上 下
73 / 76

七十三話 それが夫婦というものではないか

しおりを挟む
 永禄九年 松平家康はその名字を徳川と改め、徳川家康とする。
 
 永禄十年三月十四日、今まで今川家の政務をとりしきってこられた
 寿桂尼様が亡くなられた。

 それを待っていたかのように、
 今川家に好意的であった武田のご嫡子、義信殿が廃嫡され幽閉されてしまった。

 その年の十二月六日、
 突如武田は軍勢を率いて今川領内に乱入、
 氏真公は庵原忠胤に一万五千の軍勢をあずけて迎撃させたが
 庵原忠胤は戦いもせず撤退した。

 お国の危機に、御大将自ら出陣なされない事に不満を持ってのことであろう。

 これを見た、瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡、葛山元氏ら
 重臣が次々と武田へ寝返り、今川方は総崩れとなった。

 「許せ、我が武田を信じたばかりに」

 氏真公は涙を流して詫びられた。

 「ははは、なんという事はない。
 御屋形様がご無事であることがなによりでございまする」

 元実は軽やかに笑った。 


 この戦いにおいて、たとえ粗暴であっても、
 一番今川家に忠節を尽くしていた孕石元泰や岡部元信らが
 次々と武田方に寝返った。

 再三にわたって氏真公が武田晴信殿に
 迎合する素振りを見せていたために見限られたのであろう。

 夜陰に紛れ歩いて逃げるなか、
 北条より氏真公にお輿入れになられた姫、早川殿が野に座り込まれた。

 「いかがした、早川。足が痛いか」

 氏真公は心配して早川殿の顔を覗きこまれた。

 早川殿は元来勇猛な関東武者をご覧になってお育ちになったためか、
 雅を好む氏真公とはこれまでずっと距離を置いてこられた。

 この方もまた氏真公を見限られるのであろうか。

 「妾がついていては足手まとい。
 ここに捨てて御屋形様だけでも早うお逃げくださりませ」

 早川殿が仰せになった。

 「何を言うか、そなたがここで死ぬるなら我も
 ここで死のう。それが夫婦というものではないか」

 氏真様が笑顔でそうのたまった。
 その言葉に驚き、早川殿は目を見張って氏真公を凝視された。

 「なんという凜々しいお姿。
 妾はたとえ地獄の底であろうと御屋形様について参りまする」

 早川殿は立ち上がられた。

 元実の脳裏にふと義元公の御姿が映った。

 やはり親子。氏真公はまさしく今川義元公の御嫡子なのだ。

 野を越え、山を超え、今川氏真公一行は掛川までたどり着いた。

 夜陰に紛れてここまでたどり着けたのは、
 甲賀衆の助けがあったからだ。

 大原親子は私利私欲の徒であると思っていたが、
 この大乱の中にあっても逃げることなく、
 氏真公をお助けして掛川までお供してきた。

 道は間違っていたのかもしれぬが、この者らにも忠義の心はあったらしい。

 掛川城に到着すると城主朝比奈泰朝殿自ら出てきて氏真公を笑顔でお迎えした。

 元実も城に入り、続いて、大原親子が場内に入ろうとした時である。

 「待てい、痴れ者が、不忠不義の売国奴を城中に入れるわけにはいかぬわ」

 泰朝殿が叫ぶと城兵が一斉に大原親子に槍を向けた。

 大原資良、三浦義鎮は無言のまま、おとなしく城外へと立ち退いた。

「この一両日中に我が領内から出て行け。さもなくば討ち取るぞ」

 泰朝殿は大原親子の背中に罵声をあびせかけた。

 風の噂によると、後に大原親子は三浦義鎮の妻、
 四ノ宮鶴菊の兄、四ノ宮右近を頼ったそうだが、
 四ノ宮右近の君主、高天神衆の小笠原氏助がこれを襲って捕縛。

 首を刎ねて家康に献上し、徳川方へ寝返るさいの手土産にしたそうであった。

 先年、徳川家臣の子弟を大原親子が多数串刺しにして殺したため、
 徳川家臣より恨みを買っていると聞いていためのようであった。
しおりを挟む
感想 43

あなたにおすすめの小説

大罪人の娘・前編

いずもカリーシ
歴史・時代
世は戦国末期。織田信長の愛娘と同じ『目』を持つ、一人の女性がいました。 戦国乱世に終止符を打ち、およそ250年続く平和を達成したのは『誰』なのでしょうか? 織田信長? 豊臣秀吉? 徳川家康? それとも……? この小説は、良くも悪くも歴史の『裏側』で暗躍していた人々にスポットを当てた歴史小説です。 【前編(第壱章~第伍章)】 凛を中心とした女たちの闘いが開幕するまでの序章を描いています。 【後編(第陸章〜最終章)】 視点人物に玉(ガラシャ)と福(春日局)が加わります。 一人の女帝が江戸幕府を意のままに操り、ついに戦いの黒幕たちとの長き闘いが終焉を迎えます。 あのパックス・ロマーナにも匹敵した偉業は、どのようにして達成できたのでしょうか? (他、いずもカリーシで掲載しています)

獅子の末裔

卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。 和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。 前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

鬼嫁物語

楠乃小玉
歴史・時代
織田信長家臣筆頭である佐久間信盛の弟、佐久間左京亮(さきょうのすけ)。 自由奔放な兄に加え、きっつい嫁に振り回され、 フラフラになりながらも必死に生き延びようとする彼にはたして 未来はあるのか?

いや、婿を選べって言われても。むしろ俺が立候補したいんだが。

SHO
歴史・時代
時は戦国末期。小田原北条氏が豊臣秀吉に敗れ、新たに徳川家康が関八州へ国替えとなった頃のお話。 伊豆国の離れ小島に、弥五郎という一人の身寄りのない少年がおりました。その少年は名刀ばかりを打つ事で有名な刀匠に拾われ、弟子として厳しく、それは厳しく、途轍もなく厳しく育てられました。 そんな少年も齢十五になりまして、師匠より独立するよう言い渡され、島を追い出されてしまいます。 さて、この先の少年の運命やいかに? 剣術、そして恋が融合した痛快エンタメ時代劇、今開幕にございます! *この作品に出てくる人物は、一部実在した人物やエピソードをモチーフにしていますが、モチーフにしているだけで史実とは異なります。空想時代活劇ですから! *この作品はノベルアップ+様に掲載中の、「いや、婿を選定しろって言われても。だが断る!」を改題、改稿を経たものです。

戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~

川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる …はずだった。 まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか? 敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。 文治系藩主は頼りなし? 暴れん坊藩主がまさかの活躍? 参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。 更新は週5~6予定です。 ※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

処理中です...