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四十七話 不気味なる者

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 今川館の奥座敷で義元公と拝謁し、伊賀衆らは深々と頭を下げた。

 居並ぶ方々は今川義元公、田原雪斎様、朝比奈泰能殿、服部友貞、
 そして伊賀衆を引率したる一宮実元と小姓数名。

 「おお、来てくださったか、御屋形様、この藤林殿は伊賀随一の透っ波でございまするぞ」

  服部友貞は大げさに気色を表して早口で言った。

 泰能殿が顔を背けた。

 「名は何と言うぞ」

 雪斎様が問う。

 「藤林長門守でございます」

「長門守とはお覚えよろしからず。
 かつて当家には岩室長門守という不熟者がおっての、
 その名前は変えよ。どうせ自称であろう」

 泰能殿が仰せになった。

 「藤林長門守でございまする」

 藤林が繰り返した。

 「何」 

 泰能殿のこめかみに青筋が立った。

 「これは恐れ入りまする、
 藤林長門守という通り名は世間に知れ渡っておりまする。
 功名は尊敬を生み、人を集める場合でも、
 報を集める時でも何かと役に立ちまするゆえ、なにとぞご容赦を」

 友貞が釈明する。

 「かまわぬ、そのまま名乗れ」

 義元公がお許しになった。

 「什麼生ソモサン

 突然義元公が厳しいお声を発せられた。

 伊賀の小僧は少しも動じず、むしろうすら笑いをうかべよった。

 「説破セッパ

 伊賀の小僧、藤林はゆっくりと答える。

 「兵とは何ぞや」

 「兵は詭道なり」

 「その論拠はいずくにありや」

 「兵者、詭道也。
 故能而示之不能、用而示之不用、
 近而示之遠、遠而示之近、
 利而誘之、乱而取之、
 実而備之、強而避之、
 怒而撓之、卑而驕之、
 佚而労之、親而離之、
 攻其無備、出其不意。
 此兵家之勝、不可先傳也。」

 藤林は漢文らしきものをそらんじた。

「夫未戦而廟筭、勝者得筭多也。
 未戦而廟筭、不勝者得筭少也。
 況於無筭乎。
 吾以此観之、勝負見矣」
 
 義元公がお言葉を返された。

 意味が分からず元実は狼狽して周囲を見回した。

 泰能殿と目があう。泰能殿は短く嘆息を漏らした。

 「されば各々方、向学のために聞いておかれよ」

 泰能殿は小姓衆を一瞥した。

 小姓衆は居住まいを正して聞き耳を立てた。

 「これは孫子の一文である。
 兵は詭道なり。つまり戦うことは人を欺くことである。
 能力のある者は無能を装い、遠くのものは近くに、近くのものを遠くに見せる。
 利を見せて誘い、混乱させて取り込む。
 力を充実させて備え、精強にも関わらず逃げて見せる。
 敵を怒らせ平常心を失わせ、へりくだって油断させる。
 何もせず自堕落に見せかけて敵を誘い、
 敵の同盟国と親しくして仲を裂く。
 敵の備えていない処を攻め、敵の予測しないところに進出する。
 これが勝つための兵法である。そう伊賀の小僧は言うた。
 されど、これは戦の小競り合い、
 格闘における心得であって雑兵の心得である。
 これに対して御屋形様はこう返された。

 そもそも開戦にあたっては勝つ国の国力は高く負ける国の国力は低い。
 この計算を事前に行わなければ勝つこともおぼつかない。
 戦いとはすでに戦う前に勝敗は決まっているものである。
 そうのたまわれたのだ。つまり、
 天下に覇を争うような国の軍勢なればいずれも準備万端、
 練兵も行き届いておる。つまるところ、
 戦いは数じゃ。数多き者が勝ち、数少なき者が敗れる。
 これが戦いの王道である」

 「ならば、源義経の鵯越は如何なりや」

 泰能殿のご教授に藤林が差し出口をはさんだ。

 「如何に況んや、鵯越は浜より梶原景時の本隊が平家に倍する兵力で攻め寄せたこと。
 義経が休戦の約定を破り背後に回り込んで挟撃したことが勝因である。
 少数で多数を討ちたる談は後世の作り事じゃ」

 「ご名答」

 藤林が満足そうに笑った。

 「おのれ、小僧試したか」

 「もうよい」 

 義元公が制止された。

 「ははっ」

 泰能殿はかしこまって頭をさげられた。

 「その方、使えることは分かった。して、これから何をする」

 「掃除をいたしまする」

 「掃除とな、当家の屋敷は汚れておるか」

 「はい」

 藤林は平然と言ってのけた。
 今川館はどこも汚れてはおらぬ、
 元来駿河者は勤勉にて、廊下は鏡のごとく磨かれ、
 路地の隅々に枯れ葉一つ落ちてはおらぬ。

 これほど清浄に掃き清められた処はめったにあるものではない。

 「屋敷と言わず、路地といわず、商家といわず、
 ざっと見渡しただけでも風魔、
 甲州乱破、響談などがうごめいておりまする」

 実元は背筋に悪寒が走った。

 この童、口元に含み笑いを浮かべておる。

 いかにも楽しそうだ。

 今まで長らく駿河に居住まいして、
 そのような気配、一度も感じたことがなかった。

 この童、何を考えておるのやら分からぬ。

 まことに気持ち悪きものであった。

 これが顔のない輩というものか。

 「よう言うてくれた、そなた望むがまま金子を与えるゆえ、今川家の掃除を頼むぞ」

 「かしこまりました」

 藤林は恭しく頭を下げた。

 義元公は大層この不気味なる者をお気に入りのようであった。

 この薄気味悪さを義元公はお感じにはならぬのであろうか、
 それが元実には不思議でならなかった。
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