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傷心

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 二人に距離ができて一ヶ月の時が経った。朔也は未だに核心の話を小夜に伝えられなかった。絢香の言う『せこい』状態が続いていた。怖かった。酔っていたこととはいえ、強姦じみたことをした男が、怖がられないわけがない。想いを伝えるなんてことをしても拒まれるのがオチだと思い込んでいた。だが、手放すこともできなかった。朔也の人生の中で、これほどまで没入するように好きになった女性はいなかったからだ。小夜の感触を知ってしまった今、余計に触れたいと思うようになってしまい、狂気が爆発しそうになっていた。しかし、小夜をこれ以上怖がらせたくない。触れないように、近づかないように努力はしても、小夜を解雇して手放すとなると胸が裂かれる想いだった。「まだ。もう少し。」その思いが、朔也の決断を延長させていた。
 一方、小夜は意外にも落ち着いていた。この距離のままでいいと思い始めていたのだ。酔いで記憶が無くなったとしても、少しは何か話すはずだ。朔也が何も言わないのは、きっと自分に気が無く、あの日のことを無かったことにしようとしているからだと思っていた。想いを伝えて「そんな気は無かった」などと言われてしまったら、立ち直れる自信がない。ならば、このまま、ただ好きな人の側にいたい。そう思い始めていた。
 休日、昼。小夜は壊れた店の装飾を直そうと、棚上にある工具セットに手を伸ばしていた。朔也に頼まれた訳では無いが、気づいたことは率先してやるようにしていた。工具セットを使ったことはないが、以前、佐藤が使っていたのを見たので自分でやれると判断し、手を伸ばした。棚上と言っても、そこまで高くなく小夜の身長でも届く高さだった。しかし、工具セットはかなりの重さで少し危なさを感じた。

(結構、危ないかな…)

小夜がゆっくりと工具セットを取り出していると、後ろから朔也の手が現れ、工具セットを軽々持った。小夜は急に朔也の手が近くに来たので、肩をすくめて驚いてしまった。ここ最近で一番近い距離だった。小夜は落ち着いていると言っても、胸の高鳴りや赤面が無くせたわけではない。この時もまた小夜は鼓動をうるさくし、顔を赤くした。その様子を見た朔也は怯えていると勘違いをし、すぐに体を遠ざけた。

「こんな物、何に使うんだ?危ないだろ。」
「…え、えっと。ほら表の花壇の装飾が取れてたから、つけようとしたの。」

朔也は工具セットをカウンターに置くと、花壇に目を向けた。

「あれか。いいよ。新しいの買うから。」
「…そっか。」
「ありがとな。でも、重たいもの持つ時は俺を呼べ。危なっかしいんだよ。」
「はい。」

朔也は微笑みながら、小夜の頭を触ろうとしたが、咄嗟に手を引き、作業部屋に向かった。小夜はその動きに、明らかに距離を取られていることを感じ、心臓に刺繍針を刺されたような痛みを感じた。
 朔也の声が作業部屋から聞こえる。きっと取引先と話しているのだろう。小夜は置かれた工具セットを重たそうに持ち上げた。

ーーーー次の日 空き教室ーーーー

 香と紬は小夜と朔也がすれ違っていることを知らない。球技大会が終わってから初めての昼食時に絢香のことは報告したが、朔也のことは流石に言えなかった。
 香は相変わらず、大きな口を開け笑い、紬も楽しそうにしている。小夜も二人といるこの時間が唯一の安らぎだった。

「小夜。」
「ん?」

香は二枚のチケットを取り出して、小夜の前に置いた。

「水族館?」
「そう。彼氏と行こうと思ってたらお互い、一緒に買っちゃってさ。二枚余ったからやるよ。店長さんと行って来い。」
「え?」
「最近、あんま店長さんのこと話さないってことは、なんかあったんだろ?」
「……。」
「話せないなら話さなくていい。」

小夜は渋々とチケットを手に取り、小さな声でお礼を言った。

「何ならそこで告白してみなよ。」
「こ、告白!?」
「言わないと伝わらないぞ?言っても伝わらないなら、伝わるまで言い続ければ良い!」
「そうだよ。小夜ちゃん。香ちゃんが言うようにダメでも伝えなきゃ!一生後悔するよ!」

紬と香は小夜を激励し、笑った。小夜の表情は自然と柔らかくなった。小夜は臆病になった心をまたもや二人に押されたのだ。小夜は水族館のチケットを見て、朔也と楽しんでいる自分の姿を想像した。

