っていると、二回目のコールですぐに回線が繋がった。
 結城が声を発しかけた瞬間、「あ、ごめん! 違う人だった!!」という若い女の声が聞こえてきた。そのあと慌てたような声で、「ちょ、ナニやってんだよ!」という賀川の声が聞こえて来る。
 結城はとっさに心臓の辺りをギュッと掴んだ。
『もしもし! 結城か?』
 焦ったような賀川の声が聞こえたが、うまく声が出せずに沈黙してしまう。
『おい、結城だろ? どうした? 何かあったのか』
 心配そうな声も何故か遠く感じて、結城は俯き、唇を噛んだ。
『結城‥』
「ご、ごめん、」
 やっと声を出したとき、また若い女の声で、ほんとごめんっと小さく賀川に話しかける声が聞こえてきて、携帯を持つ手が震えた。 
『結城、どうした、大丈夫か』
(誰なんだ、その人。今日は休みなんだろ、今どこにいるの、おまえの部屋? どうしてその人がおまえのそばにいるの)
 訊きたいことは明確なのに、怖くて一つも訊けない。
「い…いんだ、今日は、用事があって電話、出れないかもしれな…から、……伝えとこうと思って、……それだけ、ごめん」
 賀川が何か言いかけたことは判ったが、動揺のあまり不自然に電話を切ってしまう。ドクドクと苦しいくらいに鼓動が鳴って、茫然と携帯の画面を眺めていたが、ふいに鳴りだした着信音に驚いて、携帯を取り落してしまった。
 賀川からに違いなかったが、今彼の声を聞くのが怖くて、耳を塞いだまま留守電に切り替わるのをじっと待つ。そして音が止んでから恐々と拾い上げ、通話終了になった瞬間、電源を落とすと、目に触れない場所へと隠すように置いた。
 我ながらなんて子供じみた行動だろうと思うが、次に着信音を聞いたら本気で心臓が止まってしまうのではないかと思うくらい、怖くなったのだ。
 意味もなく部屋の中を歩き、それから急に寒気を感じて、ぶるりと身体を震わせた。
 乱暴に服を脱ぎ捨て、逃げ込むように浴室へと入り、熱すぎるくらいのシャワーに打たれながらギリッと唇を噛み締める。
 賀川の話を聞くべきだと判っていた。彼を信じているのなら、結城からその人は誰なのかと、ひと言訊けばいいのだ。理性では判っている。
 けれど不意打ちのような衝撃を受けて、結城の心は今にも壊れそうだった。今日一日不安定だった気持ちが更に追いつめられて、何を考えればいいのか判らない。
 濡れた髪もいい加減に乾かしただけで、結城はベッドに潜り込んだ。冷え切った布団がいっそう孤独感を煽る。眠ってしまおう、眠って忘れようと思うのに、先ほどの女性の声をわざわざ反芻してしまうのだ。
 そしてそれは、日頃から結城の胸の片隅で燻り続けているある二つの不安を、一気に表へと引きずり出した。
 それは、賀川が女性とつきあっていたことがあるということ、そして結城以外とつきあったことがあるということについての不安だ。
 賀川は自分とは違って、本来の恋愛対象は女性なのだろう。結婚相手になったかもしれない女性も含め、おそらく何人かの女性とつきあってきたに違いない。そしてその間はきっと、結城のことを忘れていた。
 けれど自分は一度も賀川を忘れたことはなかった。自分でもおかしいと思うけれど、どんな人に逢っても、どれほど誘われてもよろめくことはなかったのだ。
 賀川が結婚するかもしれないと聞いたときは、さすがに潰れそうになって、知らない男の腕に身を委ねようとしたこともある。けれど結局は賀川の顔が浮かんで一線を越えることは出来なかった。
 自分は賀川しか愛したことがない。けれど賀川は自分以外を愛したことがある。
 そこにひどく埋めがたい想いの落差、あるいは温度差といったものを感じずにはいられなかった。もちろん自分たちの年齢にもなれば、賀川にある程度の過去があるのは当然だ。それを思うことは辛くて苦しいけれど、問題はそこではない。
(きっと自分の想いは重すぎる)
 賀川の愛を信じているのに、まだ足りない、もっと欲しいと願う、貪欲で浅ましい自分がいる。
 いつかその自分の想いに押し潰されて、かけがえのない賀川からの愛さえも壊してしまうのではないか。賀川も結城の重さに耐えかねて、いつか結城のもとから去ってゆくかもしれない。
 結城はそれが怖くてたまらなかったのだ。
 
