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「ただい、ま……」

 暗い部屋。無音。無臭。人の気配も無い。
 だが、そんなこと気にせずに少女はランドセルを置き、手を洗い、宿題を始めた。
 背後の棚には、家族写真が置かれていた。
 優しそうな母。厳しそうな父。そして──可愛らしい娘。

「お母さん、お父さん……」

 机に向かっている少女の目から、自然に涙が溢れた。
 プリントに書かれた「古崎 灯ふるさき あかり」の文字が滲む。
 少女は、母が作ってくれた唯一の人形を抱きしめた。


 ◆


「ふあ~あ、おはよう」

 窓の外で、雀がチュンチュンと鳴いている。薄い布団を畳んで、日和は部屋を出た。
 テーブルに置かれたパンを口に放り込む。何口か食べたところで、日和はパンを持って再び部屋に入る。

「おはよう、ピヨ。パン置いておくよ」

 日和はパンをピヨの入っている段ボール箱のそばに置く。
 すると、ピヨはぱちっと目を開いた。

「あ、日和!おはよう」
「おはよう。今日は日曜日だから、学校には行かないよ」

 そう。今日は日和にとって唯一の休日・日曜日。
 日曜日も父は仕事で、早くに出ていってしまった。

「じゃあ、虐められずに済むね」

 ピヨは安心した顔だ。だが、相変わらず日和は笑顔を見せない。
 気付けば、日和は私服に着替えていた。

「今日はちょっと、出かける」


 ◆


 日差しが強い。歩幅の狭い足取りで、コンクリートの道を歩く。

「今日は何で外に?」
「ちょっと、用事が」

 日和は短く答える。熱くなったコンクリートを踏みつけて、すたすたと真っすぐ進んでいく。

 
 着いたのは──ペットショップ。
 
「──え?」

 ピヨは困惑した様子で、ペットショップと日和を見比べる。
 日和は無関心にペットショップへ入っていく。
 建物内は涼しく、冷房が効いていた。猫や犬がいて、それを見ている客もいるが、日和は一直線にどこかへ向かっていた。

「……あ」

 ペットショップの一角──ペットフードのコーナーを見ていた日和は、その中の一つの袋を持って、レジに向かった。

「これ、下さい」

 そう言って店員に出したのは──鳥用フード。インコやオウムが食べる、ペットフードだ。

「五百三十円になります」
「はい」

 日和は五百円玉一枚と十円玉三枚を出して、店員からレシートと袋を受け取った。
 
「ありがとうございましたー」

 店員の声も聞かずに、日和は足早にペットショップを出た。しばらく歩いたところで、ピヨが急に叫んだ。

「ちょっと!何買ってんの!?」
「え。ピヨのご飯を……」

 すると、ピヨは日和の頬をつねった。そして怒声。

「私の事は気を遣わないでいいから!気にしないで!」
「っ──あはは」

 日和が笑うと、ピヨは急につねっている脚を離した。
 ──笑っている。これは、作り笑いではない。本当の笑いだ。

「あはははは、怒ってるピヨ、可愛い……!」

 ピヨは思わず、日和と同じように笑ってしまった。
 その瞬間。二人はハッとした。
 どこかで、楽しそうな声が沢山聞こえたからだ。

「何、この声……」
「あ、あれ!」

 ピヨが羽で差した方には、人だかり──と言うには広すぎる、何らかの集いがあった。
 男性や女性が沢山いて、笑いながら何かをしている。
 
「何、あれ……」

 日和が困惑した声を出して周りを見渡すと、大きな看板があった。そこには、「市内大運動会」と太字で書かれていた。
 その下にはプログラムが書いてあり、「借り物競争」や「飴食い競争」などと沢山の種目が書いてあった。
 その先には広場があって、多くの大人や子供、高齢者までもが運動会に参加していた。

