明け方に愛される月

行原荒野

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【本編】明け方に愛される月

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 土曜日、午後八時半。芳崎は、日中の明るい時に見ると、白とレモンイエローの配色がとても可愛らしいそのアパートの二階を見上げた。暖かなオレンジ色の灯りが灯っているのを見てホッと息をつく。
 外階段を静かに上がり、チャイムを鳴らすと彼はほとんど芳崎を待たせることなくその扉を開いてくれる。
「どうも。こんばんは」
 明るくおどけた調子で芳崎が言うと、風呂上りなのか髪をアップにした彼は、瑞々しい首筋を惜しげもなく晒しながら小さく俯く。
「……ばんは」
 芳崎はクスリと笑うと慣れた仕草で玄関の中に入り、扉を閉める。この頃は芳崎が来ると判っている時は、すでに芳崎専用となっているスリッパを並べて置いておいてくれる。
 そっけなく室内に入ってゆく佳人の細いうなじは噛みつきたいほど色っぽいが、夜はこれからだ。芳崎は大人しく部屋に入り、これもまた定位置となったリビングのソファの左側に腰掛けた。
「あの…、お腹、空いてる?」
 相変わらず芳崎を見ないまま佳人が訊く。
「なにかある? いい匂いしてるね」
 佳人は頷くと、キッチンで鍋に火をかけた。
 芳崎はテレビを見るフリをしながら、鍋の前に立って真剣に中身をかき回している佳人の横顔を盗み見た。顎が小さくて首がほっそりと長い。
 細筆ですっと長い線を引いたような優美な眉は、いつも痛ましげに顰められており、幅広の二重まぶたと長い睫の下で揺れる綺麗な瞳は、その唇よりもよほど雄弁に繊細な彼の心情を語る。
 小柄でコンパクトな身体はほどよく引き締まっていて、腕の中に抱くと非常に収まりがよく、いつも甘い匂いがした。
 端的に言えば、佳人の外見はほとんどパーフェクトといっていいほど芳崎の好みだった。だが性格はそれ以上に可愛い。
「なに作ったの」
 待ち切れなくてキッチンに入り、おたまを持った佳人の後ろから覆い被さるようにして鍋の中を覗き込む。
 顎を細い肩の上に乗せると、びくんと佳人の身体が小さく震えるのが判った。初心な反応がたまらなくて、そのまま押し倒したくなるがなんとか我慢する。
「……重い」
 微かに耳を紅くしてわざと憎まれ口をきく。
 それが彼の精一杯なのだ。にやける口許を隠して離れてやると、ほっとしたように肩の力を抜くのが判った。
 今夜佳人が振舞ってくれたビーフシチューはまろやかでコクがあり、ほろほろと崩れる肉と、野菜の甘みが絶妙だった。
「ほんと何作ってもハズさないよな、俺もう完全に胃袋掴まれたわ」
 きれいに平らげ、満悦な調子で褒めると、佳人はまた少し赤くなって、ばかじゃないの、とそっけなく言う。首筋を染めて俯くさまは、新妻もかくやという色っぽさだ。
「これ、お土産」
 芳崎はジャケットの内ポケットに入れていた小さな袋を佳人の手に乗せた。
「なに」
「ハンドクリーム。手荒れによく効くんだってさ」
 袋から滑り出たのは輸入物の丸い小さな缶に入ったクリームだ。
「これから忙しくなるんだろ。俺の大好きな手が荒れちゃったら悲しいからさ」
「いいよ、そんな」
 佳人は恐縮したように返そうとする。
「佳人のために買ったんだ。お前が受け取らなきゃ棄てるしかない」
 佳人は困ったように芳崎を見た。普段から施しの類を受け取りたがらない佳人にも、こういう言い方をすれば割と受け入れられることは短いつきあいの中で学んだ。
 案の定、佳人はおずおずとそれを受け取り、それから嬉しそうに小さくはにかんだ。アリガトウ、と大事そうに手の中に包み込む。