 
 憂いと不安を抱いたまま落ちた眠りの中で、結城はとても怖い夢を見た。賀川から文庫本に挟まれた大切な伝言メモを貰ったのに、どうしても仕事を終えることが出来ず、遅れることを伝えたいのに、その方法が見つからないのだ。
 焦って身体が強張り、どうしよう、どうしようと呟いていると、何故か例のクラスメイトが出てきて、これが賀川の電話番号だよ、と腕にマジックで書かれた奇妙な番号を見せてくれる。
 結城は急いで携帯電話を取り出して、彼の腕の番号を見ながら電話をかけようとするのだが、最後の番号をどうしても押し間違えてしまうのだ。どんなに目を凝らして、慎重にボタンを押しても、最後の番号で必ず間違えてしまう。
 そのうち、クラスメイトがもう数字が消えてしまうと言うので、慌ててそれをあのメモに書き写そうとするのだが、そのメモもいつのまにか消えていて、クラスメイトもどこかへ行ってしまっていた。
 いつのまにか外が明るくなっていて、結城は、もういいですよね、と他の職員に断りを入れ、図書館を飛び出してあの公園まで走る。
 だがどこを探してもあるはずの場所に公園がないのだ。見たことがあるような無いような場所を必死になって探し回るのだが、ついに公園を見つけることが出来ない。
 途方に暮れて結城が向かったのは、自宅ではなく、何故か実家だった。そこで結城を待っていたのは、妹の隣で腕に抱いた赤ん坊をあやしている賀川だった。
『あ、お兄ちゃん』
 その声とともに、ハッと目が覚めた。
 妹の声がまだはっきりと耳の中に残っている。全力疾走した後みたいな、激しい胸の鼓動を聞きながら、結城は暗闇にじっと目を凝らし、震える声で笑った。
(はは…………バカみたいな夢……)
 たまらなくなって、部屋の灯りを点け、放り出してあった小さな端末に駆け寄り、震える手で電源を入れる。
 着信履歴が並んでいた。全て賀川からのものだった。伝言も幾つかあるようだったけれど、何が吹き込まれているのかと思うと怖くて聞くことが出来ない。
 だから代わりにあのメッセージを呼び出した。これまで何度も聴いた、愛しい男からのメッセージを、繰り返し繰り返し耳元で再生する。それが唯一、自分とこの世を繋ぐよすがであるかのように。
 そのうちに涙が溢れ出し、賀川…賀川、と何度も声に出して逢いたいひとの名前を呼ぶ。
(イヤだ、オレのそばにいて。ほかのひとの所になんか行かないで、……お願いだから……!)
 ぼろぼろと零れる涙を拭いもせずに、すがるみたいにその声に耳を傾けていると、突然玄関のチャイムが鳴った。
 ビクンッと身体が跳ねて、身体を強張らせる。携帯の時計を見ると午前一時を回っていた。そのまま固まっていると、もう一度チャイムが鳴らされて、結城は怯えた目で玄関のドアを見つめる。尚も結城が動けずにいると、今度はチャイムではなく、コン、コン、とノックがされた。穏やかで静かな叩き方はまるで、中にいる結城を怖がらせないようにしているみたいだ。
 そう考えてハッとすると、結城は震える足で立ち上がり、足音を立てないようにそろそろと玄関へと近づいた。
『結城、いるんだろ』
 その時、思いがけない声がドアの向こうから聞こえてきて、結城は弾かれたようにドアへ飛びつき、焦って震える手でもどかしく鍵を外すとドアを開いた。
 目の前に立っていたのは逢いたくて仕方がなかった男だ。驚き過ぎて言葉を失くす結城に、賀川は小さく微笑んだ。
「やっと開けてくれた」
 その途端、またぼろぼろっと涙が零れ落ち、ううッと結城の喉が苦しげに鳴った。
「ごめん! かがわ……、ごめん……!!」
 名古屋から東京まで。
 こんな時間に来させてしまった。無理をさせてしまった。
 自分があんな態度を取ったから。怖がって電話を取らなかったから――。
 あまりの自己嫌悪に結城が打ち震えていると、賀川は大きな身体をドアの隙間から滑り込ませ、しっかりと結城の身体を抱き締めてくれた。結城の泣き声がいっそうひどくなると、賀川は黙って結城を抱え、慣れた足取りで寝室へと向かう。
 バサリとベッドの上に仰向けに倒されて、大きな身体にのしかかられた。
 怒っているのだろう、と思った。当然だ。何をされたって文句は言わない。怖いけれど、賀川がすることなら全部受け止めたいと思った。
 けれど賀川の手が結城を傷つけることはなかった。確かに手つきは荒々しく、行為は激しかったけれど、それはむしろ混乱して泣く結城に、何も考えさせないようにするためだったようにも思う。
 熱い肌を合わせ、身体中に口づけられて、十分にぬかるんだそこへ、熱く濡れた生々しい賀川の牡をねじ込まれた瞬間、結城はそれまでとは違った泣き声をあげた。
 優しく、そして次第に激しく揺さぶられ、泣きじゃくりながら分厚い胸にしがみつくと、すぐに逞しい腕が結城をまるごと包んでくれる。
「かがわっ、かがわ……、ごめんなさい、……ごめん、……ごめん……!!」
 涙で濡れそぼった顔を肩にこすりつけながら、うわ言のように繰り返すと、賀川は小さく笑って結城の耳たぶに口づけながら、甘い声でひと言、ばーか、と言った。
 今までにないほど激しく絡み合い、上がった息がようやく整ったあとも、賀川はしばらく結城を腕のなかに抱いて、頬に、目蓋に、唇に、何度も優しいキスを落としてくれた。
  身も心も過ぎるほどに慰撫されて、結城はただただ幸せな余韻に浸りながら、温かい腕の中でしばしまどろんだ。
 それから賀川は、夕方、賀川と一緒にいたのは妹だと説明してくれた。彼女が好きなバンドのライブが名古屋であるため、金曜から泊まりに来ていたのだと。あの時、ほんの直前まで賀川と妹が賀川の携帯で母親と話していたので、結城からの電話が鳴った時、また母親からかと思ってよく確かめもせずに、妹が兄の携帯を取ってしまったらしい。
 結城からの電話が切れたあと、何度かけても繋がらないことにひどく焦っていたら、妹が変に思って、誰なのかと訊いてきたそうだ。
「恋人だって言ったよ」
 賀川の言葉に、ハッと目を見開く。
「とても大切なひとだって」
「あ……、……、…そ、…それ……」
 結城がひどく身体を強張らせていると、賀川はそっと結城の涙の跡を拭った。
「まだ全部は話してない。おまえの気持ちもあるしな。それに、ここへ駆けつけることの方が先だった。泣いてるおまえを抱き締めに行かなきゃならなかったんだ」
 穏やかな声で言って、賀川は結城の目を覗き込んだ。
 恋人だと言ってくれた嬉しさ、結城への配慮に対する感謝、そして改めて無理をさせてしまったことへの申し訳なさに結城が複雑な目で見返すと、賀川は全て解っているという風に頷いて、また目を潤ませた結城をすっぽりと腕の中に包み込んだ。
「結城……」
「……ん」
「腹減った」
 結城は思わず噴き出し、震えるほどの安堵に包まれながら、また一粒、ぽろりと涙を零した。
 
