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第六章 繋がり始める世界
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そうして年が明けてしばらく経った頃、もうひとつの世界では目にする事が叶わなかった光景を私は複雑な思いで見つめていた。
音田さん渾身の作品である犬の美容院が見事完成したのだ。
公園の遊歩道沿いにある落ち着いた空間にある小さなドックランや休憩所もそなえた洋風建築だ。
「おめでとうございます」
音田さん始め社の数名が参加させてもらったオープンセレモニーには寒い季節にも関わらず、近所の人やオーナーさんの知人、親戚、施工関係者など多くの多くの人達が集まっていた。
「お陰さまでいいお店を作ってもらえて本当に嬉しいわ、これからもっと腕を磨いて頑張らなきゃ!まずは目指せ一千切りよ!!」
そう言ってガッツポーズで張り切る奥さんに、困ったようにそれを嗜める長身の優しそうな旦那様。
「おいおい、勘弁してくれよ、君はいつだって表現が物騒なんだから、そんなんじゃお客さんも逃げてしまうよ」
「ほっほっほっ、お嬢さん、君がデザインしてくれたのかい、ありがとうねぇ……」
音田さんに向かってそう微笑むお爺さんはきっと、旦那さんか奥さんのお父さんだろう。
オーナーさん夫婦やそのご両親の言葉に照れたように恐縮する音田さんを、桐谷くんと目を細めながら眺める。
「そんな、こちらこそいい経験をさせてもらって感謝しています、私こそ可愛いワンちゃん沢山見れて今日は嬉しいですし……」
「犬、好きなの?」
「おっ、大きい犬はちょっと苦手というか、怖いんですけど……」
「ははっ、音田の奴、完全にテンパってますね」
そんな会話を遠目に見守りながら苦笑する桐谷くんに私は頷いた。
「ふふっ、そうだね、だって、始めてだもの、それでも本当に素敵に出来上がったね、凄いよ音田さんは」
才能の固まりのような年若い彼女がとても眩しかった。
「そうっすね、だから、俺も負けてられないです」
「ははっ、そっか、これから二人はいいライバルになるかもね」
「まぁ、負ける気はないですけど」
「もう、意外と大人げないなぁ!桐谷先輩は!!我が者のエースのくせに、余裕持ちなさいよ!」
「ははっ、そういって持ち上げたふりして子供扱いするのいい加減やめてくださいよ」
オープニングは始終、茶目っ気あるオーナーさん夫婦や関係者の嬉しそうな笑顔で溢れていた。
近所の愛犬家の皆さんも噂を聞き付けて沢山集まっていた。
「繁盛しそうだね」
「俺も、そんな予感がします」
「うん」
そんな他愛もない会話をしていたときだった。
どこからともなく、一匹の灰色の犬が駆け寄ってきたのだ。
「はっはっ………」
「えっ……」
「なんだ、お前?どっからきた??」
顔の殆どが延び放題の毛で覆われたお爺さんのような犬だった。
そしてベンチで座る私の膝に鼻がくっつくくらい近づいて突然お座りをして私を見つめている。
(あっ、この犬………)
その瞬間、私はハッとした。
少しイメージは違ったが、私はその犬種に見に覚えがあったからだ。
そしてもうひとつの世界での日向との会話が甦ったのだ。
あれは療養先の病院での会話だった。
「日向はどんなワンちゃんが好きなの?飼えないけど……」
あの日、日向は 私がリクエストに応えて書店で買ってきたばかりの動物図鑑を見つめていた。
「僕は、ううんとね、僕はね、そうだ!灰色のおじいちゃんの犬が好き!!」
その答えに私は間抜けな声を漏らした。
「灰色の、おじいちゃん?」
戸惑い顔の私に、日向は明るい瞳を輝かせて説明してくれた。
「うん!時々、病院の下をお婆さんと散歩しているお爺さんみたいな犬だよ!?ママは見たことない??よく通ってるんだけどな……」
「そ、そう………」
病院帰りは、いつだって先生の言葉を反芻しながら、日向の今後の病状のことで頭が一杯だった。あの頃、私はいつだって周りなど見えてはいなかったのかもしれない。
だけど日向はそんな私とは違った。
辛い闘病生活のなかでも、嬉しいこと、綺麗なもの、素敵なことを見つけるのを諦めない子供だった。
そんな会話をした数日後、日向の入院する病院からの帰り道、私はお婆さんと散歩しているグレーの紳士犬を発見した。
そして、その後、その犬の犬種を知ったのだ。
---シュナウザー、そう確かミニチュアシュナウザーだ!
なぜその犬が好きなのか聞いてみると、日向は寂しそうに笑い「だって、お婆さんの隣がとても似合うから」とだけ答えた。
今にして思えば、日向はある意味憧れてはいたのかもしれない。
あぁして、お爺さんになるまで、誰かと仲良く寄り添って歩いていける人生を………
日向は、目の前の奇跡を見つけるのが得意だった。
だけど、ずっと先の話をすることはなかったから。
「クゥン………」
すり寄って来た犬に手を伸ばした私を、桐谷くんが心配したように案じて立ち上がろうとする。
「陽愛先輩……」
「大丈夫……」
私はそれを笑顔で制した。
「クゥンクゥンクゥン………、ハッハッハッ……」
尻尾を振る犬を見て私は目を細めた。
その様子を見て桐谷くんも安心したのだろう。
「か、噛まないっすよね、こいつ……」
「大丈夫だよ、こんなに人に懐いてるから」
そう言って、その犬の頭を私が撫で始めた時だった。
「桐谷先輩!!ちょっと来てくださあい!!」
音田さんの焦ったような声が突然聞こえて、私たちは振り返った。
「どうした!?」
そう問いかける桐谷くんに音田さんは助けを求めるように声をあげる。
「オーナーさんの関係者から今、色々話を聞かれてるんですけど、私にはよく分からないことも多くって、一緒にお話きいてもらえないでしょうか?」
「はっ?一緒にってお前なぁ……」
「お、お願いします!」
泣きそうな顔で懇願するスーツ姿の小さな彼女が可愛くて思わず笑いが込み上げる。
「行ってあげなよ」
「うっ、まじっすか?仕方ないな、じゃあ、ちょっと待って、あっ、そう言えば名刺あったかな俺……」
そう言って少し緩めていたネクタイを正す桐谷くん。
「じゃあ、俺行ってきますんで、少し待っててくださいね」
「はいはい、ごゆっくり」
そう言って名刺ケースを片手に去っていく桐谷くんの背中から、膝のところで鼻息をたてながら待機している犬に目を落とす。
「さあて、君は一体どこからきたのかな?」
そう問いかけられて、不思議そうに私を見つめて首を傾げる犬に向かって私は自嘲した。
「なんてね、こんな私が言うのも烏滸がましいよね……」
そう呟いて私はキョロキョロと周囲を見渡した。
すると遠目に年配の少しふくよかな女性が酷く慌てた様子で駆け寄って来る姿が見えた。
「はぁ、もう、いけないわ、信介さん………」
七十代と思われるご婦人が息を切らしながら近づいてきて、恨めしそうにそう言った。
そして私の服装と周辺の状況を見て決まりが悪そうな表情になった。
「あらあら、まぁまぁごめんなさいねぇ、お嬢さんたら素敵な格好してるのに……、駄目でしょう信介さん、さっき草むらを掻き分けたそんな足で!!」
そのご婦人の申し訳なさそうな顔と、飄々とした犬の姿を見た時、私はふと思い当たるものがあった。
(この人達………、もしかしたら………)
あの日、もうひとつの世界の病院帰りに見たお婆ちゃんと紳士犬?
