シャハルとハルシヤ

テジリ

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第一章 シャハルとハルシヤ

難航の出合い

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 夜明け前に一人起こされたシャハルは、走る自転車の後部座席で、うとうとと船を漕いでいた。何度も欠伸をしながら涙を拭い、やがて眠りに落ちようとしたところで自転車が止まった。シャハルが眠気を堪えて辺りを伺うと、そこは目的地である総神殿の敷地内だった。

「さて…、行くぞ」

トビラスは自転車を一角に止め、シャハルを座席から降ろすと、籠から荷物を取り出して小脇に抱えた。シャハルはトビラスに手を引かれ、修行巫女と近隣の信者たちが働く台所まで連れて行かれると、その片隅を借りてトビラスが持参した毛布を敷き、倒れるように横になった。トビラスはそのまま眠り込んでしまったシャハルにもう一枚毛布を掛けると、干し肉の包みと水筒を枕元に置き、出て行く際、シャハルにはくれぐれも持参した飲食物以外を与えないよう依頼した。
そしてその足で元来た場所へ戻り、門番たちと挨拶を交わし、やがて入って来た一台の車を出迎えた。車が門番の誘導通りの場所に停止すると、トビラスは近寄って後ろの窓を軽く叩いた。

「おはようございます」

後ろの窓が開き、ハンムラビが顔を覗かせた。

「ああ、おはよう。ところで、連れて来たな」

「ええ、連れて参りましたとも」

「お父様、シャハルも呼んだのですか」

車内で隣に座っていたソピリヤの問いに、ハンムラビは苦笑した。

「うむ、案ずるな。そなたのこととは関わり無い」



広間に設けられた祭壇に火が焚かれ、神殿長が歌うように呪文を唱え続けていた。彼女が精油を垂らすと炎が燃え上がり、辺りに薄荷の匂いを漂わせた。儀式はつつがなく終了し、その場は式典に移行した。
ハンムラビは最前列の椅子から立ち上がって後ろを振り向くと、長い挨拶を始めた。まずは放牧家たちの旅路の労をねぎらい、その後は自身の過去を振り返り、身内の話題を持ち出した。渡航中の長女夫妻に初孫が誕生したという知らせは場を沸かせ、男孫と明かされると拍手喝采が起きた。ハンムラビが満足気に腰を降ろすと、放牧家の代表者が立ち上がり、次の挨拶を始めた。
最後は巫女たちが奏でる笛の音に合わせ、出席者達はスミド民謡を合唱した。

「お父さん遅いなあ……。ハルシヤ達、今頃どうしてるかな……」

シャハルはとうに起きていて、干し肉をかじり、水筒の中身も飲み干していた。台所当番の人々はお茶汲みに忙しく、一度手洗いに連れて行って貰った他は一人おとなしく寝転んでいたのだった。
それでも広間で式典が終了し、空にけたたましい爆竹音が鳴り響くと、シャハルはのそのそと起き上がり、仮の寝床を引き払った。

「シャハル」

程なくして迎えに現れたトビラスに、シャハルは空腹を訴えた。

「お父さん、お腹空いた…」

「ん、よしよし。後もう少しだから、先に手洗いに行こう」

トビラスはシャハルの頭を撫で、寄り道後にハンムラビと落ち合った。





 祭で賑わう市街地では、ハルシヤがくじの屋台に並んでいた。

「まだ掛かりそうだな。セウロラ、くじ引かないなら他に行きたい店とかないか」

「それじゃあ…、あれなら」

アナンに聞かれ、セウロラはくじの隣で垂直に構える屋台を指差した。アナンに付き添われ、セウロラは一口分の代金を支払って弓と三本の矢を受け取った。

「ちょっとアナン、これどうすればいいの」

「逆だ逆。ほら、羽の方に溝があるだろう。ここに糸を引っ掛けて、添え木にくっ付けて引っ張る。狙いを定めて──」

アナンの放った矢はまっすぐ景品に命中し、乾いた音を立てて棚から箱を打ち落とした。

「困るよおじさん。あんたは子供じゃないんだから」

客の子供達の歓声も束の間、店の子供が落ちた景品を拾い、並べ直しながら釘を刺した。
無効にされても矢は返されず、セウロラはアナンに矢を射る姿勢を修正されながら実質一本目で的に当て、二本目で倒した。弓を返却すると、屋台の片隅で店主が景品の箱を持ちながら、セウロラにこっそりと話し掛けた。

