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四話 夢から覚めぬまま
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ゆっくりと目蓋を開いたエリーズの瞳に映ったのは、屋根裏部屋の天井ではなかった。
「えっ!?」
思わず声を発し、がばっと上半身を起こす。今エリーズがいるベッドはいつも寝ている傾きかけた古く狭いそれの三倍ほどはある。上掛けはさらさらとした手触りで柔らかく軽い。周囲は天蓋で覆われていて、まさしく貴族の娘の寝所だ。
視線を落とすと、着せられている白いネグリジェが目に入った。上質な絹でできているようで、これもまた肌触りが心地よい。
気持ちを落ち着けるために深く呼吸をしながら、昨夜に起きたことを一つずつ思い出していく。義父と義妹に誘われて夜会に行き、そこで国王のヴィオルと出会ってダンスの相手を申し込まれて、その後二人で美しい庭園を散歩して、それから――
(エリーズ、僕は君が好きだ)
王のその言葉にエリーズはすっかり舞い上がって、彼の妃になることを受け入れた。その後、初めて交わした口づけの余韻に浸り続けるエリーズの身を女官たちが預かり、丁寧に身を清めて寝かせてくれたのだ。
(ど、どうしたらいいの……)
ただの使用人に身を落とした娘が一国の王と結婚など、絶対にありえないことだ。自分はこれからどうなってしまうのか……エリーズの胸の中で不安が渦を巻く。
エリーズはゆっくりとベッドの端まで這っていき、天蓋を少し開いて辺りを見回した。いつも寝起きする屋根裏部屋とは段違いの広さだ。床は一面、金と白の糸で幾何学的な模様が刺繍されている葡萄酒色のカーペットになっている。真っ白な壁には金色の額縁に入った花や森、湖畔を描いた絵が飾られ、暖炉まである。今は火はついていないが点ほどの煤汚れもなく、手入れが行き届いていることが分かる。
深緑色のカーテンで覆われた窓のすぐ近くには、白いクロスがかけられたテーブルと、赤いベルベットが張られた三人掛けの長椅子、更に一人用の椅子が二脚備え付けられていた。他にもクローゼットや化粧台などの家具があり、いずれもかなり高級そうだ。
明らかに自分には不相応な部屋に、エリーズはすっかり萎縮してしまった。どうしたものか、と途方に暮れていると、部屋のドアをノックする控えめな音が響いた。
エリーズは急いでベッドから降りるとドアに駆け寄り開いた。音の主は一人の女性だった。年齢は二十代の半ばほどで、栗色の髪を頭の上で丁寧にまとめて紺色のお仕着せの上に真っ白な前掛けをつけている。
女性はエリーズと目が合うや否や、恭しく礼をした。
「おはようございます。エリーズ様、お休みのところ申し訳ございません」
「お、おはようございます。ついさっき起きたばかりです」
つられてエリーズも挨拶をしたところではっとした。急いでドアを開けたせいで夜着一枚に裸足というだらしない姿だ。
「ご、ごめんなさい、わたしったらこんな格好で」
女性は少しも嫌な顔をせず、穏やかに微笑んだ。
「お気になさらないで下さいませ。私はカイラと申します。本日よりエリーズ様の身の回りのお世話をさせて頂きます」
「は、はい、よろしくお願いします……」
そう答えたものの、エリーズの心は半分ほど宙に浮いているような状態だった。本当に今日からこの立派な城に住むのだという事実が信じきれない。
それに身の回りの世話をしてもらうといっても、何を頼めばいいのかエリーズにはさっぱり見当がつかない。今までのエリーズはカイラと同じく、世話をする側にいた。
戸惑うエリーズの心中を察してか、カイラは落ち着いた様子で再び口を開いた。
「朝食をお持ちしておりますので、準備をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「は、はい」