そんな事があるはずはないと思いながらも私は戸惑っていた。
(ここは東京、あの海辺の町とは距離が離れすぎている………)
それでも、そうだとしか思えなかった。
「あっ、いえ、全然大丈夫ですよ?かわいいわんちゃんですね、たしかシュナウザーですよね?お名前、伸介くんっていうんですか?」
私は極力動揺を悟られないように話しかけた。
すると女性は少しだけ緊張の解れた様子で教えてくれた。
「えぇ、そうなのよ、この子の名前は伸介さん、亡くなった主人からとってるんですけどね………」
その言葉に私は固まった。
「ご主人のお名前から?」
「えぇ、そうなのよ、優しい主人だったのだけれど、先に逝ってしまってね……」
「そう、ですか………」
そこで、お婆さんの話に耳を傾けながら過ごした私は、自分の思い過ごしではなく、お婆さんと伸介さんがあの日のペアだと確信するしかなかった。
(こんな偶然があるなんて……)
数年前、ご主人を亡くした彼女は、息子さん夫婦から犬をプレゼントされたのだという。
最近まで、旦那さんとの思い出の家で、旦那さんの名前を付けた犬とパート勤めを続けながら暮らしていた彼女は、来月、息子さんが医師として赴任している田舎に犬の伸介さんと共に引っ越す予定だというのだ。
「知らない土地に……、不安はないですか?」
そう問いかけた私に彼女は皺を刻んだ顔で穏やかに微笑んだ。
「そうね、不安がないといったら嘘になるけれど、足りないものをその時々で埋めようとしていくのが人生なのかしらとこの頃は思うのよ」
「足りないもの…」
「昔の私には主人が、今の私には、息子夫婦と孫達と、一番近くにはこの信介さんがいてくれるから……」
そう言った彼女は遠くをみつめるように小さく笑った。
「この子はね、本当は亡くなった主人から私へのプレゼントなんですって、亡くなる前に、主人が息子に頼んでくれていたようなの………」
その光景とご主人の気持ちが垣間見えて目頭が熱くなった。
「そうですか、素敵なご主人ですね………」
「えぇ、一時は主人と死別する恐怖に毎日、それはもう震えていたの」
その言葉に私は静かに頷いた。
「一人になるくらいなら長生きなんてしなくていい、いっそ早く私にもお迎えがきてくれないかしらってね、でも、今度はこの子を残すことが不安で申し訳なくてね、そうしたら息子夫婦が近くに住まないかって、そうすれば私がもしこの先、散歩が出来なくなったとしても、自分や孫がいるから二人とも安心だろうし、その方が親父もそこでしんみりされているより喜ぶだろうって……」
女性から聞いたその言葉に私は小さく微笑んだ。
一つのエピソードに沢山の愛が詰まった素敵な話だと思った。
きっとご主人は、自分が亡くなったあとの奥さんの笑顔を守り続けたかったのだろう。
そして、それは叶ったのだと思いたい。
私はあの日見た、今より少し年を隔てた二人の後ろ姿を思い浮かべた。
「きっと、まだまだ、沢山素敵な時間が過ごせますね、犬の伸介さんや、息子さんやお孫さん達と一緒に………」
そう言うと女性は少し考えるように黙った後に微笑んだ。
「うふふっ、そうね、そうだといいわね、ね、伸介さん?」
---大丈夫ですよ、きっとそうなります
あの片田舎の海辺の町で、病院から見える海浜公園の散歩道を、ゆっくりと流れる時間に身を任せて寄り添いながら、朝に夕に様々な色に代わり続ける空の下で、静かに少しずつ年を重ねて、素敵な町の日常を作り出す。
---そこに、あの日の私と日向がいなくても
それはきっと変わりないのだ。
「クゥゥン……」
ペロリと私の手の甲をまるで気遣うように舐めてくれる信介さん。
とても優しい犬なのだと、私は目を細めた。
あの世界では、まるで町の風景のようにすれ違うなかで、こうして触れ合う機会すら訪れなかった私達。
だけど、今、まるで案じるように潤んだ瞳で私を慰めてくれる伸介さんと朗らかな女性の笑顔に私は不思議な気持ちになった。
そんな奇跡のような出会いに、自分のなかの頑なな何かが少しだけ綻んでいくのを感じた。
フサフサした灰色の頭にそっと触れて、「ありがとう」と言うと、信介さんは嬉しそうにハッハッと尻尾を振ってもっと撫でてくれとばかりに目を細めて頭を下げる。
本当に人懐っこい犬だ。
きっと大切に育てられているから、人が大好きなんだね。
「あらあら、甘えん坊さんねぇ、そんなボサボサの頭押し付けて……」
女性はそう言って苦笑した。
その時私は、ハッと一つの事を思い出して、鞄の中から一枚の紙を取り出した。
「あのっ、これ、もしよかったら……、ここ犬の美容院なので……」
そう言って一枚の紙を差し出すと、女性は何かしらとそのチケットを受け取り、あらっとこちらを見上げた。
「実は、私の勤め先がこの犬の美容室の設計と施工に関わっていた関係で、オーナーさんからお礼と宣伝を兼ねていただいた無料チケットなんです。私、残念ながらワンちゃんの知り合いはいないので、よかったら信介さんに」
そう言ったら、女性は目を瞬かせた。
「あら、いいのかしら、初対面の私たちに?何だかとても申し訳ないわ……」
そう言って躊躇う女性に私は首を横に振った。
「どうせ、使うあてがなかったので、貰ってくれたらむしろ嬉しいです、オーナーさんご夫婦もはりきってましたよ?最初の頃にカットしたわんちゃん達には、許可が貰えたら看板や見本表のモデルも是非お願いしたいなんて言われてましたよ!」
そう言って微笑む私に、女性も今度は心底嬉しそうに微笑み返してくれた。
「まぁ、モデルなんて私たちには無理よ、でも正直すごく有り難いわ、この子ったら成長と共にどんどん毛むくじゃらになっていくのに、私ったら、歩いていける犬の美容室を知らなくて………」
「バウっ!」
「実はね、ここがいつオープンするのかずっと気になって見てはいたの。だけど建物があんまりにも素敵過ぎるでしょう?だから、私みたいなお婆さんと伸介さんには少し敷居が高い気がしてね、ほら、この子もブラシはかけるのだけれど、毛が長くなりすぎて、すぐにこんな風になってしまうから、なのに伸介さんは草丈がある草むらが大好きで……」
困り顔のおばあさんの視線の先は伸介さんの腹部だった。
そこには、草むらの雑草からいただいただろう沢山のお土産がついている。
「あはっ、本当、たくさんもらっちゃってますね?でも、全然年齢なんて気にしなくても、犬の美容室ですから、それに、伸介さんはこのままでも、凄く可愛いですけどね、じゃあ、調度いいから、私、オーナーさんに予約聞いてきます、希望の日ありますか?」
「あらあら、そんな事まで、ありがとう、本当に優しいお嬢さんだこと……、良かったわね信介さん」
オーナーさんご夫婦に事情を話すと、オーナーさんはとても嬉しそうにお婆さんと伸介さんのところに駆け寄って行った。
何やら話に花が咲いているようでおばあさんもとても嬉しそうに笑いながら話をしている。
そして、無事に予約がとれたらしいお婆さんは、帰りがけに私に歩み寄ってくれた。
「ありがとうね、お嬢さん。私と伸介さんは、もうじきこの場所を離れるけれど仲良くなった愛犬家の知り合いには、凄く感じのいいオーナーさんだったと紹介しておくわ、さぁ、行きましょう伸介さん、お嬢さん、本当にありがとうね、またいつかご縁があるといいわね」
そう言って頭を下げながらにこやかに去っていく女性と犬の信介さん。
その背中を私は手を振って見送った。
(ご縁か………)
---さようなら、もうひとつの世界のお婆さんと伸介さんも、どうかお変わりなくお幸せに
「……陽愛先輩、犬好きだったんですね?なんか意外でした」
突然背後から桐谷くんにそう声をかけられた。
「えっ、何で、好きだよ?」
目を瞬かせる私に、桐谷くんは少し苦笑するように口を開いた。
それは若干意地悪な口調でもあった。
「………てっきり、先輩は猫派かと思ってましたから」