「お嬢ちゃん、かさばって持ち歩くの大変だろう。良かったら帰るまで置いとかないかい」

「おいおい、次に取る奴が出たらどうするんだ」

「だから、あっちのくじのところに置くんですよ。目立つようにね。しばらく置かせてくれたら、おまけも付けますよ」

「わたし、そうする。いいでしょうアナン」

「わかったよ。なら一筆貰おうか」

「ちょいと兄さん。あいにくですが、あたしゃ字が書けませんで。悪いがこいつで勘弁しておくれね」

店主が小刀を取り出すと、アナンはセウロラを背後に庇って身構えた。店主は気にせず刃先で自身の親指を軽く刺し、浮いた血の玉を使ってチラシの裏に鮮やかな指紋を付けた。そして出来たばかりの血印状を、有無を言わさずアナンに押し付けた。

「何なんだあいつ、頼んでいるのはそっちだろうが。こんなもん渡しやがって、やってることは立派な詐欺師だろ」

「それよりハルシヤは。待たせたらかわいそう」

「そうだな。む、居ねえ。…どこに行ったんだ」

戻って来るとくじの屋台行列は解消され、ハルシヤも姿を消していた。アナンは辺りを見回し、ハルシヤの代わりに遠くから歩いて来るウラシッド兵に気が付いた。瞬時に目を遣ると、幸いセウロラはまだ視界の差で気が付いていないようだった。アナンは少々強引にセウロラの手を繋いで引っ張った。

「よし、あっちを探すぞ」

「えっ、そっちに行くの。まあ良いけど…」

アナンはセウロラを連れ、取り敢えず近くの路地に駆け込んだ。





 視察中のハンムラビは、放牧家の屋台で秘書達と食卓を囲んでいた。

「主任、あの様に馬の鞍に挟んできた肉など召し上がってよろしいのですか」

「多少はね。守上は温室育ちではないし、十分加熱した上で毒味もさせてある」

トビラスは小声で新人秘書の耳打ちに答えながら料理を小皿に取り分け、シャハルに食べさせていた。 

「美味いかシャハル。ささ、もっと食べて良いのだよ」

反対隣に座るハンムラビは、道中ここに至るまであれこれ買い与えたにもかかわらず、嬉々としてさらに食べるよう促した。シャハルはそれに困ったような笑顔を浮かべ、小皿のもっちりと伸びる乳酪粥や、切り分けられた羊の丸焼きを食べ、乳仕立てで根菜と柔らかくなった干し肉が具材の『通称:戻し汁』を飲み干した。

「ふう、ごちそうさまでした」

「シャハル、何か甘いものでも頼もうか」

「僕、もうお腹一杯です…。ハンムラビ様、遊んで来てもいいですか」

「構わんが、遠くには行くなよ」

シャハルが護衛のウラシッド兵の無線目当てに屋台の外へ出ると、丁度向かいの屋台裏に回って行く質素な母娘連れが目に止まった。シャハルは二、三歳ほど年上の娘と一瞬だけ目が合った後、向かいの屋台を眺め、屋根に掲げられた赤い布地に気が付いた。その直後、ウラシッド兵が腰に提げた無線に一報が入った。

