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第七章 新たなる道

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「はい、とても綺麗にお支度できましたよ」

「ありがとうございます」

「今日は空が綺麗に晴れていてよかったですね、こんな日は海も青くて、最高の思い出になりますよ」

「本当に、凄く綺麗ですね」

窓の外には美しい海と空が輝いていた。
私はヘアメイクの人が部屋を出てからもそれをずっと眺めていた。


私がこの世界に巻き戻されたあの運命の日から、いつの間にか二年近くが経過していた。

それは、あっという間のようであり、果てしなく長くも感じた。抗えない運命を前に今もまだ完全に気持ちの整理がついたわけではない。

だけど今、ひとつだけここにきた頃と変わったことがあるとしたなら、今、この世界にある優しさも、困難も、迷いも葛藤も、私にとって既に偽物ではなくなった事だ。

ーーー私は今、確かにこの世界に絆されている

だからこそ、私の生きたあの世界も、幻ではあり得ない大切な場所だったことを思い知る。

だけどここに至るまで、不安定な私の心身はやはり一気に回復とはいかなくて、一進一退を長い時間をかけて繰り返してきた。

忘れてしまえば、もっと楽に生きられるのかもしれない、そう思い苦しんだ時期もあった。

そしてひとつの事に思い至った。
神はそんな苦難から人を救う為に【忘却】という御業を駆使して、その手を差し伸べてくれているのかもしれない。

だけど、私は、その手を取らないと決めた。
それでも、いつか少しずつ神の意思に染まる日が訪れるかもしれない。

だけど、私は、自らの意思をもってそれに最期まで抗い続けると決めたのだ。

あらゆる柵から解放されることよりも、大切な事がある。

---日向、あなたと過ごした日々を守りたい

共に見つめた海辺の町の季節の移ろいを……
握りしめてくれた手の暖かさを……
君が私にくれたたくさんの愛の言葉を………

幸せは、常に、不安や苦しみと隣合わせだった私たちの日常の至るところに存在した。

---ごめんね、日向、一緒に行けなくて

だけどね、私は約束する。
ママは、ずっと、ずっと日向の事を忘れない、日向の笑った顔を、ずっと宝物のように大切にするよ。

目には見えずとも私を蝕むに私は負けたりはしない。

だけど、ごめんね、日向。
こうして、あなたの存在しない別の世界で、別の人生を進む私をどうか許してほしい。

ここに至るまでにどうしたって気付いた事がある。
日向がくれた数えきれない喜怒哀楽のさざ波がたとえ時を越えていようとも、今の私を形作っている。

そう自覚するほどに、求めずにはいられなくなる想いがある。

私はきっと、知りすぎてしまったのだ。


ーーー人がどんなにか愛しいものかということを


一人では生きていけない私をどうか許して。


海を望むチャペルの控え室から空を見上げた私はいつの間にか一筋の涙を流していた。
だけど青い空の太陽は燦々と光輝き、このチャペルの一室に優しく暖かい光のシャワーを届けてくれる。


---あぁ、世界とはなんと無常で、優しいものなのか


その時、控室のドアがコンコンコンと三度鳴らされた。

「陽愛さん、準備はできましたか?」

「はっ、き、桐谷くん!?ご、ごめん、ちょっと待って…」

ドアを突然開けられた私は戸惑った。
涙の跡をそっと拭い、気付かれないように振り返って笑顔を作る。

「すみません、どうしても一番最初に見たくって……」

そう言って微笑む桐谷くんははっとしたように私を見て固まった。上手く笑えているか内心ドキッとする。

それと同時に、白銀のタキシードに身を包んだ桐谷くんは予想以上に素敵な新郎だと見惚れてしまう。

整えられた髪に、男性的で精悍な顔。
漆黒の瞳に少しだけ垂れた目尻の雰囲気は優しくてそれが一層彼を大きな器に見せている。

そしてなんと言っても鍛え上げている長身は物語に出てくる騎士さながらに均整がとれている。

そんな威風堂々という言葉がぴったりの桐谷くんはと言えば、私を見たまま一言もなく固まっていた。
いや、これは立ち尽くしたまま震えている?

「………す、凄く、綺麗です」

赤くなった顔で唐突にそう言われた私は居心地悪く目を逸らした。

(あっ、そういう反応だったのね……)

正直、桐谷くんの隣では地味な自分など、きっと霞んでしまうだろうと思っていた。
あまり誉められることに慣れていない私を桐谷くんはいつもこうやって甘やかす。

「そ、そうかな?ヘアメイクの人凄く腕がいいんだよ、ははっ…」

「す、すみません、俺、言葉足らずで、こんな時はあれっすよね?」

そう言って桐谷くんは困ったように頬を掻きながら笑った。

「もっとこう、気の利いた事を言うべき場面なんでしょうけど、俺、自分の語彙力不足が今、生涯で一番もどかしいです、いっそ小学生に戻ってこの日に備えてもっと国語を勉強してこいと殴ってやりたいレベルです………」

その言葉にまさかと思いながらも、私は慌てる。

(ちょ、ちょっと待ってよ、こ、言霊って知ってる?)