「えっ?猫も好きだけど……」
きょとんとする私に、桐谷くんは呆れたように笑う。
「ははっ、浮気ものですね?」
「なんだよそれ、言ってる意味が分からないよ!!」
馬鹿にされた私は、桐谷くんを睨み付けた。
だけど、突然押し黙った桐谷くんは、少しの間を置いて私の名前を口にした。
「陽愛先輩」
どこか真剣な口調に、私は座って見つめていた芝生から目線を桐谷くんに向けた。
いつの間にか、西日が差し込む時間帯、辺りにはいつの間にか誰もいなくなっていた。
「な、なあに?」
桐谷くんは私に一歩詰め寄って少し重々しい様子で口を開いた。
「さっき俺、オーナーさんのご両親と話してたんですけどね、あっ、その人達は感じのいいほんと一見普通の老夫婦なんす、だけど、実はこの辺の土地を沢山持ってる地主出身の資産家みたいなんです」
「う、うん……?」
桐谷くんの言わんとする事がよく分からなくて内心首を傾げながらも頷く。
「その夫婦が、自分達の老後の棲み家と、節税対策も兼ねてここから直ぐの今は駐車場にしている所有地に、ドッグランもあるペット可のコーポを建ててみようか、なんて話を初めて、最初は冗談かと思って、いいっすねなんて軽く話を会わせてたんですけど、それが結構本気そうなんですよね?」
その話に私は目を瞬かせた。
「そ、そうなんだ!?ペット可のドッグラン付きなんて、なかなか賃貸じゃないよね?発想が新しいかも!でも、管理は大変そうだね、防音面も…」
「そこはまぁ、おいおい考えます…」
「でも、いいと思う!」
私は、完成図を想像して、その話に食いついた。
「でしょ?でもまぁ、子供夫婦の犬の美容室の常連さん増やせたらっていう、長い目で見た親心もあるんでしょうけど、まぁ価値観はそれぞれってことで…」
「そ、そうなの?お金持ちって考える事が違うよね!?」
「ははっ、ほんと、それっすね!犬と通えるデイサービスなんかもあればいいのにって笑ってましたよ!」
「デイサービス?犬の??」
「いや、そこは人のっしょ?そこに犬を連れて行くみたいな」
驚く私に頷きながら、桐谷くんは続けた。
「まぁ、それはまだまだ思い付きの冗談なんでしょうけど、コーポの方は結構本気みたいで、イメージに合うものを作るなら、いくつかの会社に声をかけて、企画書や見積もりをしっかり見て決めるといいですよって話をしたら、是非うちも参加してほしいって………」
その話に私は目を瞬かせた。
「凄いじゃない!!」
それはまた凄いビジネスチャンスを掴んできたものだと、私は目を輝かせた。
きっと、桐谷くんの話しやすさに、音田さんのデザインが功を奏したのだ。
この犬の美容室と雰囲気を合わせて、音田さんが担当するのもひとつかもしれないと私は算段しながら、間取りオタクとしてもワクワクしてくる。
だけど、桐谷くんはここで意外な事を口にしたのだ。
「それで、もし本格的に話が進んだら、次は俺も名乗りを挙げようと思って……」
その言葉に私は、目を見開いた。
「えっ?コーポってあんまり、桐谷くんがデザインするイメージがないんだけど……」
桐谷くんのイメージは、少し自由性の高いオリジナリティが求められる分野が多かった。
商業施設だとしても、美容室、カフェ、児童館、歯科などが得意分野なのだ。
「……ですよね、昔から、ちょっと予算ありきで、画一的な事を求められるのが苦手で、無意識に避けてきた部分があって」
その言葉に私は頷いた。
「そっか……、なら、今回はどうして?」
話の経緯から考えると、きっと、今までの桐谷くんなら、音田さんを誉めて、新たな挑戦のステージとして譲っている案件だと思うのだ。
桐谷くんも、実は結構犬が好きで、拘りがあるのかなと思ったとき、桐谷くんは、頭を掻きながら、少し照れたように話始めた。
「でも、変な話、さっき陽愛先輩がベンチで楽しそうに知らない人と笑いながら犬を撫でてるシーン見てたら、なんていうかこう、俺のなかでインスピレーションがぶわっと溢れるみたいな、不思議な感覚が溢れて、こうなんか作ってみたいっていう欲求みたいなのがでてきて……」
その言葉に私は顔を上げた。
「インスピレーション?私で??」
(さっきまでのやり取りのどこにそんな要素があっただろうか?)
「いいじゃないですか、湧いたものは湧いたんですよ!」
そう言って、少しぶっきらぼうに言葉を濁す桐谷くん。
だけど、少し拗ねたその顔を見て、私はだんだんウキウキしてきた。
(桐谷くんの、犬のコーポか………)
今の時代、わんちゃんだけ、ねこちゃんだけが家族という人も珍しくなくなった。
これからは益々そういった人が増えてくるだろう。
既に多様化した時代のなかで、従来のコミュニティの概念から抜け出して、価値観の合う人たちと過ごす日常も選択できる優しい時代になるといいなと、そんな考えを色んな事情を抱えるお客様と触れ合う内に以前から漠然と考えてきた。
日向との暮らしのなかでも、今にして思えば随分多くの人に支えてもらったと思う。
居酒屋のお客さん、商店街の人達、病院関係者、保育園の先生達やお母さん達。
日向と二人で生きてきたようで、二人だけではやってこれなかったことが沢山あった。
「うん、そっか……、いいと思うよ?犬のコーポ、うん、楽しみだね!」
そう言って私は微笑んだ。
「そうですか?そうですよね??」
その言葉に激しく反応する桐谷くん。
「うん、楽しみだね」
そう言って完成に思いを馳せる私を桐谷くんは、その後も複雑な表情で見つめている。
「どしたの?」
何かを訴えかけるような瞳に違和感を感じてそう言うと、桐谷くんが再び切り出した。
「ねぇ、陽愛先輩……」
「うん?」
先程にはなかった神妙な顔をしている桐谷くんに私も真剣な顔をして目を会わせる。
「もし、もしですよ?俺のデザインが採用されたら……」
「うん」
「それで、そのデザインを陽愛先輩も気に入ってくれたら……」
「うん、ん?」
その瞬間、桐谷くんの顔がやけに余裕がなくなって、何かを言い淀んでいる。
こんな彼は珍しい。
それに気付いた私が首を傾げると、桐谷くんはベンチに座る私の両肩に正面から大きな手をおいた。
そこから熱が伝わる。
「ひっ、陽愛先輩!」
そして私と視線の高さを合わせた桐谷くんは焦ったように早口で告げた。
「そ、そしたら、お、俺と犬でも飼って、そのコーポで一緒に暮らしませんか!?」
「え………?」
意味が分からず驚愕して目を見開く私に、桐谷くんは更に焦ったように早口で捲し立てる。
「あっ、犬種は問いません、陽愛先輩の好きな犬でいいですから!あっ、だけど、世話はもちろん俺が責任持ってちゃんとしますし、陽愛先輩は気が向いた時だけ、散歩に付き合ってくれたら、俺、もうそれだけで……」
その言葉の意味が飲み込めなくて私は固まった。
「え……、桐谷くん、それって………」
(たぶん、別々に部屋を借りて犬をシェアしようって、そういう意味ではないよね?)
困惑を隠せないでいる私を見て、桐谷くんは覚悟を決めたように言葉を繋いだ。
「もう、さすがに分かってると思いますけど、むしろ、分かっててくれないと結構ショックなんすけど、俺、ずっと、ずっと、陽愛先輩が好きでした!!」
その言葉に私は目を見開いた。
「近くにいれるようになって、もっともっと、もっと好きになりました!」
「桐谷くん………」
その真剣な表情には確かな既視感があった。
「もう、たとえ好みじゃないなんて振られても、諦められる気すらしないんです!!」
切なくなるほど真剣な漆黒の瞳に囚われる。
「だから、結婚を前提にして、俺と付き合ってください!!!」
「き、桐谷くん……」
「大事にします、約束します!だから!!お願いします!!!」
まるで懇願するように真剣な瞳を向けられた私は戸惑った。
(結婚………、私が、桐谷くんと、この世界で?そんなことは、果たして許されるのだろうか?)