 いじらしい、という言葉は佳人のためにあるのではないかと思えるほど、その姿は可哀そうで可愛い。
 あの日再会したのは偶然だった。さすがに四年も経てば熱も冷めるだろうと思っていた。
 けれどあの台風の日、駅の構内で佳人を見かけた時、自分でも戸惑うほど狂おしい想いに捕われた。
 最後に会った時からあまりにも変わらない、静かでもの悲しい瞳に胸を衝かれ、今度こそ放っておきたくはないと強く思った。
 けれども強引に触れれば逃げてゆきそうな佳人に、どうやってアプローチすればいいのか迷った。
 このアパートまで送った時、思い切って佳人の勤め先へ食べに行きたいと言ってみたら、佳人は困った顔をしてそれを拒んだ。
 ああ、やっぱり無理か、そう思って落胆していたら、逆にすがるような口調で食事に誘われた。
 ひどく驚いたが、千載一遇のチャンスだと思い、芳崎は押してみることにしたのだ。
 以来、人見知りの彼が見せる表情はどれもひどく新鮮で愛らしく、物慣れない態度に出逢うたびに心を掴まれた。
 そして一度彼の熱を知ってしまえば、もう後戻りなど出来ないほどに嵌ってしまった自分がいた。
「佳人」
 ソファに移動し、細い手首を掴むと佳人はビクンと身体を震わせ、うろたえたように俯いた。
 細い顎をすくうようにして顔をあげさせると朱に染まった頬と、潤んだ目に出逢う。
(ったく、たまんねえな……)
 右手首を掴んだまま、もう片方の腕でぐっと腰を引き寄せると、その小さな唇から切なげな溜め息が零れた。
 言葉もないままに深く唇を重ね合わせる。相変わらずその瞬間は仔犬のように身を震わせる佳人だったが、少しずつ芳崎の侵食を許してくれているようだった。
 佳人が慣れるまでと思い、まだ最後までは抱いていない。だがそろそろ芳崎も限界だった。日ごとに佳人を奪いたい気持ちが募ってゆく。そう思って余裕のない目を向けると、佳人はかすかに怯えたような目をした。
(参ったな)
 芳崎は苦く笑い、こみ上げる衝動を抑えながら胸深くに抱きしめる。
 佳人の気持ちは多分もう、自分へと傾いている。けれど弟の代わりだと言って自分から始めたこの関係を、彼が後ろめたく感じていることも判っていた。
 芳崎からもう一歩踏み込めば、二人の関係は変わるのかもしれない。そう思うのに、常ならず臆している自分がいる。
 熱を分け合うこの行為を佳人が躊躇いながらも受け入れているのは、単に人肌を知った心地よさからかもしれない。孤独な彼が誰かのぬくもりを欲するのは至極当然なことだ。それがたまたま傍にいた自分であっただけだとも考えられる。
 だから芳崎も自分の本心を告げることが出来ずにいた。強引に事を進めて逃げられたりでもしたら悔やんでも悔やみきれない。
 大切すぎて本気で手を出せないなんて初めてのことだった。
 手と唇で佳人を存分に愛したあと、芳崎はくたりと身を預ける佳人を腕に抱きながら、まだ少し湿った甘い香りのする髪をゆっくりと梳いていた。
 佳人は何も言わなかったが、そうされるのが殊更に気に入っているようで、うっとりしたように目を閉じている。
「……あの図書館、懐かしいな」
 珍しく佳人からそんなことを言い出した。
「そうだな」
「家に帰りたくなくて、バイトない日はいっつもあそこで時間潰してた」
 何かを語りたい気分なのだろう。芳崎は気を削がないようにゆっくりと髪を撫で続けた。
「俺は、引き取られたから、いつも遠慮してた。でも、それは叔父さんたちも一緒で、俺がいるときは弟をあまり可愛がらないようにしてた」
「……」
「可哀そうなことしたって、思ってる」
「それで家を出たのか」
「そう、だね。……それだけじゃ、ないけど」
 歯切れの悪い様子に目で問うと、佳人は一瞬眉を顰めてぎゅっと目を閉じた。何か彼の痛い所を突いてしまったらしく、その痛々しい様子に芳崎も眉を顰める。
