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四十九話 筋が悪い
しおりを挟むその頃尾張では信長が飽きもせず、
土木をやっておった。
土手者を重用し、特に土を掘るけがれた犯土方に黒鍬者と
名を付けて親しく交わったので、
けがれた者と見られて織田一族から蛇蝎のように嫌われるようになっていた。
にもかかわらず、尾張守護斯波義統は、茶器や掛け軸集めを信長と競い、
信長とかたらって茶会など開いて浪費を繰り返したため、
質素倹約を旨とする武士心得を乱すとして守護代織田信友らに深い憎しみを持たれていた。
対外貿易においては、外に対しては遠慮なく尾張の産品を売りながら、
内に入って来る物に対しては港で高い関税をかけて国内への流入を妨げ、
尾張国内の座を守った。
この関税収入こそが信長の財源になっていた。
こうした貿易に対する保護的な姿勢に嫌気がし、
貿易の自由を標榜する今川方に寝返ったのが
国境の山口教継である。
鎌倉街道の要所を所領に持つ教継にとって貿易は生命線であった。
それを信長は過度の関税をかけて遮ったのである。
今川方に寝返った教継を信長は攻め、
山口方から今川方へ援軍の要請があった。
今川方は葛山長嘉、岡部元信殿・三浦義就、飯尾連竜、浅井小四郎殿を援軍に差し向けた。
天文二十一年四月十七日。
両軍は尾張国赤坂で合戦に及んだが勝負は付かず両軍撤退した。
その後も山口教継は策謀を巡らし、大高城、沓掛城を織田信長より簒奪した。
物価が安くなり、銭は貯め込んでおればおるほど値打ちが上がる時代。
賢き人は浪費を控え、銭を貯め込んでさらに裕福になった。
教養なき庶民は銭を浪費し、収入が減り、
借金をしてまた銭が減る無間地獄に陥っていた時代。
そんな時代に進んで銭を浪費し、
しかも一銭の利益も生まぬ治水、堤、道を作りつづけた信長は
尾張国内からもうつけとあざけられ、
知恵ある人らから嘲笑されつづけ、すぐに破産して滅びると思われていた。
しかし、いまだ織田信長滅びず。
運が良すぎるだけにしても、不気味な存在となりつつあった。
赤塚合戦のあとの論功行賞の場で義元公はゆっくりと雪斎様に目を向けられた。
「のお雪斎、何故天はかの悪逆非道のうつけめに運を授けるのか、
我は武士の道義を貫き、質素倹約、贅沢もせず、
酒も控え、常に己にも家臣にも厳しく接してきたつもりじゃ。
武士の範たる義元に何故天は背を向けられるか」
「いいえ、御屋形様、短慮はいけませぬ。
古来より秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の安禄山、
いずれも一時専横を極めますが、
悉く義によって討たれ滅ぼされております。
勤勉実直に常に武士の模範を目指す勤勉な御館様を天が見放すはずがございませぬ」
「これは心強い。今後とも頼りにしておるぞ雪斎」
「恐れ多き事でございまする」
雪斎様はうやうやしく頭をさげられた。
「それにしても、織田信長が尾張下半郡の大半を取りたるは侮りがたし、
これは弟の織田信勝に肩入れせねばなるまいかのう、どうじゃ雪斎」
「されど御屋形様、織田信勝はいささか筋が悪うございまする」
「何が悪い。すでに信勝は多くの家臣に銭を貸し、
そのために家臣の多くは信勝に頭が上がらぬではないか。
これからは銭の世、銭を多く持ったものが勝つ」
「さにあらず、天下万民の公のために動く者こそ人を集めます。
銭で動く者は銭で裏切ります。義で動くものは不義で反目します。
銭は正しきを行っていても無くなる事はありますが、
義は正しい事を行っていて無くなることはございませぬ」
「それは人を集める時の算段であろう。
一旦決戦になれば数の多い方が勝つ。それが戦じゃ」
「されば数が集まり足るは義によって集まりまする」
「しかれども銭なくば大軍は動かぬ。
我は実利の事を言うておる。建前の事を言うてはおらぬ」
「建前ではございませぬ」
「そなたの言いたるは決起の時の事じゃ。
たしかに源頼朝公は敗戦で洞穴に一人籠もられた処より再起された。
後醍醐天皇も流罪の地より再起された。
しかし、今の段階ですでに織田信勝の兵力は織田信長の兵力を
遙かに上回っておる。
もし、信長に義あれば、もっと信長に兵が集まるはずじゃ。
すでに信長に義なく、信勝に義がある。
よってすでに兵は信勝に集まっておる。
そなたの理屈は清廉潔白にすぎる」
「物事は深淵を見なければなりませぬ。表層だけ見ていては見誤りまする」
「禅問答をしたいのではない。実利の話じゃ。
兵は数多きが勝つ。少数精鋭が勝つなどという盲信を世に広めれば、
後の世に取り返しのつかぬ害悪を及ぼすであろうぞ。
すべては理詰め、この世は銭じゃ」
「我らが御屋形様の御前に集まったのは銭のためではございませぬ」
「それは認める。しかし、それは古い。時代遅れじゃ。
古き良き時代は終わったのじゃ。
そうでなければ、何故尾張の織田信長のような不義がまかり通るか」
「いえ、信長の道も道理ゆえ通ります」
「今何を言うた、そなた、魔性に魅入られたか」
これほど義元公と雪斎様のお考えが異なることは今までなかった。
そこに集まりたる諸将はただ唖然と見守るだけであった。
義元公はその空気を読まれて、我にかえられる。
「御坊はお疲れのようじゃ、ここは皆の者を待たせても悪い。
今度ゆるりと二人だけで膝をまじえて話そうではないか、なあ雪斎」
義元公は笑顔で雪斎様をいたわられた。
「これは恐れ入りまする。ありがたきしあわせ」
雪斎様も微笑を浮かべて頭をさげられた。
今川家をお支えくださる支柱にあらせられる雪斎様と
君主義元公が不和とならずにまことに良かった。
天文二十二年今川家嫡子、龍王丸様は元服なされ名を氏真公とされた。
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