桐谷くんは、黙ったままの私が困っていると思ったのだろう。
俯いたままの私に焦ったように言い直した。
「わ、分かってます、いきなり結婚を前提なんて重いですよね?でもそれが今の俺の偽らざる願望なんです。陽愛先輩に交際を申し込むのに、いい加減な立場で向き合いたくないんです!!」
一生懸命に涌き出る気持ちを、自分なりの言葉に変えて伝えてくれる桐谷くん。
あの時もそうだったなと、自分の中にある何かが込み上げてくる。
すると、益々焦ったように、桐谷くんは続ける。
「も、もちろん結婚前提が無理なら、普通の恋人でも、いや、それでも厚かましいなら、初めは友達からでもいいですから、俺との事、少しずつでもプライベートな事として考えてみてもらえませんか??」
(違う、違うよ、桐谷くん…………)
「桐谷くん……」
一生懸命に私の心に寄り添おうとしてくれている優しさに胸が苦しくなる。
だけど、この苦しさは、今までの苦しさとは明らかに違う。
「俺、陽愛先輩の事、傷付けるような事は絶対にしませんから!」
---分かってる
「俺、ちゃんと待てが出来る犬ですから!!陽愛先輩が気持ちの整理がつくまで、待てと言ってくれたら、いつまででも、ちゃんと待てますから!!」
---うん、知ってる、知ってるよ、桐谷くん
待っててくれたんだよね、ずっと……
もしかしたら、時も、世界も越えて、私を待っていてくれたのかもしれない。
ちょっと堪えられなくなってきて俯いた。
「ずるいよ、桐谷くん………」
あの時と、同じ顔で、こんな事を言うなんて……
「陽愛先輩……?」
少しだけ、ここにきて分かったことがある。
きっと、あの世界で、最後の一瞬、私は躊躇ったんだ。
この真っ直ぐな優しい人を最後まで裏切って、あの世界を去る自分が悲しかった。
許せないと思った。
だけど、今、その記憶を持ちながら、この世界の桐谷くんに向き合うことは、許されるのだろうか?
そんな事は分からない。
だけど、桐谷くんは待ってくれていた。
もう十分過ぎるほどに、ずっと私を待ってくれていたのだ。
そして、これからもずっと、私の傍に居続けてくれるのだと
そうしたいのだと心からの思いで、今、この場にいる私に伝えてくれる。
---だけど、私達には、果たしてこの先、同じ未来が訪れるのだろうか?
桐谷くんが望むような未来を私は私として作り出すことが出来るのだろうか?
私は、桐谷くんの瞳を見つめた。
桐谷くんもまた漆黒の瞳を見開いて、複雑な表情で私を見つめている。
その瞳には明らかな恐れと、僅かな期待が入り交じる。
その純粋な反応に、私は小さく唇を綻ばせた。
「…ほんとうに、友達でもいいの?」
試すように口にだした言葉は自分にしては酷く意地悪だと思う。
その言葉に桐谷くんはピクリと肩を震わせて固まった。
迷うように苦しそうに瞳を閉じて何やら思案する桐谷くん。
やがて、桐谷くんは、顔を歪めて呻くように呟いた。
「………やです」
一瞬逸らされた不満そうな横顔。
それはまるで子供が拗ねたような表情だった。
それにふっと笑った私を桐谷くんがムキになったように非難する。
「陽愛先輩!?なんですか?こんな時に、俺はちゃんと真剣に話してるのに、また冗談だってはぐらかすつもりですか??」
真っ赤になって理不尽さを訴える桐谷くんに、私はそうではないと首を振った。
「だって、今更、友達でもいいなんて言うから………」
そう言った私に、桐谷くんは今度は決まり悪そうに、目を逸らした。
「そ、それは、だってですね……」
ブツブツと決まり悪そうな姿が愛しいと思う。
もっと自惚れてくれて構わないほどに、いつの日にか大きな存在になっている桐谷くん。
だけどこの人はそんな変化に気付いてはいない。
だけど、それは桐谷くんのせいではなく私が気付かれないように振る舞ってきたからだ。
「………そ、そうでも言わないと、完全に振られたらそのあと、どうリアクションしていいか分からないでしょ?俺、さっきも言いましたけど、そもそも諦めるつもりがないんですから」
そんな言葉に胸が切なく満たされる。
なんだかんだ、そういう絶対的な強引さが嬉しいんだって、安心するんだって気付かされる。
そんな暖かさがずっと蟠り続ける何かを少しずつ溶かし始めていた。
雪解けのように、自らの弱さを思い知る。
--- 一人はいやだ、一人は怖い
世界の全てが変わっても、たった一人取り残されても、変わらず私の傍に心を寄せ続けてくれた人。
日だまりのように寄り添ってくれた人。
(桐谷くん…………)
その表情をじっと見つめる。
一見、強面な大きな体。
その内面が、どれだけ優しくて、誠実で、安心できるものなのか私は知りすぎた。
「……もうとっくに、色んな事を飛び越えて、私の一番近くに入ってきてるくせに?そこで、また待つんだ」
そんな桐谷くんの傍は暖かい。
いつだってずっと、暖かかった。
だけど…
「陽愛先輩?」
私は桐谷くんに少しだけ情けない顔で微笑んだ。
「えっ、………陽愛先輩?」
真意を見極めかねたように私の表情を窺う桐谷くんに、私は頷いた。
「そ、そそ、それって?俺、都合よく解釈してもいいんですか?」
その言葉に私は小さく頷いた。
「ごめんね、もう、待てなんて言わないから」
---もう、充分過ぎるほどに待っていてくれたことを誰よりも知っているから
「陽愛先輩?」
「待っててくれて、ありがとう桐谷くん」
そう口に出すと、信じられないとばかりに見開かれる漆黒の瞳。
それが徐々に感極まって行くのを、泣きそうになりながら見つめた。
「今度は、私が待ってる、ちゃんと待ってるから………」
「陽愛先輩……」
「だから、納得のいく作品にしようね、犬のコーポ、私にも手伝わせてくれたら嬉しいな」
その言葉に桐谷くんの端正な顔がくしゃりと崩れた。
「マ、マジっすか?」
「はははっ、マジだよ?」
「………は、ははっ、信じて、いいんですかね?」
「だから、いいってば」
だけど桐谷くんの瞳からは完全には不安は拭いきれない。そして、私にもまだ、これからずっと続くだろう不安がある。
---私は、この先もずっと、この世界に実在し続けることができるのだろうか?