 
 シャワーを浴びて、キッチンで賀川のために夜食を作っていると、浴室から出て来た賀川が、背中から結城を抱き締めた。
「あーー、癒される……」
 心の底から滲み出たようなその声を聞いて、胸の奥から熱いものがこみ上げた。
 震えて俯いた結城を振り向かせ、賀川が正面からまた強く抱き締めてくれる。優しく頭を撫でてくれる。
(何を嘆く必要があるだろう。こんなに愛されて)
 賀川、と呼びかけた声は情けなく震えていた。けれどそれでも伝えたいと思った。
「ありがとう、賀川」
「うん」
「それと、……今までちゃんと言ってなかったけど、あのとき、図書館で再会したときも、メッセージをくれてほんとに嬉しかった。オレを諦めないでいてくれたことも」
 俯き、額を広い胸に当てる。
「……オレ、……勇気がなくて」
 優しい手が、結城の背中を優しく撫でた。
「俺が誘わなかったら、諦めてたのか」
 賀川が、静かに問う。
「そうかもしれない」
 揺らぐ視界の中、まっすぐに賀川を見上げた。
「――でもきっと、ずっと好きだ」
 賀川がふっと嬉しそうに笑った。それから結城を抱く腕に力をこめる。
「おまえを、寂しいじいさんにはしないよ」
 穏やかで揺るぎない声に、ギュウッと胸が締め付けられる。これ以上は望みようがない言葉だった。
 その言葉に報いたいと思った。
 だから、ここで迷いを断ち切ろう。訊くのはこれが最初で最後だ。
「賀川、オレは賀川に、絶対に幸せになって欲しいんだ。……オレは、それが出来るかな」
 賀川は黙って耳を傾けている。
「オレとでは結婚も出来ない。子供だって出来ない。ほんとうに……後悔、しないのか」
 うん、と言って欲しい。それ以外はイヤだ。
 だけど誰よりも大切な賀川の人生を、ほんの少しでも狂わせたくない、というのも結城の偽りのない心だった。 
 賀川は結城の頬を両手でそっと包み、それからまっすぐに結城の瞳を覗き込んだ。
「おまえがここで生きて、俺を待ってくれていることが、どんなに俺を支えてくれてるか判らないだろ。毎朝早起きして、ちゃんと朝ご飯を食べて、暑い日も寒い日もあの図書館に通って、綺麗な声で子供達に物語を聞かせる。本を大切に修繕して、日が暮れたら図書館を出て、商店街で買い物をして、魚を焼いて、味噌汁を作って、手を合わせて食べる。少しテレビを見て、風呂に入って、ソファや布団の中で本を読みながら、俺からのメッセージや電話を待つ。俺がそうであるように、おまえも俺からのメッセージを読んで、俺の声を聴いて、一日の無事に感謝するんだ」
 そうだろ、と優しくて大きな手が結城の髪を撫でる。結城は、ぽろぽろと温かい涙を零しながら、何度も何度も頷いた。
「一日でも早くおまえのそばに戻れるように、俺はかなり張り切ってるんだぜ」
 親指で涙を拭ってくれるその手を握って、結城は手首にキスをし、それから広い胸に抱きついた。
「ありがとう、大好きだ」