「申し上げます。先程ソピリヤ様がお一人になられました」

シャハルはここまで聞いて唐突にソピリヤ探しを志願した。トビラスは言い聞かせようとしたが遮られ、ハンムラビの許可が降りた。

「守上、この子はただ抜け出して遊び回りたいだけですよ。単なる口実にお墨付きを与えないで下さい」

「良いから。行っておいでシャハル」

「はいハンムラビ様。行ってきます」

シャハルが出て行くと、ハンムラビは一定の距離を保ちながらその後を追い始め、トビラスは呆れながらこの状況に何の意味があるのかと問い質した。

「何と微笑ましい。意味ならあるぞ、こうして後ろから温かく見守るという」

トビラスは一旦溜め息を吐くと、就学を理由に来年以降はシャハルを連れて来ないことを念押しし、夢中になっていたハンムラビは生返事で了承した。その後もハンムラビはトビラスらを引き連れ、引き続き物陰に隠れながらシャハルの後をつけていたが、折り悪く横断歩道に引っ掛かり、一人だけ先に渡ったシャハルが向こう側で急に走り出した。その姿をあっという間に見失ったところで、再び無線に連絡が入った。

「申し上げます。ソピリヤ様が迷子を発見されました」

「まさかシャハルでは無かろうな」

「違います。ですが、イェノイェだそうです」




 アナンとセウロラは途中で焼き栗を買い、ウラシッドとは双璧を成すとされる武家クルガノイの番所に到着した。

「イェノイェのがきんちょだと。ここには来ていない」

ハルシヤを探して窓口を尋ねると、クルガノイの迷子担当者はあからさまに嫌そうな顔をした。アナンは焼き栗を一掴み担当者に押し付けると、残り全部の焼き栗と非通知を条件にして電話を借りることに成功した。

「こちらアナンです。ご無沙汰しています。実は迷子探しで、街の番所に問い合わせしたいのですが。ええ、はい、大丈夫です。ありがとうございました」

アナンは血印状の余白に電話番号を書き取り、今度はその番号にかけ直した。

「迷子の照会をお願いします。名前はハルシヤ=イェノイェ、年は6つ。……えっ、そっちにも居ない。あー、ちょっと待ってくれ。火急の用件を思い出した。護衛部隊の無線で、守上様の秘書のトビラス=イェノイェに繋いでくれないか。そうそう。俺の名前はアナン」

待つ間、アナンは机を指先で軽く叩き続けた。

「トビラスさんですか、嗚呼…もうご存じでしたか。はい、仰る通りです。失礼します……」

アナンは受話器を下ろし、横で聴いていたセウロラに向き直った。

「あー、ハルシヤはもう保護されてて、迎えも行かなくていいらしい」

アナンとセウロラはクルガノイの番所を出た。

「何か腹に溜まるもんでも買いに行くか。セウロラ、何がいい」

「角煮饅頭」

食べ物屋台が多く集まる通りに向かい、まずはセウロラの希望を叶えると、アナンは他の屋台の物色を始めた。

「おっ、香辛料煮も良いな」

「えー、真っ赤っ赤。辛いんでしょう、わたしは要らない」

「赤いのはトマトって奴だぞ。心配ねえよ。唐辛子は入ってない」

空腹を満たして、そろそろ帰ろうかとくじの屋台まで歩いていたアナンは、再びウラシッド兵の姿を見て取ると、セウロラを連れて元来た道を引き返した。

「しまった、鶏汁買うのを忘れてた」

「まだ食べるの」

そのしばらく後に通り掛かったシャハルは、くじ引き屋台の前でハルシヤを発見した。

「ハルシヤ見っけ」



 アナンはセウロラを連れて適度に時間を潰し、頃合いを見計らってくじの屋台に向かった。既にウラシッド兵の姿は無く、一安心して店主に声を掛け、景品授受の後、セウロラは約束のおまけとして、くじの屋台に飾られていた瓶船を所望した。店主が宣伝も兼ねて鐘を鳴らし、実は近くに立っていたハルシヤに見付かった。トビラスに連れられたシャハルとハルシヤとも合流し、連れ立ってハルシヤを家まで送り届けると、応対したフラムにトビラスが事情を説明した。