エリーズが少し後ろに下がってカイラのために道を開けると彼女は礼儀正しく頭を下げ、後ろに置いていたカートを押しながら部屋に入ってきた。カートの上のトレイには銀色の金属製の覆いが被せられている。
「おかけになってお待ちください」
カイラに言われるがままエリーズはベルベットが張られた椅子に座った。目の前のテーブルにカイラが持ってきたトレイを音を立てることなく置き、ソーサー付きのカップ、ナプキンとカトラリーをさっと並べる。
その後、彼女はトレイに被せられていた覆いを外した。エリーズの前に現れたのは、鮮やかな緑色の野菜のサラダ、卵のオムレツ、湯気を立てるスープ、宝石のように輝く果物。焼きたてのパンが入った小さな籠もある。今まで冷めた残り物ばかりを口にしていたエリーズにとっては、夢のような光景だった。
「美味しそう……」
「どうぞ、冷めないうちにお召し上がりください」
紅茶をカップに注ぎ終えたカイラが言った。
「いただきます……」
両手の指を組んで短く祈りの言葉をつぶやき、エリーズはパンに手を伸ばした。少しちぎって口に運ぶと、ほのかに甘い味が口内を満たした。
「美味しい……!」
その様子を見てカイラが微笑む。
「お食事がお済みになりましたらこちらの紐をお引きください。すぐに参ります」
彼女はそう言い、壁際に垂れ下がった紐を示した。エリーズの住んでいた屋敷にも使用人を呼ぶための同じ仕組みがある。
ごゆっくりどうぞ、とカイラは頭を下げ部屋を後にした。
その姿を見送った後、エリーズは夢中で料理を味わった。自分ではない誰かが作ったものを食べたのは何年振りだろうか。どの品も舌が蕩けそうなほどに美味しく感じられ、気づけばパンくずの一つも残さず平らげていた。
意地汚いと思われるだろうかと不安になったが、片付けに来たカイラは綺麗に空になった皿を見てどこか嬉しそうだった。
「お気に召しましたか?」
「はい、こんなに美味しいお料理は初めてです」
「良かったですわ。料理人たちが喜びます」
紅茶のお代わりをカップに注いだ後、カイラは手際よく皿やカトラリーを回収してカートに乗せた。
「お召し物の支度を致しますので、もうしばらくお待ちください」
それを聞き、エリーズははっとした。そういえば、昨日着ていたドレスはどうなったのだろう? 首に下げていた首飾りも外されている。
「あの、わたしが昨日つけていた首飾りは、どこにありますか?」
「こちらにございます」
カイラが答え、ベッドの脇に備え付けてあるサイドテーブルの上に置いてある白い小箱を手にとってエリーズに渡した。中に入っていたのは間違いなくエリーズの数少ない宝物だった。残るは母の形見のドレスだ。
「昨日着ていたドレスは……」
「お預かりしていますが、エリーズ様にはもっと質の良いものをご用意しております」
このままだと捨てられてしまうかもしれない――エリーズはがばっと椅子から立ち上がった。
「あの、捨てないでいて頂けませんか。古いものですけれどあれはお母さまの形見で……大切なものなんです」
それを聞いたカイラはまぁ、と口元に手をあて、深々と礼をした。
「事情を知らず、大変失礼致しました。ですがエリーズ様は陛下のご婚約者でいらっしゃいます故、相応のものをお召しになって頂きたく……昨夜のドレスは引き続きこちらでお預かりして、手直しをするという形でも宜しいでしょうか?」
エリーズはこくこくと頷いた。
「はい、こちらこそわがままを言ってごめんなさい……」
「とんでもございません、仰って頂けて良かったですわ。大切なものを処分してしまうところでしたから。今後も何かありましたら遠慮なくお申しつけくださいね」
カイラの優しい言葉にエリーズは思わず泣きそうになったが、ぐっとこらえた。ここでめそめそと泣いて彼女に余計な心労はかけたくない。
着替えの準備をするためカイラが退室し再びエリーズ一人になったところで、先ほどの彼女の言葉が頭をよぎった。
カイラはエリーズのことを確かに「陛下のご婚約者」と言った。もうエリーズのことは城の中では周知の事実で、婚礼の準備が始まっているのだろうか。
(わたし、本当にあのお方と結婚できるの?)
