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第五章 夫妻、帝城へ行く

57、夫、考える

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「……ですから、ここにサインしてくだされば解放いたしますので。書類はほら、ここに用意してありますし、次のお相手もいくらでも帝国貴族の娘を斡旋して差し上げますから」
 
「手も縛られてるのだが?」

 どうやってサインするのか、とこれみよがしに縄が巻きついている身体を揺すれば、目の前のタレ目の男がこちらを見下ろして嫌な笑いを浮かべた。僕より十くらい年上だろうか、細身で抜け目がなさそうな顔をしている。

「ああ、そうでしたな。では、皇太子殿下と交わした契約を破棄してシルフィア様と離縁すると先に誓ってください。そうすれば縄を解いてサインできるように致しましょう」
「私がそんなことを言うと思うか?」
「それでは解放して差し上げられませんなぁ」

 たとえ嘘でもシルフィアと別れるなんて言うものか、と口をつぐむ僕をニタニタと笑って見下ろす男を眺めながら、お前に縄をほどいてもらおうなんて思ってないよ、と心の中だけで毒づく。

 僕が知りたいのは妻の居場所だけなんだ。


 僕の予想は当たっていて、見張りとして初めからいた男以外の二人が来て後、現在までオネスト殿下の側近共から例の契約を破棄した上でシルフィアと円満離婚しろと脅されている。

 当然、僕は離婚などする気がないので拒否し続け、おかげでずっと堂々巡りをしている。

 話しながら、彼らのあまり焦っていないような態度が気になっていた。しかし、僕はシルフィアの身の安全を優先して、確実に居場所を探り出そうと内心煮えたぎっている怒りを抑えてあくまで穏やかに会話を続ける努力をしていた。

 ……まだ、爆発させてはいけない。冷静に対処しなくては。

 そんな胸の内を知らない男達は僕を見下ろして悦に入っている。自分達が優位だと疑っていないらしい。

「テオドール殿は他にいくらでも良いご令嬢がおられるでしょう。うちの殿下は変わってるからシルフィア様しかいないんですよ、譲ってくださいよ」
「私だってシルフィア以外いないんだよ。大体、オネスト殿下なら国外の姫でも帝国貴族の娘でも誰でもくるだろ」
「ですから、誰彼構わずアレを言って回るわけにはいかないでしょうが!」
「アレって女装? 別にバレても問題ないだろ。現にうちの妹も妻も全く気にしていない」

 人に害はない趣味だよね、と付け加えればバカにしたように首を振って返された。

「小さな国の貴族程度のご身分ではおわかりにならないのでしょうが、この強大な帝国の皇太子があんなことをするなんて絶対に知られる訳にはいかないのです! 一体全体、殿下はどうしてああなってしまったのか……アレさえなければ完璧なのに」

 この人は自分達のそういうところが彼を追い詰めたと、いつになったら気づくのだろうか。

「大体、我々を通していないあのような馬鹿げた契約は無効ですよ」

「ほう? 無効だというのなら私と妻をその権力で持って別れさせてみるがいい。帝国皇太子とハーフェルト家当主と次期当主が正式に取り交わし、直筆でサインした契約書を本当に無視できるならな」

 それができないからこうしているのだろうが、と相手の神経を逆撫でするように口の端を上げて薄く笑う。

 僕の視線と言葉でぐっと不快げに黙ったタレ目の男の代わりに、今度はその横の眉の太い男がぐいと顔を近づけてまくし立てた。こちらは腹がドンと出ていて歩くのも億劫そうだ。

「だって、この内容おかしいでしょ!? なんでシルフィア様が離婚してうちの殿下と結婚したら『一生会えない』なんですか!? こんな契約ありえませんよ」

「シルフィアには手を出すな、ってことだよ。ウマやシカにだってわかることだろ?」
 
 爽やか(に見えるらしい)笑みで馬鹿にすれば相手はわかりやすく激高した。

「たかだか隣国の一貴族の息子のくせに、帝国貴族であり皇太子側近である我々に逆らうのか!」
「逆らうさ。お前達は貴族として人々の見本になるべく振る舞うどころか、非常に身勝手な理由で権力を振りかざし、仲良く暮らしている新婚夫婦を脅して別れさせようとしている。帝国皇太子側近? 聞いて呆れる、よくもここまで腐り落ちたものだ!」

「なんだと!? ハーフェルト公爵の息子だからと下手に出てやればつけあがりやがって!」

 いきなりガッと顔に衝撃が来た。蹴り上げられたらしい。

 ……なんとも考えなしなことをするものだ。

 痛みより笑いが込み上げて来た。耐えきれずハハッと声が漏れてしまい、それが更に奴らの神経を逆なでしたらしい。

 今度は腹を蹴られ縛りつけられていた椅子ごと倒される。咄嗟に頭を持ち上げて石の床にぶつかるのを回避する。

「自分達が何をやっているか、よくよく考えたほうがいい。まあ、今更取り返しがつくことではないが」

 床に転がったまま親切に忠告してやれば、今まで黙って部屋の角にへばりついていた、まだ幼さの残る丸顔の男が怯えたようにこちらを見た。

 僕と……いや、シルフィアと同じ年齢くらいか?