「そうあっさり言われると余計不安になります。後で、やっぱり無しって言っても、俺、絶対引きませんからね?」
「言わないよ?」
それでも今は、そうである自分と未来を信じるしかない。桐谷くんと生きていくと決めた以上、そう信じ続けるしかないのだ。
だけど桐谷くんは動物のように感がいい。
そんな私の表情から、僅かな不安を感じとるのか、執拗に言質をとろうとする。
「ドッキリとかないですよね?信じていいんですよね??」
その言葉に私は頷く、まるで自分自身に言い聞かせるように。
「疑り深いなぁ、もう、こういうところは意外としっかりしてるよね?」
「そりゃ、疑いますよ、だって、本当に夢みたいっすもん!!」
段々、心底嬉しそうに変わっていく桐谷くんの笑顔が眩しい。
この状況を本当の意味で夢みたいだと感じているのは、実際にはこの私の方だと知ったなら、桐谷くんはどんな顔をするだろか。
だけど、それは一生秘めていく私だけの秘密となるだろう。この不思議な世界にいる自分のバランスが崩れてしまわないように、私はそれを秘めて生きていかなければならない。
「だから、もう!大袈裟なんだってば!!」
そう言った瞬間、感極まった桐谷くんに抱き締められた。
「大袈裟じゃないです、俺にとったら全然大袈裟じゃないです……」
「ちょ、桐谷くん、外だよ………」
「分かってます、でもちょっとだけ、陽愛先輩……」
そう言われて上を見上げた瞬間、桐谷くんの唇と私の唇が優しく触れ合った。
「……ほんとに逃げないんすね」
「だから、逃げないってば」
そう言った瞬間、ぎゅっと抱き締められた。
「触れてもいいんだって、そう確認したかったんで、今はこれだけで我慢しておきます、陽愛先輩、俺、絶対頑張りますから、だから、約束忘れないでくださいよ?」
「うん……」
そう言って桐谷くんは漆黒の瞳を優しく細めて微笑んだ。
私はその瞳を受け止めて、今度こそはと頷いた。
私が私である限り、この胸に巣食う一抹の不安が消える日はきっと来ないだろう。
---だけど、それでも、きっと大丈夫、私は消えない
ここで、こうして生きていく。
それを決して譲らない意思でこの場所に立ち続ける。
音田さん渾身の作品である犬の美容院が見事完成したのだ。
公園の遊歩道沿いにある落ち着いた空間にある小さなドックランや休憩所もそなえた洋風建築だ。
「おめでとうございます」
音田さん始め社の数名が参加させてもらったオープンセレモニーには寒い季節にも関わらず、近所の人やオーナーさんの知人、親戚、施工関係者など多くの多くの人達が集まっていた。
「お陰さまでいいお店を作ってもらえて本当に嬉しいわ、これからもっと腕を磨いて頑張らなきゃ!まずは目指せ一千切りよ!!」
そう言ってガッツポーズで張り切る奥さんに、困ったようにそれを嗜める長身の優しそうな旦那様。
「おいおい、勘弁してくれよ、君はいつだって表現が物騒なんだから、そんなんじゃお客さんも逃げてしまうよ」
「ほっほっほっ、お嬢さん、君がデザインしてくれたのかい、ありがとうねぇ……」
音田さんに向かってそう微笑むお爺さんはきっと、旦那さんか奥さんのお父さんだろう。
オーナーさん夫婦やそのご両親の言葉に照れたように恐縮する音田さんを、桐谷くんと目を細めながら眺める。
「そんな、こちらこそいい経験をさせてもらって感謝しています、私こそ可愛いワンちゃん沢山見れて今日は嬉しいですし……」
「犬、好きなの?」
「おっ、大きい犬はちょっと苦手というか、怖いんですけど……」
「ははっ、音田の奴、完全にテンパってますね」
そんな会話を遠目に見守りながら苦笑する桐谷くんに私は頷いた。
「ふふっ、そうだね、だって、始めてだもの、それでも本当に素敵に出来上がったね、凄いよ音田さんは」
才能の固まりのような年若い彼女がとても眩しかった。
「そうっすね、だから、俺も負けてられないです」
「ははっ、そっか、これから二人はいいライバルになるかもね」
「まぁ、負ける気はないですけど」
「もう、意外と大人げないなぁ!桐谷先輩は!!我が者のエースのくせに、余裕持ちなさいよ!」
「ははっ、そういって持ち上げたふりして子供扱いするのいい加減やめてくださいよ」
オープニングは始終、茶目っ気あるオーナーさん夫婦や関係者の嬉しそうな笑顔で溢れていた。
近所の愛犬家の皆さんも噂を聞き付けて沢山集まっていた。
「繁盛しそうだね」
「俺も、そんな予感がします」
「うん」
そんな他愛もない会話をしていたときだった。
どこからともなく、一匹の灰色の犬が駆け寄ってきたのだ。
「はっはっ………」
「えっ……」
「なんだ、お前?どっからきた??」
顔の殆どが延び放題の毛で覆われたお爺さんのような犬だった。
そしてベンチで座る私の膝に鼻がくっつくくらい近づいて突然お座りをして私を見つめている。
(あっ、この犬………)
その瞬間、私はハッとした。
少しイメージは違ったが、私はその犬種に見に覚えがあったからだ。
そしてもうひとつの世界での日向との会話が甦ったのだ。
あれは療養先の病院での会話だった。
「日向はどんなワンちゃんが好きなの?飼えないけど……」
あの日、日向は 私がリクエストに応えて書店で買ってきたばかりの動物図鑑を見つめていた。
「僕は、ううんとね、僕はね、そうだ!灰色のおじいちゃんの犬が好き!!」
その答えに私は間抜けな声を漏らした。
「灰色の、おじいちゃん?」
戸惑い顔の私に、日向は明るい瞳を輝かせて説明してくれた。
「うん!時々、病院の下をお婆さんと散歩しているお爺さんみたいな犬だよ!?ママは見たことない??よく通ってるんだけどな……」
「そ、そう………」
病院帰りは、いつだって先生の言葉を反芻しながら、日向の今後の病状のことで頭が一杯だった。あの頃、私はいつだって周りなど見えてはいなかったのかもしれない。
だけど日向はそんな私とは違った。
辛い闘病生活のなかでも、嬉しいこと、綺麗なもの、素敵なことを見つけるのを諦めない子供だった。
そんな会話をした数日後、日向の入院する病院からの帰り道、私はお婆さんと散歩しているグレーの紳士犬を発見した。
そして、その後、その犬の犬種を知ったのだ。
---シュナウザー、そう確かミニチュアシュナウザーだ!
なぜその犬が好きなのか聞いてみると、日向は寂しそうに笑い「だって、お婆さんの隣がとても似合うから」とだけ答えた。
今にして思えば、日向はある意味憧れてはいたのかもしれない。
あぁして、お爺さんになるまで、誰かと仲良く寄り添って歩いていける人生を………
日向は、目の前の奇跡を見つけるのが得意だった。
だけど、ずっと先の話をすることはなかったから。
「クゥン………」
すり寄って来た犬に手を伸ばした私を、桐谷くんが心配したように案じて立ち上がろうとする。
「陽愛先輩……」
「大丈夫……」
私はそれを笑顔で制した。
「クゥンクゥンクゥン………、ハッハッハッ……」
尻尾を振る犬を見て私は目を細めた。
その様子を見て桐谷くんも安心したのだろう。
「か、噛まないっすよね、こいつ……」
「大丈夫だよ、こんなに人に懐いてるから」
そう言って、その犬の頭を私が撫で始めた時だった。
「桐谷先輩!!ちょっと来てくださあい!!」
音田さんの焦ったような声が突然聞こえて、私たちは振り返った。
「どうした!?」
そう問いかける桐谷くんに音田さんは助けを求めるように声をあげる。
「オーナーさんの関係者から今、色々話を聞かれてるんですけど、私にはよく分からないことも多くって、一緒にお話きいてもらえないでしょうか?」
「はっ?一緒にってお前なぁ……」
「お、お願いします!」
泣きそうな顔で懇願するスーツ姿の小さな彼女が可愛くて思わず笑いが込み上げる。
「行ってあげなよ」
「うっ、まじっすか?仕方ないな、じゃあ、ちょっと待って、あっ、そう言えば名刺あったかな俺……」
そう言って少し緩めていたネクタイを正す桐谷くん。
「じゃあ、俺行ってきますんで、少し待っててくださいね」
「はいはい、ごゆっくり」
そう言って名刺ケースを片手に去っていく桐谷くんの背中から、膝のところで鼻息をたてながら待機している犬に目を落とす。
「さあて、君は一体どこからきたのかな?」
そう問いかけられて、不思議そうに私を見つめて首を傾げる犬に向かって私は自嘲した。
「なんてね、こんな私が言うのも烏滸がましいよね……」
そう呟いて私はキョロキョロと周囲を見渡した。
すると遠目に年配の少しふくよかな女性が酷く慌てた様子で駆け寄って来る姿が見えた。
「はぁ、もう、いけないわ、信介さん………」
七十代と思われるご婦人が息を切らしながら近づいてきて、恨めしそうにそう言った。
そして私の服装と周辺の状況を見て決まりが悪そうな表情になった。
「あらあら、まぁまぁごめんなさいねぇ、お嬢さんたら素敵な格好してるのに……、駄目でしょう信介さん、さっき草むらを掻き分けたそんな足で!!」
そのご婦人の申し訳なさそうな顔と、飄々とした犬の姿を見た時、私はふと思い当たるものがあった。
(この人達………、もしかしたら………)
あの日、もうひとつの世界の病院帰りに見たお婆ちゃんと紳士犬?