そういえばヴィオル王は今、どこで何をしているのだろう。
彼の優しい眼差しを思い出すだけで胸が高鳴る。落ち着かないまま、エリーズはカイラが戻ってくるのを待った。
***
またしばらくして、カイラはエリーズより少し年下と思われる二人の侍女を連れてやって来た。一人は取っ手がついた木製の箱を両手で抱えている。
「シェリアとルイザです。私と共にエリーズ様のお世話を任されております」
「よろしくお願い致します、エリーズ様」
「一生懸命頑張ります!」
紹介された二人の侍女が頭を下げる。こちらこそよろしくお願いします、とエリーズが言うと、少女たちはにこっと笑った。
「それではお着換えをいたしましょう」
カイラに誘われ、エリーズはまず部屋の端に置かれた姿見の前に立った。シェリアがその横にあるクローゼットを開き、エメラルド色のドレスを取り出した。昨晩のうちに準備されていたもののようだ。袖は長く、肩のところはふわりと丸くなっている。スカート部分には薄いレースがふんだんにあしらわれていた。
三人の侍女の一切無駄のない連携によりエリーズは着替えを終え、次にドレッサーの前に座った。ルイザが持ってきていた木の箱を開く。中には上等そうな化粧道具がぎっしりと入っていた。シェリアとルイザがエリーズの髪をとき、カイラが顔に化粧を施していく。
「エリーズ様の御髪はとっても綺麗ですね」
「綺麗な巻き髪って憧れです」
エリーズの緊張を解そうとしてくれているのか、少女たちは楽しそうに話しかけてくれる。笑顔で仕事をする彼女たちがエリーズには眩しく感じられた。ガルガンド家で働いていた頃のエリーズはいつも何かに追われているような気持ちで、仕事を楽しいと思えたことがなかった。
エリーズの後頭部の少し高い位置に、ルイザが丁寧に深緑色のリボンを結んだ。その間に、カイラが最後の仕上げにとバラ色の口紅をエリーズの唇に薄く塗る。
「さあ、できましたよ」
鏡を見たエリーズは、自身の変貌ぶりに唖然とした。野草のような姿は身を潜め、どこからどう見ても高貴な生まれの娘と同じになっている。
「これが、わたし?」
「陛下もきっと喜ばれますわね」
「喜ぶどころか骨抜きになること間違いなしですよ!」
「エリーズ様、お顔もお肌も本当に綺麗で羨ましいです」
口々に言う侍女たちにエリーズは向き直った。
「ありがとうございます。こんなに綺麗にして頂いて、何とお礼をしたら良いか……」
「勿体ないお言葉ですわ。エリーズ様のお手伝いができて、私どもも嬉しく思います」
カイラが優しく言い、シェリアとルイザもにこにこと頷いた。
その後、シェリアとルイザが片付けを行って部屋を去り、部屋に残ったのはエリーズとカイラだけになった。エリーズを椅子にかけさせ、カイラが取り出したのは手のひらに乗るほどの、蓋がついた壺のような形の入れ物だった。
「最後にお薬を塗らせて頂きます」
「お薬……ですか?」
「陛下が、エリーズ様の手が傷だらけだと心を痛めていらっしゃいましたので」
入れ物の蓋が外され、乳白色のどろりとした液体が顔を覗かせる。カイラがそれを指ですくい、エリーズの手指に入念にすり込んでいった。
「沁みますか?」
「いいえ、大丈夫です」
「効き目は私が保障致しますわ。城勤めの侍女は皆、これを使っております」
そういえばカイラの手はもちろん、シェリアやルイザの手も荒れは見当たらず綺麗だった。
「侍女の方もお薬を使えるのですか?」
「陛下のご厚意ですわ。陛下は良い政は、使用人の働きがあってこそ成しえるというお考えをお持ちです。ですから私どものことをとても気にかけて下さるのですよ」
ヴィオル王は使用人たちからも信頼されているのだ。それほどに立派な人物に果たして自分は相応しいのだろうか――美味しい朝食や綺麗な衣服により少し浮かれていたエリーズの心に、再び不安の芽が顔を出す。
薬を塗り終え、カイラはさっと手元を片付けた。
「この後ですが、まずは陛下の近侍の方がエリーズ様と面会をする手はずになっております。お時間になりましたらお呼びしますので、それまではごゆっくりお寛ぎになって下さい。ご用がございましたらお申しつけくださいませ」