 こいつから落とそう。とっさに決めて真っ直ぐにそいつの目を見て一言。

「忘れたのか、私の父が『溺愛公爵』と呼ばれていることを。その息子がただ一人と決めた相手とそう簡単に別れると思うか?」

 僕だって父に負けず劣らず妻を溺愛してるんだ。別れさせようとするなら全力で抵抗するに決まってる。

「あ、あのテオドール様。でも、シルフィア様のことはもう諦めたほうがいいと思います」

 オドオドと丸顔の男が動いたと思ったら意味深なことを言ってきた。どういうことだ、と目を眇めたらそいつは目をつぶって大声で叫んだ。

「だって、シルフィア様は今頃もうオネスト殿下のものになっているからです!」
「…………は?」
「やめろ、それはまだ言うな!」
 
 タレ目の男が怒鳴ったが丸顔は止まらなかった。

「だって僕たち、シルフィア様を殿下のベッドに寝かせてきたのですから!」
「……え、ベッド?」

 つまり、僕の妻であるシルフィアは、城内の何処かの部屋に監禁されているのではなく、手っ取り早く殿下の寝室に放り込まれたと。

「なるほど……?」

 ブチッと何かが派手に切れる音がした。

「よくもまあそんなあくどいことを実行したものだ」
「お前っ、縄はっ!? オイ、よく縛っとけと言っただろうが」

 縄を片手にフラッと立ち上がった僕を見て男達が驚愕している。視界の端で太眉の男に丸顔が殴られていたが、彼はちゃんと任務を全うしていた。相手が僕だったから何の意味もなかっただけで。

「知ってるだろ? 我が家は狙われやすいんだから、縄抜けくらいできるんだよ。そんなことより、お前達は本当にシルフィアをオネスト殿下のベッドに放り込んだのか?」

 丸顔の男がハイ、確実にとしっかり頷くのを確認して右足を上げた。

 ヒュッという音とともに、眉の太い男が右の壁に向かって飛んでいった。男はろくな受け身も取らず石でできた壁にぶち当たる。二歩でそこへ行き、襟首をグッと握って持ち上げ顔を近づけてニッコリと笑顔を作る。

「残念だったね。オネスト殿下は『妹』に手は出さないよ。今頃二人でお茶でも飲んで喋ってるんじゃない?」

 そのあたりは彼を信用している。シルフィアが今殿下といるならある意味安心だ。

「そんなはずはない! ちゃんと誘惑出来るよう着替えを……ゔぁッ」
「う……わッ」

 とんでもない内容を叫んだタレ目を巻き込んで太い眉の男が今度は反対側の壁に向かって飛んでいった。そいつらの元へ手をはたきながら近づいていく。

「そう……シルフィアに着替えまでさせたの。彼女、意識がなかったよね? 誰がやったの? 手、挙げて?」

 笑顔のまま歩み寄っていけば二人は抱き合って首を振った。

「「俺達じゃない!」」
 
 じゃ、丸顔かとそちらを向けば彼も大きく横に首を振って否定した。

「や、やや雇ったメイドにさせたんです! 皇太子妃殿下になられる方へそのような不敬は出来ませんから!」
「ふーん。シルフィアはそんなものにはならないけどね」
「でもっ殿下が手を出していたら皇太子妃殿下ですよね?」
「それは絶対にない。あの人はお前達と違って人の妻を寝取ったりしない」

 壁を背に座り込んだまま、未だに抱きしめ合う男二人の顔の横の壁にガンッと足を叩きつける。こちらの殺意を察したのか、二人は情けなく震え上がって早口で叫ぶ。

「わかった! もう離婚しなくていいから殿下の部屋からシルフィア様を連れて帰れ。俺達の計画が無駄になって妻が無事なんだからこれで終わりでいいだろ!?」

 ふざけきった台詞に、笑顔を消して覗き込む。

「何を言っているの? これだけのことをして許されると?」
「でも、シルフィア様に何もなかったわけですから……」
「何も? ふざけるな! いきなり見知らぬ場所、しかも夫以外の男の寝室に放り込まれた彼女の気持ちを考えろ!」

 そんな場所で意識を取り戻したシルフィアがどれだけ怖い思いをしたか、想像するだけで心が痛くなる。そして、それを防げなかった自分にとんでもなく腹が立つ。

 再度ガッと壁を蹴りつけ怯える男たちを順に睨みつけていく。

 今日、シルフィアは初めて養父母に会ってあんなに楽しそうだったのに。……こいつらが暴走さえしなければ!

 怒りのままに目の前の眉の太い男の襟を掴み上げた、その時。バタンと扉の開く音がした。

「テオ!」

 聞こえてきた声に全身が総毛立つ。

 シルフィア? なんでここに!? しまった、こんなところを見せたら怖がらせてしまう!

 全力でこちらへ走ってくる彼女を認めた瞬間、僕の手は男を壁へ放り投げていた。

 ……暴力行為はなかったことにしよう。
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