「弟は、…誠は優しくて思いやりがあって、誰にでも愛される。俺のせいで甘える機会が減ったのに、俺にもすごく優しくて。……残念だったね。あいつがゲイなら芳崎さんにもチャンスがあったのに」
 こちらの胸を冷やすようなことを言って、けれどそんな言葉とは裏腹に、その手はどこかすがるみたいに芳崎の腕を掴んでいる。
 それがたまらなくて芳崎は強張ったままの頬にチュッと派手な音を立ててキスをした。
「なっ」
「お前だってなかなか可愛いぜ」
「そんな、俺なんか比較にもならない。あいつは、誰より素直で心が綺麗で、俺なんかほんとに……」
 かすんでゆく言葉尻に、佳人の傷の根深さを知る。
「なあ、今夜、泊まってっていいか」
 芳崎が静かに訊くと、佳人は無言で首を横に振った。どんなに熱を交わしても、佳人は決して芳崎を泊めようとはしなかった。まるで頑なに一線を引くかのような態度に芳崎も顔を曇らせる。
 だがそれはきっと孤独な日々を過ごしてきた佳人なりのルールなのだろう。ならばそれが自然に解かれるまで芳崎は待つしかないのだ。
「じゃ、今度の水曜、お祝いしてくれ」
「水曜?」
「俺の誕生日」
 おどけたように言うと、佳人は目を丸くした。
「ボク、二十七歳になるの」
 甘えるように佳人の肩に頭を置くと、佳人は小さく噴き出した。
「お誕生日会って歳じゃないでしょ」
「だって佳人くんのケーキが食べたいんだもん。食べたいんだもん!」
 尚も悪のりして額をぐりぐりと佳人の肩にこすりつけると、もう! と笑いながら怒って見せる。
 その顔が可愛くて、愛おしくて、何度でも笑わせたいと思う。この日々を大切に慈しみたいと願う。
 分かったからッ、と芳崎の頭を押し返す佳人は、渋々といった顔をしながらも、当日は心尽くしの料理を用意してくれるのに違いない。
 不器用だけれど誰よりも澄んだ真心を持った佳人を、芳崎は無条件に信頼している。
「楽しみにしてるからな」
 強引さを装いながら、細い背中を後ろからしっかりと抱きしめると、強引さに流されるふりをした佳人もまた、あの可愛い声でちいさく、ばか、と言った。
 
          

「お先に失礼します」
 残った職員たちに挨拶する女性教員の声が聞こえて、ふと顔をあげると、職員室の窓の外はすでに薄闇が降り始めていた。
 強張る肩をほぐし、外の空気を吸いに出ると、頬を撫でる風は冬の気配を孕んでいた。夕焼けの名残を残す遠い空を見つめながら芳崎は小さく息をつく。
 グラウンドの方からは、この時間になっても部活動に励む生徒達の声が聞こえていた。
 自分が在籍していた頃とほとんど変わらない光景だ。
 そして佳人もここで三年間を過ごしたのだと思うと、ひどく感慨深い。
 教室棟と職員棟をつなぐ渡り廊下をやって来たのは先輩教師の加藤かとうだった。芳崎よりも三つほど年長の、物腰の柔らかい男だ。
「お疲れさまです。期末の準備ですか」
「はい。加藤先生は生徒会ですか」
「ええ、会誌の編集に手間取ってしまって」
 そのまま加藤も立ち止まって、グラウンドの方に目を遣る。 
「今、芳崎先生を見ていて思い出したのですが、同じようにここでいつも外を見ていた生徒がいましてね。聡明でしたが複雑な家庭にいたせいで、色んなことを諦めてしまったような生徒でした」
「……もしかして、原田佳人、ですか」
 加藤は目を丸くして小さく息を呑む。
「原田を、ご存知なんですか」
「ええ、最近知り合いまして」
「そうですか……」
 加藤が佳人の担任だったことは知っていた。佳人がどんな生徒だったのか、訊いてみたいとは思っていたが、切り出すタイミングを見つけられず今日まで来ていた。
「元気ですか、彼は」
「はい」
「良かった……」
 溜め息混じりで感慨深げに加藤が言う。何か特別な想いがあるように思えて、芳崎は興味を惹かれた。