「は、はい。ありがとうございます」
エリーズが丁寧な物腰で接されることに慣れるのにはまだ時間がかかりそうだった。
王の近侍、とはどのような人物なのだろう、もしも失礼なことをしてしまったらどうしようか――緊張の糸を断ち切ることができないまま、エリーズはしばらく窓の外を見つめていた。
「えっ!?」
思わず声を発し、がばっと上半身を起こす。今エリーズがいるベッドはいつも寝ている傾きかけた古く狭いそれの三倍ほどはある。上掛けはさらさらとした手触りで柔らかく軽い。周囲は天蓋で覆われていて、まさしく貴族の娘の寝所だ。
視線を落とすと、着せられている白いネグリジェが目に入った。上質な絹でできているようで、これもまた肌触りが心地よい。
気持ちを落ち着けるために深く呼吸をしながら、昨夜に起きたことを一つずつ思い出していく。義父と義妹に誘われて夜会に行き、そこで国王のヴィオルと出会ってダンスの相手を申し込まれて、その後二人で美しい庭園を散歩して、それから――
(エリーズ、僕は君が好きだ)
王のその言葉にエリーズはすっかり舞い上がって、彼の妃になることを受け入れた。その後、初めて交わした口づけの余韻に浸り続けるエリーズの身を女官たちが預かり、丁寧に身を清めて寝かせてくれたのだ。
(ど、どうしたらいいの……)
ただの使用人に身を落とした娘が一国の王と結婚など、絶対にありえないことだ。自分はこれからどうなってしまうのか……エリーズの胸の中で不安が渦を巻く。
エリーズはゆっくりとベッドの端まで這っていき、天蓋を少し開いて辺りを見回した。いつも寝起きする屋根裏部屋とは段違いの広さだ。床は一面、金と白の糸で幾何学的な模様が刺繍されている葡萄酒色のカーペットになっている。真っ白な壁には金色の額縁に入った花や森、湖畔を描いた絵が飾られ、暖炉まである。今は火はついていないが点ほどの煤汚れもなく、手入れが行き届いていることが分かる。
深緑色のカーテンで覆われた窓のすぐ近くには、白いクロスがかけられたテーブルと、赤いベルベットが張られた三人掛けの長椅子、更に一人用の椅子が二脚備え付けられていた。他にもクローゼットや化粧台などの家具があり、いずれもかなり高級そうだ。
明らかに自分には不相応な部屋に、エリーズはすっかり萎縮してしまった。どうしたものか、と途方に暮れていると、部屋のドアをノックする控えめな音が響いた。
エリーズは急いでベッドから降りるとドアに駆け寄り開いた。音の主は一人の女性だった。年齢は二十代の半ばほどで、栗色の髪を頭の上で丁寧にまとめて紺色のお仕着せの上に真っ白な前掛けをつけている。
女性はエリーズと目が合うや否や、恭しく礼をした。
「おはようございます。エリーズ様、お休みのところ申し訳ございません」
「お、おはようございます。ついさっき起きたばかりです」
つられてエリーズも挨拶をしたところではっとした。急いでドアを開けたせいで夜着一枚に裸足というだらしない姿だ。
「ご、ごめんなさい、わたしったらこんな格好で」
女性は少しも嫌な顔をせず、穏やかに微笑んだ。
「お気になさらないで下さいませ。私はカイラと申します。本日よりエリーズ様の身の回りのお世話をさせて頂きます」
「は、はい、よろしくお願いします……」
そう答えたものの、エリーズの心は半分ほど宙に浮いているような状態だった。本当に今日からこの立派な城に住むのだという事実が信じきれない。
それに身の回りの世話をしてもらうといっても、何を頼めばいいのかエリーズにはさっぱり見当がつかない。今までのエリーズはカイラと同じく、世話をする側にいた。
戸惑うエリーズの心中を察してか、カイラは落ち着いた様子で再び口を開いた。
「朝食をお持ちしておりますので、準備をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「は、はい」