そんなこと安易に言わないで欲しい。
本当に巻き戻ってしまったら、絶対に収集がつかない自信があるから。

そしての私はこの世界の誰にともなく「い、今のは無しでお願いします!」と声に出さずに必死の思いで懇願するしかない。

「も、もう、いいよ、そんなの改めて言われたら、私も恥ずかしいし………」

「陽愛先輩………」

「……な、なに?」

こんな時にも先輩呼びで、敬語が抜けきらない桐谷くんに苦笑する。

「本当は、こんな時って、やっぱり、格好良く俺が幸せにしますって言わなきゃいけないんでしょうけど……」

「けど、なんだよ?」

いつにないその間に、少しだけ不安になった私に、桐谷くんはそっと抱きついて耳元で囁いた。

「ヤバイっす、……、めっちゃ幸せです!もう、ほんと死んでもいいレベルで幸せです!これ夢だったら俺もう生きていけません…」

その言葉に再びギョッとする。

「もう、だからさっきから滅多な事ばかり言わない!!」

(すみません、これもどうか無かったことでお願いします!)

洒落にならないフラグを何度も立てながらも、この日、私達は夫婦として新たに歩み始めた。

『病めるときも、健やかなるときも、互いを愛し、敬い、共に歩むことを誓いますか?』


ーーーー誓います


そうしてキスをして、指輪を嵌め合う。


桐谷くんと築き上げた様々な記憶が蘇る。

(あぁ、いつの間にこんなにも思い出は増えていたのだろう…)

あの後、まるで何かに取り憑かれたのではと周囲が案じるほどの、ゾーン状態に突入した桐谷くんは、見事満場一致でドッグラン付き賃貸住宅の企画を自らの手で勝ち取ったのだ。

そしてご褒美をくれとばかりにねだる桐谷くんの勢いに押され、私達は完成してすぐにその犬のコーポで暮らし始めた。

そして桐谷くんの提案通り、一匹の犬を家族として迎え入れたのだった。

ペットショップでの出来事を思い返すと今でも苦笑する。

「見て、この子、可愛いね」と、ケージから一匹の小型犬を出してもらって抱っこしていたら桐谷君が言った。

「犬種は全面的に陽愛先輩に任せます、だけど、ひとつだけ、俺も希望言っていいっすか?」

「な、なんだよ?」

「俺、結構心狭いんで、オスはムカつくかもしれないんで、メスでいいっすか?」

「い、いいけど…?」

「すんませーん、店員さん、この中でメスってどれとどれですか?」

「あっ、はい、女の子ですね、この子とこの子と」

「陽愛先輩、さぁ、このなかから選んでください」

「あっ、うん、そうか…」

「クィーン」

最初に抱いていた男の子は私を見つめたまま店員さんの腕に戻っていったのだ。

「……なんか、ごめんね」

そうして迎えた、コーギー犬の葉月ちゃんと桐谷くんと私とで新生活が始まった。
桐谷くんの傍はやはりとても居心地が良かった。

それぞれに愛犬を連れたコーポの皆さんともすぐに仲良くなって、まだ籍も入れてないのに早々に「奥さん」なんて言われたりして、瞬く間に交流の和は広がった。

「もうっ、はやく結婚すればいいのに」
「はは、俺はそうしたいんすけどね」
「きっと二人の子供なら孫ができたみたいに可愛いわ、楽しみねぇ」
「そうっすかねぇ、でもやっぱり出産、育児ってどうしても女の人に負担かかるじゃないですか」
「ふふっ、心配性ね、あなた達ならきっと大丈夫よ!」
「マジっすか?」
「あたし達も出来るところは協力するわよ」
「あざっす!」

なんて、周囲に暖かく見守られながら過ごしたコーポでの生活。きっと桐谷くんは私の精神状態を考えて、マリッジブルーで苦しむことがないよう、少しずつ慣らしながら気持ちが安定するのを待ってくれていたのだと思う。

桐谷くんから、四六時中伝わってくる「好き」「嬉しい」「抱きたい」という感情が居心地が悪いようでいてやっぱり嬉しくて、自分ではどうにもならない運命に抗い続けて疲れきっていた私の拠り所となっていった。