「彼は私がこの学校で初めて担任をしたクラスの生徒でした。静かで、無口な生徒で、彼がクラスメイトの誰かと親しげに話しているのを、一度も見たことがありませんでした」
「……一度も?」
 衝撃を受けて思わず訊き返す。
 加藤はどこかが痛むような顔をして頷いた。
「私が担任をしたのは三年生の時でしたが、私が知る限り、彼に仲のいい級友はいなかったと思います。いつも独りで昼食を食べ、休み時間もひっそりと本を読んでいるような生徒でした。もちろん話しかければちゃんと答えるのですが、それ以上の会話には発展しない。私もさりげなくフォローしたり、級友の中にもごく僅かですが彼に声を掛けたりする者もいたようですが、彼自身が独りでいたがっているのが判って、そのうちそっとしておくのが彼への対応、という風に定着していったのです。イジメがある訳でもなし、問題を起こす訳でもなし、それが彼の望みならと私も彼をそっとしておくことに決めたのです」
「……」
「彼は修学旅行にも来なかった。自分が行くと周りが気を遣うからと言って。ひどく悲しい理由でしたが、そんなことはない、と言うことは出来ませんでした。何より彼自身、窮屈な思いを味わうことが判っていたから、無理に強いることも出来なかったのです」
「そんな…、それは随分、寂しいことですね」
 佳人の高校時代が想像を遥かに超えた孤独なものであったことに再び衝撃を受け、喉奥が重く詰まる。
「せめて進路だけは寄り添って考えたいと思っていたのですが、十分な学力があるにも拘らず、彼はとにかくすぐにでも家を出て働きたいのだと言って、大学への進学を頑として拒みました。家の人への遠慮があるならと奨学制度についても説明しましたが、やりたいことは決まっている、だから進学はしないとはっきり言われまして、義理のご両親にも翻意させることは難しかったようです」
 何が彼をそこまで頑なにしたのだろう。取りつく島もないほど徹底した佳人の拒絶ぶりには歪なものさえ感じる。
「何も出来ないことへの虚しさに打ちのめされながら卒業の日を迎えました。卒業証書を持って誰とも話さず、早くから帰り支度を始めていた彼を見つけて、せめて何か声をかけようと近づくと、思いがけず彼の方から挨拶に来てくれたのです」
 お世話になりました。どこか清々しくも思える表情に加藤は胸を衝かれたという。そしてその後に続いた言葉には、本当に胸を塞がれたと。
「彼は、一度だけ先生と一緒に弁当を食べたのがいい思い出だと言いました。彼が自分で作った弁当を見て、私が綺麗で美味そうだと言ったことをよく憶えていて、それで料理に興味を持つようになったのだと。そんな私自身が忘れていたようなことを、本当に大切そうに話すのです。私は、ああ、しまった、と心の底から思いました。間違えたんだと。彼は決して芯から冷めていた訳じゃない。そのことに最後の最後になってやっと気が付いたんです。例え彼の中で決められたルールや設計図があったのだとしても、もっと幾らでもかけてやれる言葉があったはずなんです。あと一歩踏み込めば、もしかしたら彼の心の声を聞くことが出来たかもしれないのに。……悔やんでも悔やみきれませんでした。本当に苦い後悔となって、今でも私の中に残っています」
 喋り疲れたのか、加藤は僅かに肩を落として寂しそうに笑った。
 決して芯から冷めている訳じゃない。
 そうだ、自分はそのことをよく知っている。あの寂しげな眼差しが、誰よりも温もりと絆を欲しているということを。
 自分がその時ここにいたら、決して独りにはしなかったのに、と芳崎は強く思った。
 同時にそんな彼がいま、自分のテリトリーに芳崎の侵入を許している事が、どれほど貴重で意味のあることなのかに改めて気づく。
(俺だけは絶対に離れない。独りにはさせない)