エリーズが少し後ろに下がってカイラのために道を開けると彼女は礼儀正しく頭を下げ、後ろに置いていたカートを押しながら部屋に入ってきた。カートの上のトレイには銀色の金属製の覆いが被せられている。
「おかけになってお待ちください」
カイラに言われるがままエリーズはベルベットが張られた椅子に座った。目の前のテーブルにカイラが持ってきたトレイを音を立てることなく置き、ソーサー付きのカップ、ナプキンとカトラリーをさっと並べる。
その後、彼女はトレイに被せられていた覆いを外した。エリーズの前に現れたのは、鮮やかな緑色の野菜のサラダ、卵のオムレツ、湯気を立てるスープ、宝石のように輝く果物。焼きたてのパンが入った小さな籠もある。今まで冷めた残り物ばかりを口にしていたエリーズにとっては、夢のような光景だった。
「美味しそう……」
「どうぞ、冷めないうちにお召し上がりください」
紅茶をカップに注ぎ終えたカイラが言った。
「いただきます……」
両手の指を組んで短く祈りの言葉をつぶやき、エリーズはパンに手を伸ばした。少しちぎって口に運ぶと、ほのかに甘い味が口内を満たした。
「美味しい……!」
その様子を見てカイラが微笑む。
「お食事がお済みになりましたらこちらの紐をお引きください。すぐに参ります」
彼女はそう言い、壁際に垂れ下がった紐を示した。エリーズの住んでいた屋敷にも使用人を呼ぶための同じ仕組みがある。
ごゆっくりどうぞ、とカイラは頭を下げ部屋を後にした。
その姿を見送った後、エリーズは夢中で料理を味わった。自分ではない誰かが作ったものを食べたのは何年振りだろうか。どの品も舌が蕩けそうなほどに美味しく感じられ、気づけばパンくずの一つも残さず平らげていた。
意地汚いと思われるだろうかと不安になったが、片付けに来たカイラは綺麗に空になった皿を見てどこか嬉しそうだった。
「お気に召しましたか?」
「はい、こんなに美味しいお料理は初めてです」
「良かったですわ。料理人たちが喜びます」
紅茶のお代わりをカップに注いだ後、カイラは手際よく皿やカトラリーを回収してカートに乗せた。
「お召し物の支度を致しますので、もうしばらくお待ちください」
それを聞き、エリーズははっとした。そういえば、昨日着ていたドレスはどうなったのだろう? 首に下げていた首飾りも外されている。
「あの、わたしが昨日つけていた首飾りは、どこにありますか?」
「こちらにございます」
カイラが答え、ベッドの脇に備え付けてあるサイドテーブルの上に置いてある白い小箱を手にとってエリーズに渡した。中に入っていたのは間違いなくエリーズの数少ない宝物だった。残るは母の形見のドレスだ。
「昨日着ていたドレスは……」
「お預かりしていますが、エリーズ様にはもっと質の良いものをご用意しております」
このままだと捨てられてしまうかもしれない――エリーズはがばっと椅子から立ち上がった。
「あの、捨てないでいて頂けませんか。古いものですけれどあれはお母さまの形見で……大切なものなんです」
それを聞いたカイラはまぁ、と口元に手をあて、深々と礼をした。
「事情を知らず、大変失礼致しました。ですがエリーズ様は陛下のご婚約者でいらっしゃいます故、相応のものをお召しになって頂きたく……昨夜のドレスは引き続きこちらでお預かりして、手直しをするという形でも宜しいでしょうか?」
エリーズはこくこくと頷いた。
「はい、こちらこそわがままを言ってごめんなさい……」
「とんでもございません、仰って頂けて良かったですわ。大切なものを処分してしまうところでしたから。今後も何かありましたら遠慮なくお申しつけくださいね」
カイラの優しい言葉にエリーズは思わず泣きそうになったが、ぐっとこらえた。ここでめそめそと泣いて彼女に余計な心労はかけたくない。
着替えの準備をするためカイラが退室し再びエリーズ一人になったところで、先ほどの彼女の言葉が頭をよぎった。
カイラはエリーズのことを確かに「陛下のご婚約者」と言った。もうエリーズのことは城の中では周知の事実で、婚礼の準備が始まっているのだろうか。
(わたし、本当にあのお方と結婚できるの?)