 それから二人で夜食を食べた。真夜中だけれど賀川が食べたいというので、結城は具だくさんの鍋を作った。
 うまいうまいと賀川が言うたびに、心がジンワリと温かくなる。本当にここは、さっきまでと同じ世界なのだろうか。ほんの数時間前までは、寂しくて、不安で、冷たい世界で怯えて泣いていたのに、今はただただ温かな幸福しかない。
 賀川がそばにいる、結城を見つめてくれている、それだけで世界は鮮やかに色を変えるのだ。


 穏やかな食事の時間を終えると、賀川にせがまれて、結城は顔を赤くしながら、賀川の脚の間にすっぽりとはまるみたいな形で座った。
 賀川は背もたれにしているソファの上から携帯を取り、カメラに切り替えると長い腕を伸ばして高くかざす。
「え、なに」
「満腹でご満悦のヒロシくんとシュンくん」
「やだよ」
 結城が笑って顔を隠すと、賀川も笑いながら結城の手を外し、素早くシャッターを切った。
「ほら、かわいい」
 見せられた写真は構図も何もめちゃくちゃだったけれど、結城は自分でも見たことがないほど、明るい顔で笑っていた。そのことに純粋に驚き、そして結城の後ろでこれまた一点の曇りもない笑顔を見せる賀川の顔を見て、なんだかとても胸が熱くなった。
「欲しいな、それ」
 少ししてから小さく呟くと、もう送った、と耳元で囁いて、賀川はそっと結城のこめかみにキスをした。
 それからしばらく温かい炬燵の中で寄り添いながら、静かな時を過ごした。頼もしい胸に横顔を埋め、優しくて大きな手に髪を撫でられながら、うっとりと目を閉じる。時折見上げると、優しい眼差しが必ず自分を見ていて、髪を撫でてくれる強くてがっしりした手に、白く細い指を絡ませると、賀川はその指を持ち上げて一本一本にキスをしてくれた。それが嬉しくて、結城は頬を上気させながら、また逞しい胸に顔を埋める。
 世界中どこを探したって、こんなに結城を安心させてくれる場所は他にない。
「寝るなよ」
「……寝ないよ」
 まどろむような声で言うと、広い胸が震えて、賀川が小さく笑ったのが判った。