「トビラスさん。あの、今はうちの人も出払っているので。そういう大変なことは、私だけではちょっとですね…」

「そうですね。ええ、わかりました。フラムさん。日を改めて、またお伺いします。今度はタハエが在宅の折に」





帰宅してすぐ、シャハルは柱にしがみついて抵抗した。

「やだ、面倒くさい。後で入る」

「いつ入ったって変わらないだろ。薪がもったいない」

アナンは後ろから引っ張り、引き摺ってでも風呂に連れて行こうと頑張ったが、シャハルはますます意固地になり、梃子でも動かなくなった。

「嫌だー、お母さんと入るー」

「レラムさんとってお前、セウロラも合わせて三人だぞ。狭い狭い」

シャハルはそう言われて、思い付いたようにセウロラを見た。

「じゃあ、セウロラがお父さんと入ればいいんだよ」

「えっ」

セウロラは驚き、トビラスとシャハルを交互に見比べた。

「駄目だ。お前の風呂嫌いで一々駄々をこねるな」

トビラスは腰を上げると、シャハルの首根っこを捕まえて引っ張った。これにはさすがのシャハルも耐えかねて柱から手を離した。

「シャハル、これ貸してあげる」

何だか可哀想になったセウロラは、シャハルに瓶船を持たせてやった。




「帆に文字が付いてる。お父さん、これ何語。何て書いてあるの」

機嫌を直したシャハルは浴槽内から、洗髪中のトビラスに瓶船を見せたは良いが、トビラスが実際に見る間も無く手を滑らせて割ってしまった。

「はあ、全く。……セウロラには後できちんと謝るんだぞ」

「ごめんなさい……」

トビラスは割れた破片をたらいに集めようとして、指を切った。床に流れた湯に血が混じり、あっという間に広がった。

「うわ、お父さん血が」

「触るなっ」

トビラスは患部を庇い、手を伸ばしたシャハルを一喝した。

「どうされましたかっ」

シャハルは浴槽内に手を引っ込め、風呂釜を焚いていたアナンが、何事かと血相を変えて浴室の台所に面した扉を開けた。

「アナン、土足でシャハルを連れ出せ。割れた硝子で血が出た」

「かしこまりました。すぐに靴を履き替えて参ります」

アナンは扉を開け放したまま、突っ掛けで段差を駆け降り、台所に脱ぎ捨てて玄関に走ると、自分の履き物を靴底まで確認してから握り締め、台所に引き返した。


「ほら、ちゃんと掴まれ。掴まったか、良し。せーのっ」

アナンがシャハルを抱きかかえて退出すると、入れ替わるようにしてレラムがトビラスの履き物を差し入れた。

「ほら。貴方も出て来て。手当てしないと」

「ありがとう。手当てなら自分で出来るよ」

台所の近くではレラムに頼まれたセウロラが、更衣室から運んで来た手拭いをシャハルに渡していた。

「ありがとうセウロラ。…ごめんね。瓶船、手が滑って割っちゃった」

「いいよ。あれは四輪平衡車のおまけだし」

セウロラに謝ったのは良いが、その後ろくに体も拭かず着替えに向かうシャハルをアナンが追いかけた。

「待て、床が濡れる。シャハル、身体はちゃんと拭けって」

セウロラがアナンとシャハルの攻防に笑っていると、後ろから物音がして、遅れて浴室を出て来たトビラスの不審点に気が付いた。

「トビラスさん、その腕……」

トビラスの両腕には無数の完治した傷跡が刻まれていた。付き添っていたレラムが思わず自分の額に手を当てたが、セウロラは気が付かなかった。

「ああ、これか。驚いただろう、瀉血の跡だ」

「シャケツって、何ですか」

「治療法の一種なの。わざと腕を切って、悪い血を身体から抜いて、病気や怪我を治すの」

「そうなんですか……でも、すごく痛そう」

「もちろん、痛くないことは無かったよ。しかし、これも自分の支払うべき代償だと思えば、乗り越えられた。だからこそ今があるんだ。私はむしろ、感謝しているくらいだよ」


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