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第一章

04.平民商人との婚約

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「エミリーよ。お前の婚約が決まった。」

その日、父に久しぶりに呼ばれ、執務室に足を踏み入れると、唐突に告げられた。

「婚約、ですか?」

エミリーは一瞬息を呑んだが、すぐに平静を取り戻す。ついにその時が来たのだ。

「私ももう成人ですものね……。覚悟はできておりますわ。それで、お相手は誰ですの? 私たち子爵家は他の貴族家と疎遠になって久しいと思うのですが…」

「そ、それがだな……その……」
父の声が少し震えている。どうやら言いにくいことがあるらしい。やはり、あの話に違いない。

「相手は、カイル・スミスという男だ。」

「カイル・スミス、様?」

その名を耳にすると、エミリーは心の奥底で抑えていた期待がふわりと広がるのを感じた。しかし、父の手前、今初めて聞いたかのように、わずかに考え込むふりをした。聞き覚えのない名前。それが何を意味するのか、すぐに理解できた。

「存じ上げませんわね。その方はどちらの貴族の方ですの?」

父は言い淀みながら、ゆっくりと答えた。

「あぁ、その……彼は貴族ではない。平民なのだ。」

「平、平民? 今平民とおっしゃいましたか?お父様!」

エミリーは驚いたふりをした。平民との婚約。貴族にとってそれは一種の「降格」を意味する。貴族籍から外れ、社交界には二度と参加できなくなるのである。普通の貴族令嬢なら、この時点で卒倒するか、激昂するところだろう。しかし、エミリーは冷静だった。

「すまない、エミリー。だが、今の我が家の状況では、この婚約を受け入れるしかないのだ……」
父は苦しそうに続けた。

「お前も知っておろう。シルフィーが駆け落ちしてから、我が家は侯爵家の怒りを買い、貴族たちとの取引はすべて破綻した。絵画を買い取ってくれる者もおらず、絵を描くための道具すら手に入らない状況だ。借金は増え続け、もうどこからも援助は受けられない……」

父の声がますます小さくなる。2年前と比べ、やつれ、苦労が滲み出ているその姿は哀れだが、エミリーには何の感情も湧かなかった。今更、父に同情する余裕などなかったのだ。

「だが……」父は一度深呼吸して、エミリーを見つめた。

「お前の結婚相手となるカイル・スミスは、ただの平民ではない。彼はフローレンス商会の主で、財力も人脈も並の貴族を凌駕する。それに他国との取引も盛んに行っている。彼との婚姻が決まれば、我が家は再び取引先を得ることができ、領地も潤うだろう。そうすれば、負債も返済できるかもしれん……」

必死に言い訳を述べる父。その姿に、エミリーは一瞬だけ冷笑を浮かべた。お姉様を甘やかし、自分の判断ミスで家を没落させておきながら、今になって冷遇していた彼女に頼るとは。まさに、父らしい。

「そうですの……」
エミリーはわずかにため息をつくように言葉を漏らし、考え込むふりをした。元々覚悟は決まっていたが、わざと悲壮感を漂わせた表情を作る。

「お父様、分かりましたわ。」

「貴族女性の婚姻は、家のため、領地のためのもの。貴族令嬢として、成すべきことを成しましょう。たとえそれが、貴族としての立場を捨てることになるとしても――」

父が目を見開いた。

「カイル・スミス様との婚約、お受けいたします。」

「エミリー、ありがとう……本当に、ありがとう……」
父は安堵の表情を浮かべ、涙を浮かべそうな顔でエミリーを見つめた。

(まったく、滑稽な光景ね)
エミリーは心の中で冷たい笑みを浮かべながら、淡々と答えた。

「領地のためには、仕方のないことです。」

「ただ、一度心の整理をしたいので、もう下がってもよろしいでしょうか?」

 エミリーは父に一礼し、執務室を後にした。背後から父の感謝の声が聞こえるが、もうその声に耳を傾けることはなかった。彼女の心は、すでに婚約者――カイル・スミスのもとへと飛んでいたのだから。



――――――――――――――――――

閑話:《お屋敷の使用人たちの会話》

使用人A: 「ねえ、エミリーお嬢様のお姿、見た? なんだか以前とは雰囲気が違う気がするわ。」

使用人B: 「本当だわ。元々表情を表に出さない方ではいるけど、あの婚約の話を聞いた後の表情が…何か計算しているような、冷静な感じだった。」

使用人C: 「それより、何とか感情を押し殺しているみたいじゃなかった? カイル・スミス、とかいう商人との婚約について、どう思っているんだろう?」

使用人A::「平民との婚約なんて、ありえないわよ! 子爵家のご令嬢なのに……どうしてそんな道を選んだのかしら。」

使用人B: 「ほんとうに、私も驚いたわ。まさかここまで落ちぶれているなんて……。借金の噂も広まっているし、この先私たちの雇用や給金はどうなるのかしら…」

使用人C: 「そう!それが心配なのよ!エミリーお嬢様が平民と結婚するなんて、子爵家の名誉が更に落ちて、我々にも影響が出るかもしれないわ。早めにご当主様に推薦状を貰って、別の家に雇ってもらう方がいいかもね。」

使用人A: 「それに、最近のご当主様、明らかにお痩せになったわね。一回りほど小さくなったようで心配だわ。シルフィーお嬢様の駆け落ちから、財産も厳しくなってきているから、心労が溜まっているんでしょうね。」

使用人B: 「エミリーお嬢様が貴族としての立場を捨てて、平民との婚約を受け入れたのも、ご当主様への配慮なのかもしれないわね。」

使用人C:「何言ってるの!元々太り気味だったんだから、丁度いいじゃない!いや、でも心配するふりをして、好感度を上げて、さり気なく高価な物を強請ろうかな。この家だいぶ危ないみたいだしー」

使用人A: 「これ、C!言葉が過ぎるわよ。……お嬢様はもしかしたら、その商人の財力を利用して、この御屋敷を立て直そうとしているのかも。」

使用人B: 「それが本当なら、エミリーお嬢様はなかなかの手腕を持っているかもしれないね。ご当主様とは大違いだわ。」

使用人A: 「そうね。でも、今までエミリーお嬢様はご当主様達に冷遇されてきたのに、どうしてあそこまでご当主様に尽くすのかしら。ほんと健気ね……お嬢様には少しでも幸せになってほしいと思うわ。」

使用人B:「確かに、ご家族のために尽くす姿勢はご立派だけど、ご自身の幸せを一番にして欲しいわね。あの方には、少しでも心の安らぎを見つけてほしいものだわ。」

使用人C: 「あ、侍女頭様だ!A、B!そろそろ仕事に戻らないと!」

(彼らは、自身の雇用を心配しつつも、エミリーの幸せを願いながら、慎ましく日常業務に戻った。)

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