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伍拾弐

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 「あれ……?」

 押し開いた先はただの板張りの部屋だった。
 真ん中に台座があり、そこに飾りたてられた巨大な神鏡があるだけである。

 部屋に入ると、後ろの扉がバタンと閉まった。
 その時、部屋が一気に様変わりをした。

 広がりゆく、宇宙空間。
 足元がぐらついて倒れそうになる。
 そこは正しく異空間だった。

 空間認識能力がぐるぐる回り、祭壇の大きな神鏡に自分の姿が映った。
 自分の唇が勝手に動き、言葉を紡いでいく。

 「【綾紋姫よ、よくぞ参った】」

 はっとなって口に手を当てる。
 鏡の中の自分は、自分である筈なのに、自分ではないような印象を受ける。

 「もしかして、神様ですか」

 恐る恐る鏡の向こうの自分を見つめて言うと、また口が勝手に動いた。
 何これ気持ち悪い。

 「【然り。我は『ヒルコ』】」

 「ヒルコ……?」

 ヒルコと言えば、伊邪那岐と伊邪那美の第一子。
 しかし女の伊邪那美から声を掛けてしまったので正常でない子供になってしまった。

 ヒルコは舟に乗せられて、海の彼方へ流されていってしまった。
 そういう神話がある。

 【しかり。それは龍の国に伝えられし神話である】

 これ以上鏡の中の自分と目を合わせていると、発狂しそうだと思って目を逸らす。
 すると、口が自動で動くのは止まったが、疑問を思うのと同時に自分の内側からその答えがふっと浮かんでくる様になった。

 あの、託宣の真意は?

 【宣託は、言霊によって成される。それは、一つの道のみを指しているのではない】

 どういうことだろう。

 【言霊には力があり、一つの言葉に秘められた意味は一つだけではない。如何なる形であれ、宣託は成就する】

 『今に来たらむ魔』っていうのは何。

 【そう遠くない未来において、外つ国よりこの火水蛭島ひひるがしまに魔がやってくる。外つ国の人に潜み、日ノ本の民が見た事もない強大な力を以てこの島を我が物にせんとやってくる。人に紋術を与えた時、五紋のみにしたのは争いを激しくさせぬため。だが、魔が来るとなれば今の五紋のみでは到底太刀打ちできないだろう。より多くの紋を人に授けねばならない。その為に綾紋姫は呼ばれた。どのような形であれ、姫とその夫になる者が諸紋の祖となるだろう】

 元寇のような事でも起きるのだろうか、と思うと、もっと酷いものだと答えが浮かぶ。

 あちらの日本から他の家紋を呼び出す礎として、私と言うポータルが必要。
 二つの世界同士の血を混ぜる事で霊的な繋がりが出来る、そういう事らしい。

 そして、人間からすれば遥かな昔。
 まだ二つの日本の境目がはっきりしていない時代から、これは決められていた。

 心の奥からそのように伝わって来る。

 神様の力だけで何とかしようとしたら世界が歪み、天変地異が起こる。
 これが一番犠牲が少なく、効率が良い方法なのだと。

 ふと、何故自分が木瓜紋を使えるようになったのだろうと思うと、

 【神の力と一族の霊的守護の賜物なり】

 ……神社で守護を受けた事と、図らずも木瓜の一族の先祖供養をしていた事が原因だったらしい。

 でも、それでも私が帰るって選択をしたらどうなるんだろう。

 【我が火和水蛭子かわひらこ島とアマテラスが秋津あきつ島は表裏一体。この国が魔に侵されればやがてその影響は秋津島にも出るだろう】

 影響……?