 そう想いを新たにする。だが多分それだけではダメなのだ。佳人自身が欲しがらないと、本当の意味では救われない。
 だから自分はそれを待つ。
 焦らず、しっかりと傍にいるのだ。



 約束の水曜日。思いがけず仕事が長引いてしまい、芳崎は佳人のアパートの前にタクシーで乗りつけると、釣り銭も受け取らずに車から飛び降りた。
 連絡は入れたのだが二時間の遅刻じゃ機嫌を損ねられても仕方がない。何しろ今日のことは芳崎からお願いしたことなのだ。佳人はきっと仕事をあがってから無理をして準備をしてくれたに違いない。
 逸る気持ちで二階への階段を駆け上る。時刻は午後九時少し前。呼び鈴を鳴らすが返答がない。ドアノブに手をかけると鍵はかかっておらず、芳崎は静かに玄関へと身を滑らせた。
「佳人?」
 返事はない。小さくお邪魔します、と断ってからキッチンへと入ると、テーブルの上には所狭しと料理が並べられている。
 その中心には丸い生クリームのケーキが置かれていて、表面には先日の駄々っ子おねだりへの意趣返しなのか、「えいじくん 27さい おたんじょうびおめでとう」という文字がチョコレートソースで書かれていた。
 小さく噴き出して、佳人の姿を探す。
 と、リビングのソファの向こうにぺしゃと座り込み、両手を床につきながらゆらゆらと揺れている佳人の姿があった。
 まるで生まれたての小鹿のような不思議な体勢で眠っているのに驚いてそっと傍に寄ると、眠いのを懸命に堪えている様子で目蓋をぴくぴくさせている。
 床について体重を支える、猫のように握られた拳には白い粉がついていて、彼の奮闘ぶりが窺えた。あまりにも愛らしい姿に芳崎はあぐらをかいてしばし見惚れる。
 アップにした髪からの後れ毛が、柔らかいカーブを描いて肩先で揺れるのを、ひどく切ない気持ちで見つめた。
「佳人」
 細い二の腕を掴んで、そっと引き寄せる。
「おいで」
 囁くように言うと、佳人は寝ぼけたまま大きな芳崎の身体によじ登るようにして、素直に広い胸に身を預けた。
 猫のように軽くてコンパクトな身体は、すっぽりと芳崎の腕の中に収まってしまう。
 起きている時には決して見られないような甘い仕草で頼られて、胸の奥には軽い痛みさえ感じた。
 無意識にきゅっと芳崎のシャツの胸元を掴む手を包んで、よりしっかりと抱き締めながら白い額に優しいキスを落とす。
「……ったく、誰がお前より可愛いって?」
 髪をほどき、撫でてやると、ぅ…ん、と小さくうなって芳崎の胸に横顔を埋め、そのまままた安堵し切った様子で眠ってしまう。
 芳崎は苦笑し、料理はもう少しお預けのままで、ケーキよりも甘い体温を味わうことにした。


 その週の日曜日。芳崎は誕生日に遅くまで待たせたお詫びとして、佳人を映画に誘った。主にミニシアター系の名画をかける映画館でサスペンスとロードムービーの二本立てを観てから近くのカフェに入り、映画について語り合った。
 普段あまり口数の多くない佳人も好きな映画のこととなると、饒舌になる。芳崎の反応を確かめながら自論を展開する佳人のはにかんだ顔が可愛くて、芳崎は丁寧に相槌を打ちながら心の中ではヤニ下がっていた。
「あれ、芳崎か?」
 ふいに背後から声をかけられて振り向くと、パッと目を引く派手な顔立ちの男が、笑みを浮かべながらやってくるのが見えた。
 キャメルのロングコートに、ブラウンのパンツ、赤いニットマフラーという目にも鮮やかなコーディネートを嫌味なく着こなしている。
 「伊達男」という言葉が、これほど似合う男もいない。マズイ相手に会ったと芳崎は軽く顔をしかめた。
「なになに、デート? 可愛い子連れてるね」
 男が佳人の顔を覗き込むようにして笑った。
「よせ、この子はそういうんじゃない」
 牽制の意味を込めて言ったのだが、佳人が小さく息を呑んだ気がした。誤解させた気がして慌てて言葉を繋ごうとするうちに、彼は強引に二人の間に割り込んだ。
