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五十六話 百姓が昼寝して暮らせる国

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 弘治二年
 ほどなくして尾張守護斯波義銀と三河守護吉良義昭の和睦が成立した。

 実情は今川義元公と織田信長との和議である。

 和議というても、この盟約のあと、
 すぐに信長は弟の信勝に屈服するか殺されて、
 尾張は義元公に臣従するわけではあるが。


 足利氏の一門衆である石橋義忠の戸田館において
 吉良氏の吉良義昭と対面することになったが、
 席順を巡ってお互い言い争い、和睦の式がはじめられない。

 結局、上野原に集まって
 お互い一町ほど離れたところから一礼するだけで和睦式は終わった。

 義元公は和睦の席の末席に腕組みをしてふんぞりかえっている若衆に目をやった。

 「あれが信長であろう」

 元実はその若造に目をやった。

 まだ若い小僧だし、腕を組み、床几に座って足を投げ出し、
 落ち着きなく辺りを見回している。
 何の貫禄も威厳もない。

 「まさか、教養もない織田の家来でしょう」

 「いや、殺気が違う。あれが信長に違いない。たしかめて参れ」

 「ははっ」

 このような教養も無いであろう小僧が領主のわけもないが、
 義元様のお言いつけにて、やむなく確かめにいった。
 
 「そなた、どちらの御家中なるや」

 「織田」

 小僧は即答した。

 「そこで何をしておる」

 「うるせえ、あっち行け」

 「なにっ」

 元実が一歩前に出た時、目の前にもう一人若造が立ちはだかった。

 あまりの殺気に元実は後ろに飛び退いた。

 「おのれい」

 この若造、完全に殺す気で前に来たことがわかった。

 殺気で分かる。

 「ひかえよ」

 義元公が後ろからたしなめられた。

 「申し訳ございませぬ」

 実元は引き下がった。

 「岩室下がれ」

 座っている小僧が前の小僧に命令すると、
 前の小僧は素早く引き下がった。

 「貴公、織田信長殿とお見受けいたす。我は今川家当主今川義元である」

 「であるか」

 半笑いで小僧は答えた。

 「無礼な」

 「よい」

 憤る実元を義元公が制止される。

 「信長殿なりや」

 「見れば分かろう」

 「うむ」

 「そなたのつむじが見える」
 半笑いで信長が言った。

 「何」

 義元公は不可解な顔をされた。
 小僧は座っている。
 義元公は立たれている。
 つむじが見えるはずがない。


 「その心はいかに」

 「下の者は上を見あげてもつむじは見えぬ。
 上の者は下を見下ろしたらつむじが見える」

 「ふふふ、面白いのお、ならば聞こう。およそ武家の範とは何か」

 「天下布武なり」

 「否、武家の範たるは武士道ならずや」

 「武士道とは何ぞや」

 「武士道とはこれ質素倹約にて身を慎み、
 勤勉にして常に己の研鑽を怠らぬことなり」

 「否、そは道具なり、
 道具をもって武家と言うは
 百姓をもって鍬、漁師をもって網というが如し」

 「ならば問う、天下布武とは何ぞや」

 「これ即ち百姓が昼寝して暮らせる国なり」

 「ははは、論破、論破。民怠けたる国の何が範か。
 底が知れたの。
 何の理想も持たぬ愚か者め」

 義元公は楽しげに笑われた。

 「理想とは道具である。道具を大事にして民百姓の暮らしを顧みぬは、
 名刀の刃こぼれを嫌うあまり刀を抜かず、己の命を失うが如し」

 「おのれ、御屋形様に向い罵詈雑言、許さぬぞ」

 元実が前に一歩進むと、また先ほどの小僧が前に立ちはだかる。

 「捨て置け、元実。猿回しの猿に対して本気で怒る人が居るものか。帰るぞ」

 義元公は信長の器量を見極められたのか、
 楽しげにご帰還になられた。

 この信長という小僧、
 実はこの年に最大の後ろ盾である斎藤道三を戦で失っていたのである。

 その事が分かったのはこの盟約の後であった。

 このとき信長を攻めれば信長はひとたまりもなかったであろう。
 にも関わらず、よくもあのようなふてぶてしい態度をとれたものだ。
 実に底の知れぬ小僧である。
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