そんな事があるはずはないと思いながらも私は戸惑っていた。
(ここは東京、あの海辺の町とは距離が離れすぎている………)
それでも、そうだとしか思えなかった。
「あっ、いえ、全然大丈夫ですよ?かわいいわんちゃんですね、たしかシュナウザーですよね?お名前、伸介くんっていうんですか?」
私は極力動揺を悟られないように話しかけた。
すると女性は少しだけ緊張の解れた様子で教えてくれた。
「えぇ、そうなのよ、この子の名前は伸介さん、亡くなった主人からとってるんですけどね………」
その言葉に私は固まった。
「ご主人のお名前から?」
「えぇ、そうなのよ、優しい主人だったのだけれど、先に逝ってしまってね……」
「そう、ですか………」
そこで、お婆さんの話に耳を傾けながら過ごした私は、自分の思い過ごしではなく、お婆さんと伸介さんがあの日のペアだと確信するしかなかった。
(こんな偶然があるなんて……)
数年前、ご主人を亡くした彼女は、息子さん夫婦から犬をプレゼントされたのだという。
最近まで、旦那さんとの思い出の家で、旦那さんの名前を付けた犬とパート勤めを続けながら暮らしていた彼女は、来月、息子さんが医師として赴任している田舎に犬の伸介さんと共に引っ越す予定だというのだ。
「知らない土地に……、不安はないですか?」
そう問いかけた私に彼女は皺を刻んだ顔で穏やかに微笑んだ。
「そうね、不安がないといったら嘘になるけれど、足りないものをその時々で埋めようとしていくのが人生なのかしらとこの頃は思うのよ」
「足りないもの…」
「昔の私には主人が、今の私には、息子夫婦と孫達と、一番近くにはこの信介さんがいてくれるから……」
そう言った彼女は遠くをみつめるように小さく笑った。
「この子はね、本当は亡くなった主人から私へのプレゼントなんですって、亡くなる前に、主人が息子に頼んでくれていたようなの………」
その光景とご主人の気持ちが垣間見えて目頭が熱くなった。
「そうですか、素敵なご主人ですね………」
「えぇ、一時は主人と死別する恐怖に毎日、それはもう震えていたの」
その言葉に私は静かに頷いた。
「一人になるくらいなら長生きなんてしなくていい、いっそ早く私にもお迎えがきてくれないかしらってね、でも、今度はこの子を残すことが不安で申し訳なくてね、そうしたら息子夫婦が近くに住まないかって、そうすれば私がもしこの先、散歩が出来なくなったとしても、自分や孫がいるから二人とも安心だろうし、その方が親父もそこでしんみりされているより喜ぶだろうって……」
女性から聞いたその言葉に私は小さく微笑んだ。
一つのエピソードに沢山の愛が詰まった素敵な話だと思った。
きっとご主人は、自分が亡くなったあとの奥さんの笑顔を守り続けたかったのだろう。
そして、それは叶ったのだと思いたい。
私はあの日見た、今より少し年を隔てた二人の後ろ姿を思い浮かべた。
「きっと、まだまだ、沢山素敵な時間が過ごせますね、犬の伸介さんや、息子さんやお孫さん達と一緒に………」
そう言うと女性は少し考えるように黙った後に微笑んだ。
「うふふっ、そうね、そうだといいわね、ね、伸介さん?」
---大丈夫ですよ、きっとそうなります
あの片田舎の海辺の町で、病院から見える海浜公園の散歩道を、ゆっくりと流れる時間に身を任せて寄り添いながら、朝に夕に様々な色に代わり続ける空の下で、静かに少しずつ年を重ねて、素敵な町の日常を作り出す。
---そこに、あの日の私と日向がいなくても
それはきっと変わりないのだ。
「クゥゥン……」
ペロリと私の手の甲をまるで気遣うように舐めてくれる信介さん。
とても優しい犬なのだと、私は目を細めた。
あの世界では、まるで町の風景のようにすれ違うなかで、こうして触れ合う機会すら訪れなかった私達。
だけど、今、まるで案じるように潤んだ瞳で私を慰めてくれる伸介さんと朗らかな女性の笑顔に私は不思議な気持ちになった。
そんな奇跡のような出会いに、自分のなかの頑なな何かが少しだけ綻んでいくのを感じた。
フサフサした灰色の頭にそっと触れて、「ありがとう」と言うと、信介さんは嬉しそうにハッハッと尻尾を振ってもっと撫でてくれとばかりに目を細めて頭を下げる。
本当に人懐っこい犬だ。
きっと大切に育てられているから、人が大好きなんだね。
「あらあら、甘えん坊さんねぇ、そんなボサボサの頭押し付けて……」
女性はそう言って苦笑した。
その時私は、ハッと一つの事を思い出して、鞄の中から一枚の紙を取り出した。
「あのっ、これ、もしよかったら……、ここ犬の美容院なので……」
そう言って一枚の紙を差し出すと、女性は何かしらとそのチケットを受け取り、あらっとこちらを見上げた。
「実は、私の勤め先がこの犬の美容室の設計と施工に関わっていた関係で、オーナーさんからお礼と宣伝を兼ねていただいた無料チケットなんです。私、残念ながらワンちゃんの知り合いはいないので、よかったら信介さんに」
そう言ったら、女性は目を瞬かせた。
「あら、いいのかしら、初対面の私たちに?何だかとても申し訳ないわ……」
そう言って躊躇う女性に私は首を横に振った。
「どうせ、使うあてがなかったので、貰ってくれたらむしろ嬉しいです、オーナーさんご夫婦もはりきってましたよ?最初の頃にカットしたわんちゃん達には、許可が貰えたら看板や見本表のモデルも是非お願いしたいなんて言われてましたよ!」
そう言って微笑む私に、女性も今度は心底嬉しそうに微笑み返してくれた。
「まぁ、モデルなんて私たちには無理よ、でも正直すごく有り難いわ、この子ったら成長と共にどんどん毛むくじゃらになっていくのに、私ったら、歩いていける犬の美容室を知らなくて………」
「バウっ!」
「実はね、ここがいつオープンするのかずっと気になって見てはいたの。だけど建物があんまりにも素敵過ぎるでしょう?だから、私みたいなお婆さんと伸介さんには少し敷居が高い気がしてね、ほら、この子もブラシはかけるのだけれど、毛が長くなりすぎて、すぐにこんな風になってしまうから、なのに伸介さんは草丈がある草むらが大好きで……」
困り顔のおばあさんの視線の先は伸介さんの腹部だった。
そこには、草むらの雑草からいただいただろう沢山のお土産がついている。
「あはっ、本当、たくさんもらっちゃってますね?でも、全然年齢なんて気にしなくても、犬の美容室ですから、それに、伸介さんはこのままでも、凄く可愛いですけどね、じゃあ、調度いいから、私、オーナーさんに予約聞いてきます、希望の日ありますか?」
「あらあら、そんな事まで、ありがとう、本当に優しいお嬢さんだこと……、良かったわね信介さん」
オーナーさんご夫婦に事情を話すと、オーナーさんはとても嬉しそうにお婆さんと伸介さんのところに駆け寄って行った。
何やら話に花が咲いているようでおばあさんもとても嬉しそうに笑いながら話をしている。
そして、無事に予約がとれたらしいお婆さんは、帰りがけに私に歩み寄ってくれた。
「ありがとうね、お嬢さん。私と伸介さんは、もうじきこの場所を離れるけれど仲良くなった愛犬家の知り合いには、凄く感じのいいオーナーさんだったと紹介しておくわ、さぁ、行きましょう伸介さん、お嬢さん、本当にありがとうね、またいつかご縁があるといいわね」
そう言って頭を下げながらにこやかに去っていく女性と犬の信介さん。
その背中を私は手を振って見送った。
(ご縁か………)
---さようなら、もうひとつの世界のお婆さんと伸介さんも、どうかお変わりなくお幸せに
「……陽愛先輩、犬好きだったんですね?なんか意外でした」
突然背後から桐谷くんにそう声をかけられた。
「えっ、何で、好きだよ?」
目を瞬かせる私に、桐谷くんは少し苦笑するように口を開いた。
それは若干意地悪な口調でもあった。
「………てっきり、先輩は猫派かと思ってましたから」