         

 翌日は同じ布団の中で目覚め、朝から抱き合った。けれど昨夜のような激しさはなく、賀川は丁寧な愛撫と口づけで結城の官能を高めながら、宝物みたいに優しく抱いてくれた。
 外は真冬の冷たい風が吹いているのに、存分に愛されたあと賀川の腕の中でまどろんでいると、陽だまりの中にいるみたいだった。
「賀川」
「ん?」
 結城の髪にキスをしながら賀川が甘く返す。
 それが嬉しくて、気恥ずかしくて、結城はふふ、と笑いながら、見事に盛りあがった賀川の右肩にぐりぐりと額を押し付ける。
 賀川は一瞬息を呑み、それからギュウッと結城の小さな肩を抱き締めた。
「…こら、あんまり可愛いことするな。帰りたくなくなる」
 顔をあげると賀川は本当に困ったような顔で結城をじっと見ている。それにまた胸が熱くなって、珍しく素直な言葉が零れ落ちた。
「だって、しあわせなんだ、すごく」
 じわりと目の奥が熱くなって、賀川を見つめたまま微笑むと、賀川は愛しくてならないといった顔でしばらく結城を見つめ、それから、俺もだ、と囁いて深い口づけをくれた。
 

 昼ご飯を食べてから近所のパーキングまで賀川を見送った。賀川はまだ大丈夫だと言ったが、明るいうちに安全運転で帰って欲しかったし、明日に備えてゆっくり身体を休めてもらいたかったのだ。
「ほんとに気を付けて」
 運転席に乗り込んだ賀川に、結城はもう何度目か判らない言葉をかけた。
「判ってるよ。向こうに着いたらすぐ電話する」
 免許を持たない結城は、高速での長距離運転がとてつもなく大変なことに思えて、心配でならないのだ。
「そんな顔してると、出発できないぞ」
「うん」
 賀川は笑って、大きく開けた窓から腕を伸ばし、結城の冷たい頬を、指の背でスルと撫でた。
「風邪引くな」
「賀川も」
 頷いて賀川はエンジンをかけた。
「賀川」
「ん」
「来てくれて、ほんとに、ありがとう」
「うん」
「オレ、ここでちゃんと待ってるから。賀川が帰ってくるの、楽しみに待ってる」
 賀川は助手席に置いたカバンから、赤い石のついたストラップを取り出した。紐の先には、今住んでいる部屋のものと思われる鍵がついている。
「俺も早くここに、二人の家の鍵をつけられるように頑張るからな」
 初めて言葉を交わした日から、互いに大切に持ち続けているストラップ。そこに二人の家の鍵をつけるなんて、それってまるで……。
 結城が賀川を見つめると、賀川がさっと目を逸らした。
「あんま恥ずかしいこと言わせんな」
 早口に言うのがおかしくて、結城はウインドウ越しに賀川の唇にキスをした。
「ありがとう、峻」
 賀川は昼日中のキスと、初めて名前を呼ばれたことに、目を丸くして固まっている。
「この、…びっくり箱!」
 結城は声を立てて笑った。それは久しぶりの、心の底からの笑顔だった。
 賀川もそれが判ったのか、嬉しそうに笑い、じゃ、行くからな、と手をあげて車を発進させた。少し先の角を曲がる手前で一度だけ短くクラクションを鳴らすと、その姿は見えなくなった。
 結城はしばらくその角を見つめてから、ひとつ頷いて、歩き出した。
 またしばらく逢えないのは寂しいけれど、その先には二人で歩む未来がある。そう信じることが出来たから。
 賀川とともに生きるために、もっと強くなろう、と結城は思う。
 まだ始まったばかり。
 これから二人の長い日々が始まるのだ。
 