そういえばヴィオル王は今、どこで何をしているのだろう。
彼の優しい眼差しを思い出すだけで胸が高鳴る。落ち着かないまま、エリーズはカイラが戻ってくるのを待った。
***
またしばらくして、カイラはエリーズより少し年下と思われる二人の侍女を連れてやって来た。一人は取っ手がついた木製の箱を両手で抱えている。
「シェリアとルイザです。私と共にエリーズ様のお世話を任されております」
「よろしくお願い致します、エリーズ様」
「一生懸命頑張ります!」
紹介された二人の侍女が頭を下げる。こちらこそよろしくお願いします、とエリーズが言うと、少女たちはにこっと笑った。
「それではお着換えをいたしましょう」
カイラに誘われ、エリーズはまず部屋の端に置かれた姿見の前に立った。シェリアがその横にあるクローゼットを開き、エメラルド色のドレスを取り出した。昨晩のうちに準備されていたもののようだ。袖は長く、肩のところはふわりと丸くなっている。スカート部分には薄いレースがふんだんにあしらわれていた。
三人の侍女の一切無駄のない連携によりエリーズは着替えを終え、次にドレッサーの前に座った。ルイザが持ってきていた木の箱を開く。中には上等そうな化粧道具がぎっしりと入っていた。シェリアとルイザがエリーズの髪をとき、カイラが顔に化粧を施していく。
「エリーズ様の御髪はとっても綺麗ですね」
「綺麗な巻き髪って憧れです」
エリーズの緊張を解そうとしてくれているのか、少女たちは楽しそうに話しかけてくれる。笑顔で仕事をする彼女たちがエリーズには眩しく感じられた。ガルガンド家で働いていた頃のエリーズはいつも何かに追われているような気持ちで、仕事を楽しいと思えたことがなかった。
エリーズの後頭部の少し高い位置に、ルイザが丁寧に深緑色のリボンを結んだ。その間に、カイラが最後の仕上げにとバラ色の口紅をエリーズの唇に薄く塗る。
「さあ、できましたよ」
鏡を見たエリーズは、自身の変貌ぶりに唖然とした。野草のような姿は身を潜め、どこからどう見ても高貴な生まれの娘と同じになっている。
「これが、わたし?」
「陛下もきっと喜ばれますわね」
「喜ぶどころか骨抜きになること間違いなしですよ!」
「エリーズ様、お顔もお肌も本当に綺麗で羨ましいです」
口々に言う侍女たちにエリーズは向き直った。
「ありがとうございます。こんなに綺麗にして頂いて、何とお礼をしたら良いか……」
「勿体ないお言葉ですわ。エリーズ様のお手伝いができて、私どもも嬉しく思います」
カイラが優しく言い、シェリアとルイザもにこにこと頷いた。
その後、シェリアとルイザが片付けを行って部屋を去り、部屋に残ったのはエリーズとカイラだけになった。エリーズを椅子にかけさせ、カイラが取り出したのは手のひらに乗るほどの、蓋がついた壺のような形の入れ物だった。
「最後にお薬を塗らせて頂きます」
「お薬……ですか?」
「陛下が、エリーズ様の手が傷だらけだと心を痛めていらっしゃいましたので」
入れ物の蓋が外され、乳白色のどろりとした液体が顔を覗かせる。カイラがそれを指ですくい、エリーズの手指に入念にすり込んでいった。
「沁みますか?」
「いいえ、大丈夫です」
「効き目は私が保障致しますわ。城勤めの侍女は皆、これを使っております」
そういえばカイラの手はもちろん、シェリアやルイザの手も荒れは見当たらず綺麗だった。
「侍女の方もお薬を使えるのですか?」
「陛下のご厚意ですわ。陛下は良い政は、使用人の働きがあってこそ成しえるというお考えをお持ちです。ですから私どものことをとても気にかけて下さるのですよ」
ヴィオル王は使用人たちからも信頼されているのだ。それほどに立派な人物に果たして自分は相応しいのだろうか――美味しい朝食や綺麗な衣服により少し浮かれていたエリーズの心に、再び不安の芽が顔を出す。
薬を塗り終え、カイラはさっと手元を片付けた。
「この後ですが、まずは陛下の近侍の方がエリーズ様と面会をする手はずになっております。お時間になりましたらお呼びしますので、それまではごゆっくりお寛ぎになって下さい。ご用がございましたらお申しつけくださいませ」
「は、はい。ありがとうございます」
エリーズが丁寧な物腰で接されることに慣れるのにはまだ時間がかかりそうだった。
王の近侍、とはどのような人物なのだろう、もしも失礼なことをしてしまったらどうしようか――緊張の糸を断ち切ることができないまま、エリーズはしばらく窓の外を見つめていた。
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