そうして、数ヵ月後、初めて二人で訪れた登山で一泊した私達。
その翌朝の日の出を見上げながら、「あぁ、幸せだな」と感無量だった時に指輪と共にプロポーズされた。

最初はプロポーズだとは気づいてなくて、いつも通り何気なく聞き始めた彼の言葉。
山頂で白い息を吐きながら呟かれたその言葉は最初どこか私を不安にさせた。

「陽愛先輩、今、俺、こうして隣にいてもらえることが凄い幸せで、でも幸せだから時々すごく怖くなります……」

「桐谷くん……」

今だ不安定な自分が桐谷くんをこうして暗い気持ちにさせているのかと不甲斐ない気持ちになった。
眉を寄せる私に桐谷くんは違うのだ、と言いたげに首を横に振って私の手をとった。

それはとても優しい手だと私は知っている。
何度も私を絶望の淵から拾い上げ、好意を隠しもせず抱き締めて、励ますように寄り添い道を指し示してくれた温かくて大きな手。

今も、桐谷くんの言葉を声をたくさん覚えている。


《…俺の子だっていってください!ねぇ、陽愛さん?》

《行かないでください、お願いだから、俺は忠犬ハチ公じゃねえんだよ!!》

どんな時も、私を庇って、私を守って、新たな場所に導いて、心に空いてしまった穴を優しさで埋めてくれた。

それを思い出しながら真剣に紡がれる彼の言葉の真意に少し怯える。

「近付くほど思い知るんです、陽愛先輩のその心にあるのは、きっとまだまだ俺だけじゃない、当たり前のことなのに勝手に不安になってひとり焦ってどこか拗ねてる自分が情けなくて……」

「違うよ桐谷くんのせいじゃない、それは私が………」

そう言いかけて、顔が歪む。
桐谷くんがくれる愛情に、私は同じだけのものは返せている自信がないから。
これは、やはりそんな不完全な自分との別れ話なのだろうかと不安で泣きたくなった瞬間、桐谷くんが再び口を開いた。

「でも、その度にどうしたって気付くんです……」

そう言って桐谷くんは私を見つめた。
複雑な色を帯びた綺麗な瞳が次の瞬間凪いだよう細めたられた。

「それでも、俺、そんな陽愛先輩が、堪らなく愛しいんです……」

「桐谷くん……」

「あぁ、悔しいなって思うのに、俺の為に変わって欲しいなんて気持ちはこれっぽっちもなくて、ただ……」

「ただ……?」

「ずっと、傍にいたいと思うんです、誰よりも」

「桐谷くん…」

「その気持ちは俺のなかでは譲れない絶対で、例え子供みたいに地団駄を踏んでも俺はこの場所にずっといたい……」

「…………」

「これから先、陽愛先輩の一番近くにいるのは絶対自分でありたいって」

「桐谷くん………」

泣いてしまうのではないかと思う表情で大きな胸に頭を抱き寄せられた。
寒さと込み上げそうになる熱とでツンする鼻が桐谷くんのウェアに擦れて小さく痛む。
清涼とした寒気のなかで、重なる二つの白い息。

「だから、陽愛先輩、もうそろそろこんな堪え性のない俺を許してくれませんか?」

「………」

「…責任とって、俺と結婚してください」

その瞬間、目頭が熱くなった。

「桐谷くん……」

「今年も、来年も、この先ずっと、俺とこうして新年を祝ってください。俺達を出会わせてくれた過去と、二人で過ごせる今に、毎年感謝しながら、陽愛先輩の隣で、こうして歳を重ねていきたい」

今にも泣き出しそうな顔で桐谷くんは私を見ていた。

「ね、いいでしょう?いいっすよね、陽愛先輩」

そう言って抱き締められた腕の中で私は確かに何度も頷いた。この時、先に泣いたのはきっと私だ。

「……うん、ずっと傍にいて、どこにもいっちゃダメだよ」

「…うっす」


そうして迎えた、結婚式。

親族、友人、職場の皆さん、そしてコーポの皆さんにも暖かく見守られながらの神聖な儀式。

花嫁になるのを飛ばして、半ば失踪して母親になった別世界の私からしても初めての経験だった。

きっと桐谷くんの人徳なのだろう。
訪れた人たちは皆、優しい人ばかりで、暖かいメッセージを惜しみ無く投げ掛けてくれる。

両親のいない私をエスコートしてくれたのは、入社以来、時には父親のように私を見守ってくれた職場の部長で、私を桐谷くんに引き渡す時に、何度も何度も頷きながら「桐谷、ほんとうに頼むぞ、陽愛くんを頼んだぞぉぉぉ!!」と大袈裟に泣いてくれた姿に、私たちの経緯を僅かに知る職場の人々も苦笑したり、貰い泣きしたりしていた。

きっと、この世界でも随分多くの人に心配をかけた。
そして、救われてきたのだと思い知る。

二度目にして知る真実というものも確かにあるのだということを実感して、一度目の経験で全てを悟ったつもりになって生きてきた自分を申し訳なく思いながらも、自嘲するしかない。