 アパートに戻ってすぐ、頼子からのメールが届いた。添付ファイルがあるので開いてみると、咲を抱っこした結城の写真だった。
 面映ゆげに、けれど意外にも柔らかく微笑んでいる。
『お兄ちゃん、なんだかとっても優しい顔になったね!』
 頼子からのメッセージに少し驚きながらも、嬉しくなった。だってそれは賀川がいてくれたから。賀川がくれる大きな愛に包まれて、自分はどんどん変わってゆくだろう。
 昨夜賀川が撮った写真を見つめる。賀川のそばで笑っている顔を見ると、もうすでに自分は変わり始めているのだと、確かに感じることが出来た。
(いつか、好きなひとがいると言おう)
 結城を抱き締めながら笑う賀川の頬に、そっと指先で触れながら、結城はちいさく微笑んで、アリガトウ、と囁いた。
 


おわり



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 第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける——— ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

陰キャ系腐男子はキラキラ王子様とイケメン幼馴染に溺愛されています!

はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。 まったり書いていきます。 2024.05.14 閲覧ありがとうございます。 午後4時に更新します。 よろしくお願いします。 栞、お気に入り嬉しいです。 いつもありがとうございます。 2024.05.29 閲覧ありがとうございます。 m(_ _)m 明日のおまけで完結します。 反応ありがとうございます。 とても嬉しいです。 明後日より新作が始まります。 良かったら覗いてみてください。 (^O^)

その溺愛は伝わりづらい!気弱なスパダリ御曹司にノンケの僕は落とされました

海野幻創
BL
人好きのする端正な顔立ちを持ち、文武両道でなんでも無難にこなせることのできた生田雅紀(いくたまさき)は、小さい頃から多くの友人に囲まれていた。 しかし他人との付き合いは広く浅くの最小限に留めるタイプで、女性とも身体だけの付き合いしかしてこなかった。 偶然出会った久世透(くぜとおる)は、嫉妬を覚えるほどのスタイルと美貌をもち、引け目を感じるほどの高学歴で、議員の孫であり大企業役員の息子だった。 御曹司であることにふさわしく、スマートに大金を使ってみせるところがありながら、生田の前では捨てられた子犬のようにおどおどして気弱な様子を見せ、そのギャップを生田は面白がっていたのだが……。 これまで他人と深くは関わってこなかったはずなのに、会うたびに違う一面を見せる久世は、いつしか生田にとって離れがたい存在となっていく。 【7/27完結しました。読んでいただいてありがとうございました。】 【続編も8/17完結しました。】 「その溺愛は行き場を彷徨う……気弱なスパダリ御曹司は政略結婚を回避したい」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/962473946/911896785 ↑この続編は、R18の過激描写がありますので、苦手な方はご注意ください。

隠れSubは大好きなDomに跪きたい

みー
BL
⚠️Dom/Subユニバース 一部オリジナル表現があります。 ハイランクDom×ハイランクSub

職業寵妃の薬膳茶

なか
BL
大国のむちゃぶりは小国には断れない。 俺は帝国に求められ、人質として輿入れすることになる。

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

林檎を並べても、

ロウバイ
BL
―――彼は思い出さない。 二人で過ごした日々を忘れてしまった攻めと、そんな彼の行く先を見守る受けです。 ソウが目を覚ますと、そこは消毒の香りが充満した病室だった。自分の記憶を辿ろうとして、はたり。その手がかりとなる記憶がまったくないことに気付く。そんな時、林檎を片手にカーテンを引いてとある人物が入ってきた。 彼―――トキと名乗るその黒髪の男は、ソウが事故で記憶喪失になったことと、自身がソウの親友であると告げるが…。

手切れ金

のらねことすていぬ
BL
貧乏貴族の息子、ジゼルはある日恋人であるアルバートに振られてしまう。手切れ金を渡されて完全に捨てられたと思っていたが、なぜかアルバートは彼のもとを再び訪れてきて……。 貴族×貧乏貴族

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