 【同じようなことが秋津島にも起こる。外つ国より侵略され、多くの民が死ぬ。綾紋姫の一族のみならず家族もまた。それだけではない。日本国そのものが無くなるであろう】

 そんな、と思う。

 【今この時、この瞬間において。綾紋姫はただ一人。五紋を持つ一族の内、どの男を何人夫にしても構わない。また、二つの世の終焉を覚悟して帰るならばそれも運命さだめ。魔による災厄の滅びはそのままに、この世における託宣も綾子姫の存在の記憶もはじめから無かった事となるであろう。すべては、綾紋姫の選択に委ねられている】

 それを最後に、それまで広がっていた宇宙空間が初めから無かったかのように雲散霧消した。
 残されたのは大きな神鏡。

 覗き込んでみても口が勝手に動く事もなく、ただの鏡だった。
 私はよろよろと座り込んで、自分がどうしたいのかをじっと考える。

 あちらで積み重ねて来た人生。やりたかった事。
 友達の顔、家族の顔。
 それらが怒涛の如く浮かんでは消えていく。

 未練がないと言えば嘘になる。

 けれども何故か、元の世界から引き離したヒルコに対する憎しみとかは全く浮かばなかった。
 ただ、最後の最後に、親孝行出来なくなったなぁ、と虚しさや諦めに似た感情が出て来ただけ。

 恐らく、心のどこかで。
 もうとっくにどうするかを決めていたのかも知れない。


***


 それから。

 私は正式に桐の一族に皇族の姫として迎えられ、朽木綾子改め桐生綾子になった。
 桐生彰道の妹という形である。

 私が自分の道を選んでから、その為の支度が色々あるというので暫くの間御所にご厄介になった。

 そうそう、斎宮様は桐生彰道の妹姫だった事が判明。

 お見舞いに行かせて貰った時にふと思いついたので、桐紋の『切る』力で鉛毒を体から『切り』離したらどうかと提案してみる。
 するとそれが良かったらしく、今は順調に回復している。

 他の鉛中毒で苦しんでいる人達もそれで救われていると聞いた。

 斎宮様の体調が安定し始めた時、義理の姉妹になった挨拶をしに行って色々お話をさせてもらった。
 実は斎宮様、言葉こそあまり交わさないが、いつも見舞いに来る兄の後ろに控えている三葉利政に恋をしていたらしい。

 自分の身分や立場、病の為に叶わぬ恋と諦めていたとか。
 しかし綾紋姫が私だと分かった事と病から回復しつつある事で、その希望が持てたと涙ながらに感謝された。

 本当に良かったと思う。
 そんな日々もあっという間に過ぎて行き、やがて御所を離れる日がやってきた。

 全身白い十二単に身を固めた私は、お上や斎宮様、女官の人達等お世話になった人たちに挨拶をして回った。
 それが済むと着物が汚れないようにまとめて貰い、桐生彰道と三葉利政の待つ御所の庭へ行く。

 上下左右を浮かんだ青白い片喰紋に囲まれる。
 それが回転を始めると、移動は一瞬だった。

 片喰紋が役目を終えて消えると、その場に集まっていたらしい大勢の人々がわっと歓声を上げる。
 武官の黒い衣冠束帯を身に纏ったその人が、中央に進み出て私に手を差し伸べた。

 その手を取って向き直ると、敷かれていた毛氈の上に二人で畏まる。
 桐生彰道が巻物を恭しく広げ、私を降嫁させる旨の勅令を声高らかに読み上げた。

 「この巣守隆康、御言みことかしこみてうけたまはらむ」

 その人、巣守隆康が感極まったような涙声で平伏すると、最初上がったのよりも遥かに大きな歓声が湧いた。
 お萬が泣いているのが見える。私も喜びに涙が込み上げて来た。

 とうとう帰って来たんだ、この弥栄城へ!
 愛する人の本当の妻になる為に。


【後書き】
※ヒルコの言葉が現代語なのは、綾子の魂から言葉を引き出して使っているからです。

「この巣守隆康、御言みことかしこみてうけたまはらむ」
→「この巣守隆康、勅命を謹んでお受けいたしましょう」
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