「えっ?猫も好きだけど……」
きょとんとする私に、桐谷くんは呆れたように笑う。
「ははっ、浮気ものですね?」
「なんだよそれ、言ってる意味が分からないよ!!」
馬鹿にされた私は、桐谷くんを睨み付けた。
だけど、突然押し黙った桐谷くんは、少しの間を置いて私の名前を口にした。
「陽愛先輩」
どこか真剣な口調に、私は座って見つめていた芝生から目線を桐谷くんに向けた。
いつの間にか、西日が差し込む時間帯、辺りにはいつの間にか誰もいなくなっていた。
「な、なあに?」
桐谷くんは私に一歩詰め寄って少し重々しい様子で口を開いた。
「さっき俺、オーナーさんのご両親と話してたんですけどね、あっ、その人達は感じのいいほんと一見普通の老夫婦なんす、だけど、実はこの辺の土地を沢山持ってる地主出身の資産家みたいなんです」
「う、うん……?」
桐谷くんの言わんとする事がよく分からなくて内心首を傾げながらも頷く。
「その夫婦が、自分達の老後の棲み家と、節税対策も兼ねてここから直ぐの今は駐車場にしている所有地に、ドッグランもあるペット可のコーポを建ててみようか、なんて話を初めて、最初は冗談かと思って、いいっすねなんて軽く話を会わせてたんですけど、それが結構本気そうなんですよね?」
その話に私は目を瞬かせた。
「そ、そうなんだ!?ペット可のドッグラン付きなんて、なかなか賃貸じゃないよね?発想が新しいかも!でも、管理は大変そうだね、防音面も…」
「そこはまぁ、おいおい考えます…」
「でも、いいと思う!」
私は、完成図を想像して、その話に食いついた。
「でしょ?でもまぁ、子供夫婦の犬の美容室の常連さん増やせたらっていう、長い目で見た親心もあるんでしょうけど、まぁ価値観はそれぞれってことで…」
「そ、そうなの?お金持ちって考える事が違うよね!?」
「ははっ、ほんと、それっすね!犬と通えるデイサービスなんかもあればいいのにって笑ってましたよ!」
「デイサービス?犬の??」
「いや、そこは人のっしょ?そこに犬を連れて行くみたいな」
驚く私に頷きながら、桐谷くんは続けた。
「まぁ、それはまだまだ思い付きの冗談なんでしょうけど、コーポの方は結構本気みたいで、イメージに合うものを作るなら、いくつかの会社に声をかけて、企画書や見積もりをしっかり見て決めるといいですよって話をしたら、是非うちも参加してほしいって………」
その話に私は目を瞬かせた。
「凄いじゃない!!」
それはまた凄いビジネスチャンスを掴んできたものだと、私は目を輝かせた。
きっと、桐谷くんの話しやすさに、音田さんのデザインが功を奏したのだ。
この犬の美容室と雰囲気を合わせて、音田さんが担当するのもひとつかもしれないと私は算段しながら、間取りオタクとしてもワクワクしてくる。
だけど、桐谷くんはここで意外な事を口にしたのだ。
「それで、もし本格的に話が進んだら、次は俺も名乗りを挙げようと思って……」
その言葉に私は、目を見開いた。
「えっ?コーポってあんまり、桐谷くんがデザインするイメージがないんだけど……」
桐谷くんのイメージは、少し自由性の高いオリジナリティが求められる分野が多かった。
商業施設だとしても、美容室、カフェ、児童館、歯科などが得意分野なのだ。
「……ですよね、昔から、ちょっと予算ありきで、画一的な事を求められるのが苦手で、無意識に避けてきた部分があって」
その言葉に私は頷いた。
「そっか……、なら、今回はどうして?」
話の経緯から考えると、きっと、今までの桐谷くんなら、音田さんを誉めて、新たな挑戦のステージとして譲っている案件だと思うのだ。
桐谷くんも、実は結構犬が好きで、拘りがあるのかなと思ったとき、桐谷くんは、頭を掻きながら、少し照れたように話始めた。
「でも、変な話、さっき陽愛先輩がベンチで楽しそうに知らない人と笑いながら犬を撫でてるシーン見てたら、なんていうかこう、俺のなかでインスピレーションがぶわっと溢れるみたいな、不思議な感覚が溢れて、こうなんか作ってみたいっていう欲求みたいなのがでてきて……」
その言葉に私は顔を上げた。
「インスピレーション?私で??」
(さっきまでのやり取りのどこにそんな要素があっただろうか?)
「いいじゃないですか、湧いたものは湧いたんですよ!」
そう言って、少しぶっきらぼうに言葉を濁す桐谷くん。
だけど、少し拗ねたその顔を見て、私はだんだんウキウキしてきた。
(桐谷くんの、犬のコーポか………)
今の時代、わんちゃんだけ、ねこちゃんだけが家族という人も珍しくなくなった。
これからは益々そういった人が増えてくるだろう。
既に多様化した時代のなかで、従来のコミュニティの概念から抜け出して、価値観の合う人たちと過ごす日常も選択できる優しい時代になるといいなと、そんな考えを色んな事情を抱えるお客様と触れ合う内に以前から漠然と考えてきた。
日向との暮らしのなかでも、今にして思えば随分多くの人に支えてもらったと思う。
居酒屋のお客さん、商店街の人達、病院関係者、保育園の先生達やお母さん達。
日向と二人で生きてきたようで、二人だけではやってこれなかったことが沢山あった。
「うん、そっか……、いいと思うよ?犬のコーポ、うん、楽しみだね!」
そう言って私は微笑んだ。
「そうですか?そうですよね??」
その言葉に激しく反応する桐谷くん。
「うん、楽しみだね」
そう言って完成に思いを馳せる私を桐谷くんは、その後も複雑な表情で見つめている。
「どしたの?」
何かを訴えかけるような瞳に違和感を感じてそう言うと、桐谷くんが再び切り出した。
「ねぇ、陽愛先輩……」
「うん?」
先程にはなかった神妙な顔をしている桐谷くんに私も真剣な顔をして目を会わせる。
「もし、もしですよ?俺のデザインが採用されたら……」
「うん」
「それで、そのデザインを陽愛先輩も気に入ってくれたら……」
「うん、ん?」
その瞬間、桐谷くんの顔がやけに余裕がなくなって、何かを言い淀んでいる。
こんな彼は珍しい。
それに気付いた私が首を傾げると、桐谷くんはベンチに座る私の両肩に正面から大きな手をおいた。
そこから熱が伝わる。
「ひっ、陽愛先輩!」
そして私と視線の高さを合わせた桐谷くんは焦ったように早口で告げた。
「そ、そしたら、お、俺と犬でも飼って、そのコーポで一緒に暮らしませんか!?」
「え………?」
意味が分からず驚愕して目を見開く私に、桐谷くんは更に焦ったように早口で捲し立てる。
「あっ、犬種は問いません、陽愛先輩の好きな犬でいいですから!あっ、だけど、世話はもちろん俺が責任持ってちゃんとしますし、陽愛先輩は気が向いた時だけ、散歩に付き合ってくれたら、俺、もうそれだけで……」
その言葉の意味が飲み込めなくて私は固まった。
「え……、桐谷くん、それって………」
(たぶん、別々に部屋を借りて犬をシェアしようって、そういう意味ではないよね?)
困惑を隠せないでいる私を見て、桐谷くんは覚悟を決めたように言葉を繋いだ。
「もう、さすがに分かってると思いますけど、むしろ、分かっててくれないと結構ショックなんすけど、俺、ずっと、ずっと、陽愛先輩が好きでした!!」
その言葉に私は目を見開いた。
「近くにいれるようになって、もっともっと、もっと好きになりました!」
「桐谷くん………」
その真剣な表情には確かな既視感があった。
「もう、たとえ好みじゃないなんて振られても、諦められる気すらしないんです!!」
切なくなるほど真剣な漆黒の瞳に囚われる。
「だから、結婚を前提にして、俺と付き合ってください!!!」
「き、桐谷くん……」
「大事にします、約束します!だから!!お願いします!!!」
まるで懇願するように真剣な瞳を向けられた私は戸惑った。
(結婚………、私が、桐谷くんと、この世界で?そんなことは、果たして許されるのだろうか?)
