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六十一話 ちっぽけな石ころ

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 永禄三年五月の事である。

 「武家の道を愚弄し、民を堕落させ、まやかしによって国を乱し、
 怠惰のむさぼりを蔓延させた罪は万死に値する。
 天下のため、義のため、悪鬼信長を討つ」

 軍勢を揃えられ、皆々の前でりりしく宣言された義元公の御姿に、
 今川家中の臣、民、全てがわき上がった。

 高らかに宣言する義元公を元実が羨望の眼差しで見て居ると、
 義元公がこちらをご覧になり、
 笑みを浮かべられ頷かれた。

 元実の体の血は燃え上がった。

 これで義元公のために死ねると思った。

 正義は我に有り、いざ、悪を成敗せん。
 
 出立前、野営の陣内で行われた軍議において、
 議題に上がったのが本陣設営の場所であった。

 「義元公本陣には見晴らしよく自然の要害を擁した桶狭間山がよろしゅうございましょう。
 ここに砦を築き、馬防柵を二重三重に施し、
 鉄砲隊を配置すれば織田の小勢に入り込む隙なく、
 万全の備えと心得まする」

 一宮宗是の言に義元公は頷かれた。

 「うむ、陣所は桶狭間山としよう」

 「されば砦建設の手はずを」

 「それはよい」

 義元公は砦の件は退けられた。

 「何と仰せか、砦、馬防柵は必須でござる」

 宗是がなおも食い下がると、義元公は困ったようなお顔をされ、
 大原資良の顔をご覧になった。

 「お控えあれ一宮殿、御屋形様は一宮殿の顔を立て、
 一つは献策を受け入れられた。緊縮財政の中、ギリギリやっとだされた折衷案である。
 これ以上何を望まれるか。欲張られるな」

 大原資良が宗是を叱責した。

 「何を言うか、御屋形様の御身を守る事こそ肝要。
 砦が立てられるなら場所は桶狭間山でのうてもよい」

 「御屋形様のご心中も察せず、
 大口をたたかれるものではない。
 当方は経費節減により、土手方、番匠が不足しておる。
 火急の事ゆえ、砦を建てるだけの土手方、番匠が集まらぬ事、
 お分かりになられぬか」

 「何を、砦が立たずば出陣の日取りを遅らせばよいこと」

 「お待ちあれ、すでに出陣の号令がかかった後に出陣を取りやめるは先例がない」

 孕石泰元殿が口をさしはさんだ。

 「お気持ち分からぬではないが、
 すでに決まったことゆえ、いたしかたなし」

 浅井小次郎殿が言われた。

 他にも口々にすでに決定された事は覆せぬとの異論が出たため、
 宗是は黙るしかなかった。

 経費節減により、今川家中では番匠、土手方の数が激減しており、
 宗是とて、ここで砦を建てるのは無理筋の話であることは分かっていた。

 それでも義元公の御身の大事を思えば言わずにはおれなんだのであろう。

 「皆の意見は聞いた。大方の総意にて、砦は作らぬこととする」

 義元公が決心をされた。

 「お待ちあれ、せめて、敵陣の中島砦と対陣する先鋒の前には
 馬防柵は必要でござろう。
 中島砦の先は田園にて、
 細きあぜ道を一列にを突進してくる織田勢を鉄砲で狙い撃ちにすれば、
 容易く殲滅できまする」

 安倍信真殿が進言された。

 先の村木砦の合戦では織田方が使用した鉄砲のために
 多くの今川の将兵が犠牲になった教訓にかんがみ、
 此度の戦では今川方が織田を上回る大量の鉄砲を購入していたのであった。

 「終わった話を蒸し返されるな」

 大原資良が叱責した。

 「これは異な事を、前衛馬防柵は別儀にござる」

 「されば、御屋形様でさえ、武威を見せられ、
 砦などに引きこもらぬと仰せであるのに、
 前衛のそなたが私心にて臆病風に吹かれ、
 柵が無くば戦えぬとはいかに」

 「戦えぬとは申してはおらず、
 楽に勝てると申しておりまする」

 「苦労してこその武士道の研鑽ではありませぬか、先頃の者はすぐに楽をしたがる」

 「何を言うか、無礼な」

 安倍信真殿がいきり立った。

 「あー伊豆守(大原資良)殿は偉くなられたのお、
 いつからそのように偉くなられたかのお」

 孕石泰元殿が嫌味を言われた。

 「これ、控えよ」

 義元公がお叱りになった。

 「信真よ、そなたの言、もっともなれど、
 皆々横並びに砦も馬防柵も我慢している。
 砦、馬防柵を用意するなら全ての将に用意せねば、
 諸将の面子が立たぬ。よって、此度はなにとぞ経費節減のため、我慢してはくれぬか」

 義元公は頭をさげられた。

 「なんと恐れ多い、心得ました、
 柵などなくともこの安倍信真、
 織田の弱兵など一ひねりにしてみせましょう」

 安倍信真殿は義元公が頭を下げられた事に感動し、
 心を決したようであった。

 義元公は大軍を集めることで、
 土木の不利を補う事とされた。

 銭は大量にある。

 雑兵を雇えば、織田の兵力を圧倒する兵数を集める事も容易かった。

 そこに伝令が入ってくる。

 「藤林長門守が面会を求めておりまする」

 「うむ、通せ」

 晴れやかに義元公はのたまった。

 藤林は義元公の前に進み出てひざまずいた。

 「恐れながら、織田の響談どもが大高城周辺を徘徊しておりまする。

 掃除してまいりましょうか」

 「ほう響談とな、して、その頭領はいかなる者か分かるか」

「岩室長門守でございまする」

 「ははははは」

 「わははははっ」

 「これは愉快」

 「織田に人なし」

 今川の諸将から笑い声が起った。

 義元公も笑いをかみ殺しておられた。

 「大事ない。捨て置け」

 「はっ」

 一礼して藤林は退席ようとした。

 藤林は足下を見る。

 そこには拳大の石がころがっていた。

 「危ない、危ない、このようなちっぽけな石ころでも
 蹴躓いて頭を打って死ぬる人もいるやもしれぬ」

 独りごちして石を拾い上げて出て行った。

 それ以後、藤林長門守は今川陣中に訪れることなく姿を消した。

 今川軍は岡崎を目指して出立した。



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