「こんちは、俺、廣瀬ひろせしゅうっていうの。芳崎君の大学時代からのお友達」
「気持ち悪い言い方すんな」
「えー、じゃあなんて言うの。元カレ?」
「ふざっ、お前! 佳人が誤解するだろ!」
 芳崎が廣瀬の頭をはたく。そんな芳崎を驚いたように佳人は見つめた。
「お前がからかっていいような子じゃないんだよ」
 ごめんな、冗談だから、と打って変わって優しい声で佳人に言う。すると佳人はなんだか居たたまれない様子で俯いてしまった。
「きみは? 名前なんて言うの」
「あ、俺は、」
 佳人がすがるように芳崎を見た。
「彼は蓮見佳人君。俺の高校の後輩だ」
「へえ、大学生?」
「社会人だ。有名料亭の板前さんだよ」
「へえ、そりゃ凄いな。どこのお店? 今度接待に使わせて貰おうかな。あ、俺ね、商社の営業やってんの」
 そう言って強引に佳人に名刺を渡す。芳崎は溜め息をつきながら、仕方なく佳人の働く料亭の名前を教えてやった。だがそれ以上の情報はやらないと強引に話題を変える。
 廣瀬と佳人を接触させたくなくて、自然と話は廣瀬と共通のものになり、佳人のことが気になったが、話の巧い廣瀬に乗せられて喋っているうちに、佳人が静かに席を立った。
「あの、俺、先に帰るから」
「待てよ、俺も行く」
「いいから、…久しぶりに会ったんでしょ。俺も明日早いから、帰って休む。今日はありがとう」
 佳人は廣瀬にも小さく頭を下げると紙幣を一枚テーブルに置いて店を出て行った。
「あー、行っちゃった。誤解したんじゃないの? お前がちゃんと紹介しないから邪魔だと思ったんだろ」
「邪魔なのはお前だ。手出すなよ」
「ふうん? 必死だね。珍しいことで」
 芳崎は腹立ち紛れに廣瀬から煙草を一本奪って火をつけた。
「でもなんかアレだね、ちょっと屈折した感じだね、彼」
 廣瀬は自分も煙草に火をつけて何やら思案気に煙を吐く。軽薄なようだがこの男が案外人の心の機微に敏いことを芳崎は知っている。
「……複雑な環境で育ったからな」
 溜め息をつく芳崎を、廣瀬は少し真面目な顔で見て煙草の灰を叩いた。
「自分が誰かに愛されるとは思ってない。そんな顔だったな」
 芳崎は驚いて廣瀬をまじまじと見る。
「俺はお前と違って男しかダメだからさ、これでも若い頃は結構悩んだワケ。自分は誰かを愛しちゃいけないし、愛されることもない、ってね。ま、今は色んなステキな出逢いによって完全にフッ切れたけど」 
「お前はふっ切れ過ぎだろ」
 フフ、と廣瀬が笑う。
「要は基礎体力の差なんだよ。つまり愛されていることを確信して育った子供と、それを疑いながら生きてきた子供とじゃ、その後に同じことが起こっても全然違う方向へ行ってしまうのさ」
 突然の講釈に訝しげな目を向けると、廣瀬は煙草を灰皿に置き、両肘をついて手を重ね合わせると、芳崎を意味ありげな目で見た。
「特に後者なんかはびっくりするような角度をつけて、凄い所まで行っちまったりする。前者は人に心を向けることが出来るが、後者は常に自分に目を向ける。自省が行き過ぎると良くない被害妄想に陥る。自分は疎まれている、人の負担になっている。それくらいなら独りでいた方がいい、ってな」
 廣瀬の思いがけず的を射た言葉は、少なからず芳崎の心を重くした。
 本当に傷ついているのは佳人なのに、佳人はそれを認めようとはしない。初めから諦めて何も望もうとはしない。それが痛ましくて、目が離せないのだ。
「でもいいね、ああいう子は奪って、思いっきり甘やかしたくなるよ」
「お前……!」
「気をつけなよ。じゃないとさらっちまうぜ」
 廣瀬は挑発的な笑みを浮かべ、睨む芳崎に向かって、華麗なウインクを飛ばして見せた。

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