桐谷くんは、黙ったままの私が困っていると思ったのだろう。
俯いたままの私に焦ったように言い直した。
「わ、分かってます、いきなり結婚を前提なんて重いですよね?でもそれが今の俺の偽らざる願望なんです。陽愛先輩に交際を申し込むのに、いい加減な立場で向き合いたくないんです!!」
一生懸命に涌き出る気持ちを、自分なりの言葉に変えて伝えてくれる桐谷くん。
あの時もそうだったなと、自分の中にある何かが込み上げてくる。
すると、益々焦ったように、桐谷くんは続ける。
「も、もちろん結婚前提が無理なら、普通の恋人でも、いや、それでも厚かましいなら、初めは友達からでもいいですから、俺との事、少しずつでもプライベートな事として考えてみてもらえませんか??」
(違う、違うよ、桐谷くん…………)
「桐谷くん……」
一生懸命に私の心に寄り添おうとしてくれている優しさに胸が苦しくなる。
だけど、この苦しさは、今までの苦しさとは明らかに違う。
「俺、陽愛先輩の事、傷付けるような事は絶対にしませんから!」
---分かってる
「俺、ちゃんと待てが出来る犬ですから!!陽愛先輩が気持ちの整理がつくまで、待てと言ってくれたら、いつまででも、ちゃんと待てますから!!」
---うん、知ってる、知ってるよ、桐谷くん
待っててくれたんだよね、ずっと……
もしかしたら、時も、世界も越えて、私を待っていてくれたのかもしれない。
ちょっと堪えられなくなってきて俯いた。
「ずるいよ、桐谷くん………」
あの時と、同じ顔で、こんな事を言うなんて……
「陽愛先輩……?」
少しだけ、ここにきて分かったことがある。
きっと、あの世界で、最後の一瞬、私は躊躇ったんだ。
この真っ直ぐな優しい人を最後まで裏切って、あの世界を去る自分が悲しかった。
許せないと思った。
だけど、今、その記憶を持ちながら、この世界の桐谷くんに向き合うことは、許されるのだろうか?
そんな事は分からない。
だけど、桐谷くんは待ってくれていた。
もう十分過ぎるほどに、ずっと私を待ってくれていたのだ。
そして、これからもずっと、私の傍に居続けてくれるのだと
そうしたいのだと心からの思いで、今、この場にいる私に伝えてくれる。
---だけど、私達には、果たしてこの先、同じ未来が訪れるのだろうか?
桐谷くんが望むような未来を私は私として作り出すことが出来るのだろうか?
私は、桐谷くんの瞳を見つめた。
桐谷くんもまた漆黒の瞳を見開いて、複雑な表情で私を見つめている。
その瞳には明らかな恐れと、僅かな期待が入り交じる。
その純粋な反応に、私は小さく唇を綻ばせた。
「…ほんとうに、友達でもいいの?」
試すように口にだした言葉は自分にしては酷く意地悪だと思う。
その言葉に桐谷くんはピクリと肩を震わせて固まった。
迷うように苦しそうに瞳を閉じて何やら思案する桐谷くん。
やがて、桐谷くんは、顔を歪めて呻くように呟いた。
「………やです」
一瞬逸らされた不満そうな横顔。
それはまるで子供が拗ねたような表情だった。
それにふっと笑った私を桐谷くんがムキになったように非難する。
「陽愛先輩!?なんですか?こんな時に、俺はちゃんと真剣に話してるのに、また冗談だってはぐらかすつもりですか??」
真っ赤になって理不尽さを訴える桐谷くんに、私はそうではないと首を振った。
「だって、今更、友達でもいいなんて言うから………」
そう言った私に、桐谷くんは今度は決まり悪そうに、目を逸らした。
「そ、それは、だってですね……」
ブツブツと決まり悪そうな姿が愛しいと思う。
もっと自惚れてくれて構わないほどに、いつの日にか大きな存在になっている桐谷くん。
だけどこの人はそんな変化に気付いてはいない。
だけど、それは桐谷くんのせいではなく私が気付かれないように振る舞ってきたからだ。
「………そ、そうでも言わないと、完全に振られたらそのあと、どうリアクションしていいか分からないでしょ?俺、さっきも言いましたけど、そもそも諦めるつもりがないんですから」
そんな言葉に胸が切なく満たされる。
なんだかんだ、そういう絶対的な強引さが嬉しいんだって、安心するんだって気付かされる。
そんな暖かさがずっと蟠り続ける何かを少しずつ溶かし始めていた。
雪解けのように、自らの弱さを思い知る。
--- 一人はいやだ、一人は怖い
世界の全てが変わっても、たった一人取り残されても、変わらず私の傍に心を寄せ続けてくれた人。
日だまりのように寄り添ってくれた人。
(桐谷くん…………)
その表情をじっと見つめる。
一見、強面な大きな体。
その内面が、どれだけ優しくて、誠実で、安心できるものなのか私は知りすぎた。
「……もうとっくに、色んな事を飛び越えて、私の一番近くに入ってきてるくせに?そこで、また待つんだ」
そんな桐谷くんの傍は暖かい。
いつだってずっと、暖かかった。
だけど…
「陽愛先輩?」
私は桐谷くんに少しだけ情けない顔で微笑んだ。
「えっ、………陽愛先輩?」
真意を見極めかねたように私の表情を窺う桐谷くんに、私は頷いた。
「そ、そそ、それって?俺、都合よく解釈してもいいんですか?」
その言葉に私は小さく頷いた。
「ごめんね、もう、待てなんて言わないから」
---もう、充分過ぎるほどに待っていてくれたことを誰よりも知っているから
「陽愛先輩?」
「待っててくれて、ありがとう桐谷くん」
そう口に出すと、信じられないとばかりに見開かれる漆黒の瞳。
それが徐々に感極まって行くのを、泣きそうになりながら見つめた。
「今度は、私が待ってる、ちゃんと待ってるから………」
「陽愛先輩……」
「だから、納得のいく作品にしようね、犬のコーポ、私にも手伝わせてくれたら嬉しいな」
その言葉に桐谷くんの端正な顔がくしゃりと崩れた。
「マ、マジっすか?」
「はははっ、マジだよ?」
「………は、ははっ、信じて、いいんですかね?」
「だから、いいってば」
だけど桐谷くんの瞳からは完全には不安は拭いきれない。そして、私にもまだ、これからずっと続くだろう不安がある。
---私は、この先もずっと、この世界に実在し続けることができるのだろうか?
「そうあっさり言われると余計不安になります。後で、やっぱり無しって言っても、俺、絶対引きませんからね?」
「言わないよ?」
それでも今は、そうである自分と未来を信じるしかない。桐谷くんと生きていくと決めた以上、そう信じ続けるしかないのだ。
だけど桐谷くんは動物のように感がいい。
そんな私の表情から、僅かな不安を感じとるのか、執拗に言質をとろうとする。
「ドッキリとかないですよね?信じていいんですよね??」
その言葉に私は頷く、まるで自分自身に言い聞かせるように。
「疑り深いなぁ、もう、こういうところは意外としっかりしてるよね?」
「そりゃ、疑いますよ、だって、本当に夢みたいっすもん!!」
段々、心底嬉しそうに変わっていく桐谷くんの笑顔が眩しい。
この状況を本当の意味で夢みたいだと感じているのは、実際にはこの私の方だと知ったなら、桐谷くんはどんな顔をするだろか。
だけど、それは一生秘めていく私だけの秘密となるだろう。この不思議な世界にいる自分のバランスが崩れてしまわないように、私はそれを秘めて生きていかなければならない。
「だから、もう!大袈裟なんだってば!!」
そう言った瞬間、感極まった桐谷くんに抱き締められた。
「大袈裟じゃないです、俺にとったら全然大袈裟じゃないです……」
「ちょ、桐谷くん、外だよ………」
「分かってます、でもちょっとだけ、陽愛先輩……」
そう言われて上を見上げた瞬間、桐谷くんの唇と私の唇が優しく触れ合った。
「……ほんとに逃げないんすね」
「だから、逃げないってば」
そう言った瞬間、ぎゅっと抱き締められた。
「触れてもいいんだって、そう確認したかったんで、今はこれだけで我慢しておきます、陽愛先輩、俺、絶対頑張りますから、だから、約束忘れないでくださいよ?」
「うん……」
そう言って桐谷くんは漆黒の瞳を優しく細めて微笑んだ。
私はその瞳を受け止めて、今度こそはと頷いた。
私が私である限り、この胸に巣食う一抹の不安が消える日はきっと来ないだろう。
---だけど、それでも、きっと大丈夫、私は消えない
ここで、こうして生きていく。
それを決して譲らない意思でこの場所に立ち続ける。
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私には、幼馴染である、カインがいたから。同じ伯爵爵位を持つ、私の大好きな幼馴染、《カイン=マルクス》。彼だけは、いつも私の傍にいてくれた。
彼からのプロポーズを受けた時は、本当に嬉しかった。私を、あの家から救い出してくれたと思った。
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例え、私に子供が出来ず、義母からハズレ嫁と罵られようとも、義父から、マルクス伯爵家の事業全般を丸投げされようとも、私は、貴方さえいてくれれば、それで幸せだったのにーーー。
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