~帰り道~

小夜は足取り軽く店に向かっていた。もちろん横には武流もいたが、頭の中はどうやって誘おうかでいっぱいだった。

「武流。」
「なんだ?」
「ブリオニー水族館って行ったことある?」
「行ったことは無いけど、カップルに人気とは聞いたことがあるぞ。」
「そ、そっか。」

小夜はデレ全開でにやついていた。

「何だよ。花屋のやつと行くのかよ。」
「誘おうかなって思ってるんだよね。」
「ふーん。あっそ。」

 小夜が妄想を膨らませていると、いつの間にか店に着いていた。しかし、店の表玄関には「臨時休業」と書かれた張り紙が貼ってあり、携帯を見ると朔也から「話がある」とのメールが届いていた。

「今日休みか。バイト無いなら帰ろうぜ。」
「話があるんだって。」
「あっそ。…どのくらいかかんの?」
「さあ?…武流は先に帰んなよ。」
「分かった…。じゃあな。」

武流が帰ったことを確認すると、小夜は裏玄関を開けて中に入った。

「ただいま。」
「おう。」

朔也は丸椅子に座り、コーヒーを飲んでいた。小夜も腰をかけようとしたが、自分用の丸椅子が無くなっていた。

「…話って何?」

朔也は小夜を見ようとせず、話を始めた。

「一月のあの日、ごめんな。怖がらせて。」

小夜は鳩尾がすくむような驚きを感じた。

「私は別に…」
「お前、もうここやめろ。」

時間が止まった。音が止まった。いや、自分自身が止まった?…わからない。が、何か大きなものが一瞬止まったのを感じた。

「最近のお前見てたら分かるよ。俺が怖いんだろ。…気使わせて悪かった。」
「違うよ…。私は怖がってなんかないよ?」
「じゃあ、なんで近づくと強張るんだよ。」
「それは…。」
「本当いいから。気使わなくて。今までありがとうな。ごめんな。」
「……き…だから。」
「ん?」

小夜は、一瞬振り向いた朔也の目を真っ直ぐ見つめ、二ヶ月溜めていた想いを声にした。

「朔也くんが好きだから!」

朔也は待ち構えていなかった告白に目を見開いて、小夜に釘付けになった。小夜は泣きそうな目で朔也を見つめ続けていた。しかし、朔也は小夜から目を逸らし、立ち上がって水場に向い、沈黙した。
 この時の朔也の気持ちは決まっていた。襲ったことを抜きにしても、小夜は側に置いておくべきではない。そう結論づけていた。小夜はまだ不安定な時期だ。小夜と気持ちが一致しても問題が付いてくるかもしれない年齢差だ。付き合うことはできない。そもそもバイト自体が学生にとって負担になるのに、やらせるべきではない。小夜にとって大切な時間を奪いたくない。何より、それを理解し、我慢しながら小夜の側にいることが一番辛い。小夜を自分から離せなければいけない。嫌われる覚悟を持って。
 朔也は深呼吸をして、小夜が傷つく言葉を選んだ。

「…ごめん。勘違いさせて。」
「………ううん。私が勝手に好きになっただけだから。」
「……。」
「でも、バイトやめなくてもいいよね?私、朔也くんのこと怖くな…」
「俺が気使うんだよ。」
「…。」
「お前といると疲れる。」

小夜は息が詰まり、意識的に呼吸をしなければ呼吸ができなかった。それでも、小夜は涙を堪えて必死に笑顔を作った。

「…そっか。分かった。…今までありがとうございました。迷惑かけて、ごめんなさい。…合鍵置いておくね。…じゃあ。」

小夜は逃げ足で店を出て行った。朔也はドアの閉まる音が響いた時、崩れるようにその場に座り込んだ。その肩は微かに震えていた。

 小夜は涙で視界をぼかしながら全速力で走った。何も考えられないようにしたかった。何も考えたくない。手足の力が抜けていく。心に大きな穴が空いていく。その全てを全部否定したくて仕方なかった。
 小夜が走っていると、急に腕を掴まれた。

「おい!何走って…」

腕を掴んだのは武流だった。武流は引き止めた小夜の泣き顔を見て、固まった。

「何があったんだよ。」
「……。」
「花野郎になんかされたのか!」
「……。」

武流が何を聞いても、小夜は涙が溢れて応えられなかった。

「あのクソ野郎……。」

武流が頭に血を昇らせ、朔也の元に行こうとした時、小夜は武流の手を両手で掴んで止めた。

「…朔也くんは、何も、悪くない。」
「じゃあ、何で泣いてんだよ!」
「フラれた…。」
「は?」

小夜は息継ぎをしながら、大粒の涙を流した。そして絞るようにして声を出していた。

「フラれたの…。フラれたんだよ…。」

武流は一瞬嬉しさを感じ、また嬉しさを感じたことに腹を立たせ、小夜の手を強く握った。
 木枯らしが吹き、夕日が沈んだ頃、小夜の初恋が終わった。
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