---人生なんて、普通は一度なんだから



その後、異例の長い休暇を取得した桐谷くんと私は、犬の葉月ちゃんを連れて車で沢山の避暑地を巡りながら約半月の長い旅をした。

ペット可で探した宿は、ほとんどが貸しきりのコテージのような宿泊先で、静かな夜をいくつも過ごした。

「俺、絶対いつかこうしようって決めてました」

「え……」

「誰にも邪魔されない旅を陽愛さんとしたいって……」

それが私たちの新婚旅行だった。

そして数ヵ月が経過した。
覚えのある体調不良で私はすぐにその意味を知った。
きっと旅先の夜で授かったと思われる小さな命が私達の元に訪れたのだ。

「まじっすか?陽愛さん、まじっすか?」

「ちょ、桐谷くん、気が早いよ」

「ここに、俺の子が……、本当に?」

「桐谷くん……」

「嬉しいっす、信じられないくらい……、陽愛先輩……」

「ん?」

「何て言っていいか分からないけど、有り難うございます」

「うん、こちらこそ……」

「大事にしてください、俺も大事にしますから」

「うん、もういい加減、先輩呼びも、苗字呼びもやめないとだね……」

「あっ、確かに…」

「じゃあ、練習して…」

「ひ、陽愛、…さん」

そうして私を恐る恐るそう言って私を抱き締めた桐谷くんは突然発狂したように立ち上がった。

「な、なんか、俺、なんか色々無理っす、嬉しくて無理っす、ちょっと走ってきます!!!」

「うん、……呼び捨てでいいのに、こんなとこだけ意気地なしだね、あなたのパパは」

そう言ってお腹を撫でた日から時を満たした命は、父親である桐谷くんに手を握って見守られながらこの世に産み落とされた。

看護師さんに大切に抱かれた小さな小さな命は、保育器ではなく直接私達の元に運ばれ、まるで宝物を授けるようにこの腕に委ねられた。

「桐谷さん、よく頑張りましたね、とても元気な男の子ですよ、可愛いですね」

「ありがとうございます……」

それは桐谷くんによく似た漆黒の瞳の元気な男の子だった。
宙を眺めているのか、私を眺めているのか分からない無垢な視線。
何も知らないのになにかを懸命に掴もうとする壊れそうなほどの小さな指。

「すっげぇ、こんな小さいのに指がちゃんと5本ある、……俺の子、本当に連れて帰って大丈夫ですかね?ちゃんと壊さず育てられますかね?俺」

「馬鹿ね、連れて帰らないでどうするんだよ?パパ」

そう言った瞬間、彼の背筋がピンと延びた。

「そうですよね、そうです、俺が頑張らなきゃ、守らなきゃですよね、安心してください!二人とも俺が絶対守ってみせますから!!!」

そう言った瞬間、桐谷くんの瞳に涙を見た。
いつの間にか、私の頬にも涙が流れていた。

涙が溢れて止まらなかった。
五月晴れの青い空に太陽が眩しいくらいに輝いていた。
まるでこの世の全てがこの子の誕生を祝福してくれているようなそんな錯覚すら覚える曇りのない空、新緑に輝く世界が美しくて、嬉しくて、愛しくて、そしてとても切なかった。

私たちは、その子を《太陽》と名付けた。

日々は慌ただしくも幸せで、夫が触ることも躊躇うほどの小さく細い体は、三ヶ月になる頃には、ふっくらを通り越し丸々として、よく笑うようになった。
やがて這い、立ち上がったかと思えば、そう日も経たないのに歩き出す。

やがて、はっきりとした自我を持ち、喜怒哀楽を露にして、個性を爆発させる。

愛しい息子の一挙手一投足に、私と同じ目線で、一喜一憂しながら子育てに励む夫を微笑ましく見つめる毎日。
きっとこれを幸せと呼ぶのだろう。

歓喜する夫と息子の姿を見守りながら、動画撮影をせがまれる。
二つのシルエットを写し出しながら、時々どうしても感じるのだ。
空間の自浄作用とでも言うべきあがらえない力を。

その一方で、私は失った世界を今でも覚えている。
懸命に、記憶に留めようとしている。

忘れられないのではなく、忘れたくないのだと……
そこには、愛も、痛みも、苦しみも混在した私の忘れてはいけない大切な人がいるから。

だけど、今の生活で立て続けに直面する問題や困難を解決しながら、いくつもの選択を迫られる毎日に、もうひとつの世界はやがて現実味を失っていく。
それを止める術を私は知らない。
ただ、折に触れて思い出し、語りかける、それ以外の方法が私には分からないのだ。

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