「市内運動会、か。別に関係ないし、帰る、よ……」

 日和がまた歩き出そうとした瞬間、動きが止まった。
 誰かに、腕を掴まれたのだ。日和は驚いて、腕を掴んだ人を見る。

「よう、お嬢ちゃん。見ない顔だね」

 大柄だが、性格は良さそうな男性が、日和に話しかけてきた。
 ピヨは怖いようで、うるうるとした目で日和の背中にしがみついている。

「は、はい……普段、あまり外出しないので」
「そうかい。だったら──」

 日和の顔からさーっと血の気が引いていく。

「あれ、やって行くかい?」

 そう言って男性が指差した先には、そう──運動会の会場の広場。
 日和もピヨと同様にうるうるした目になり、「いや、私は……」と呟いたが、もう遅かった。

「さあ、行くぜ!」

 日和は無理やり、男性に引っ張られて運動会に参加することになった。


 ◆


「第三種目、飴食い競争ー!」

 司会の元気の良い声が拡声器から出る。
 広場の真ん中に位置する、運動会のスペース。数多あまたの人が円形に座り、その中心で競技をするようだ。

「皆さんご存知、粉の中から一粒の飴を見つけるゲーム!それを今回は、市内の子供たちがやってくれまーす!」

 三つのテーブルの上に、白い粉が満帆まんぱんに入っている、ボウルが六つ置かれている。
 それぞれのボウルの前には子供がおり、わくわくした目でボウルを見つめている。
 だが、ただ一人、一筋の光も無い目でそれを見つめる子供がいた。
 ──日和だ。
 
「さあ飴食い競争、よーい、スタートォ!」

 司会の声が広場に響き、一斉に子供たちはボウルに顔を突っ込んだ。早い人ではもう雨を見つけている子供もいて、顔を粉だらけの真っ白にしている。
 だが、日和だけは動いていない。

「やりたくない……目立ちたくない……」

 ぶつぶつと何かを呟いている日和を見た男性は、日和に駆け寄った。

「いやー、お嬢ちゃん。一人だけ風邪で来れなくなっちゃってね。代役を探してたんだけど、丁度良かったよ。お嬢ちゃんがいてくれて」

 ベラベラと男性が話す間も、日和は暗い顔をしている。男性は相変わらず笑顔で、日和の頭を掴んだ。

「まあまあ、やってみようじゃないか」
「あっ──ぼふっ」

 頭を真っすぐ下げられ──ボウルに突っ込んだ。その後もぐりぐりと頭を回され、しばらく経った頃。

「さあ、そろそろ見つかったかなぁ?」

 頭を再び上げると、日和の口には飴が入っていた。
 そして──日和の顔や髪、服は真っ白になっていた。

「おおっ、予想通り粉まみれだねぇ」

 ポケットのピヨは、粉まみれの日和を優しく見守っていた。
 
 日和はさらに、「借り物競争」や「リレー」など、沢山の競技に出た。

「さあ、市内大運動会、終了~~~!!」 

 司会の声が再び聞こえる。と同時に、日和は駆け出した。まだ髪に付いている粉をふり撒いて。

「──最後までいなくて良いの?」

 ピヨが訊いてきたが、日和は無視して走り続けた。
 涙と粉を、ふり撒いて。


 ◆


「綺麗、だね……」

 夜。夜空。星が沢山出て、雲一つ無い。ピヨを手に乗せて、日和はゆっくりと歩く。

「綺麗だね。こんな夜空、一度でも良いから見てみたかったよ」

 ピヨも呟き、日和を見る。まるで、遥か遠くを見つめるような眼差しで、夜空を眺めている。
 ピヨは日和の頭にちょこんと飛び乗り、同じように夜空を見た。
 
「──このままゆっくり、時だけが過ぎれ良いのに」

 ピヨはちらりと日和を見る。前髪に隠れて目元は見えないが、きっと──暗い顔をしているに違いない。
 少しだけ微笑んだ口元は、自然と寂しそうな笑い顔に見えてしまうのは何故か。

「──ねえ、ピヨ。いつかきっと、私を殺してくれるよね」

 頭上のピヨをひょいと持ち上げて、顔の前に持ってくる。

「絶対に、絶対に殺してくれるよね──?」

 日和の瞳は、死の願望がある少女とは思えないほど美しかった。
 ピヨは一瞬、息が詰まった。だけど、すぐに答えた。

「──うん!絶対に、私は日和を殺すから!」

 再び、苦し紛れの笑顔。
 だが日和は笑顔を見せた。
 その笑顔は、眩しいほどに──。

「あー、本当にいんじゃん。あばずれが」

 聞いたことのある声がした。
 道の先。月光が差して彼女の存在をより際立たせる。

「灯、ちゃん」

 灯は日和を見下ろして、ふっと笑った。
 
 



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