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七十話 比叡山焼き討ち
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浅井、朝倉、本願寺との戦いもひと段落つき、信長が美濃に帰還した頃、
尾張で大きな騒動が起こった。
このゴタゴタのさなか、加藤弥三郎が赤川景弘を切って織田家を出奔したのである。
赤川景弘は尾張の作事方を長年仕切ってきた坂井一族の取りまとめ役であり、
信長の命令で赤川の一族である坂井文助が柳川街道の整備にあたるなどして
景気がよかった。
これに対して建築などを行う普請方である熱田衆にはあまり大きな仕事は回ってこなかった。
敵城の周囲に付け城を作る安いが危険な仕事は任されるが
道作りなどはすべて作事方に任された。
熱田衆は長年信長に忠節を尽くし、矢銭(軍資金)を支払い続けたのに、
出世するのは美濃衆の明智、森や作事方に近い木下藤吉郎であった。
長年忠節を尽くした者が不遇にあるとして弥三郎は前から不満を漏らしていたが、
赤川に近い木下藤吉郎が横山城の石垣の修繕に尾張衆ではなく近江の穴太衆を使い、
しかも、他の家臣たちにも穴太衆を勧め、赤川がそれを黙認していることに
怒りを爆発させた。
信長に怒りをぶつけることができな弥三郎は赤川を切り殺して三河の徳川に逃げ込んだ。
これに同調したのが、元々信長の古くからの近臣であった佐脇藤八、長谷川橋介、山口飛騨守
であったため、信長の怒りは相当のものであった。
弥三郎は信長が赤川ら作事方ばかり重用することに怒って行動を起こしたが、
この弥三郎の行動により、信長は後にの残った木下藤吉郎を益々重用するようになった。
世間的に言えば大した話題でもないかもしれないが、
左京亮にとっては驚天動地の出来事であった。
左京亮は嫁である多紀の兄であるうえに、遠征が多く留守にしがちな
山崎城の城主を加藤弥三郎に任せていたのだ。
逃亡資金に山崎城の金子を持ち出されたら厄介なことになる。
左京亮は急いで山崎城に向かい、多紀に問いただした。
「多紀殿、まさか弥三郎に逃亡のための金子を渡したりしておらぬだろうな」
「わたしました」
多紀が即答した。
「わたしたんかーい」
左居亮は突っ込みをいれる。
「兄を呼び捨てとは何たることですか」
多紀が言い返す。
「何を言うか、織田の重臣を切り殺した逆賊ぞ」
「逆賊でも兄は兄、身内をかぼうて何が悪い」
「身内であっても殺し合うのが戦乱の世というものじゃ、
断じて堪忍できるものではない」
「堪忍できぬのはこっちのほうじゃ、長年にわたって加藤家は織田家に金品を貢いできた。
桶狭間では命を盾に戦った。それなのに、何故、信長様は赤川や木下など作事方ばまり
贔屓にするのか、媚びへつらう木下や明智のほうが忠義の臣よりいいのか」
「そ、そのようなことはない。信長様にもお考えがあるのだ」
そこに兄の信盛がやってきた。
「これはえらいことになったな。弥三郎はここに来たのか」
「来たらしいがもう逃げたあとでござる兄上。倉の金子を盗んで逃亡いたした」
左京亮は兄に答えた。
「盗んだのではありません、わらわがわたし……」
「わー、わー、わー」
左京亮は多紀の前にたちはだかって大声でさけんだ。
「何をするのです無礼者」
多紀は左京亮の頬っぺたをつねって横にのばした。
「それはこっちのいいぐしゃじゃ」
左京亮は頬っぺたをひっぱられながら抗弁した。
そののち佐久間の一門衆が集まって会議をした。
「元をただせば赤川、木下らの専横がわるい」
「こうなっては木下藤吉郎を討ってアダを晴らしましょう」
佐久間信盛が木下藤吉郎を快く思っていないと薄々感じている者が
多かったので、加藤弥三郎の所業よりも木下藤吉郎を罵倒する者が多かった。
しかし、信盛は言った。
「いやいや、信長様の差配に今まで間違いがあったであろうか、信長様がそのように
お定めになったのであれば、それは何か深いお考えがあってのことだ。
信長様が正しのだ」
その言葉に一同、意気消沈して黙り込んだ。
「何が信長が正しいものか、いずれ兄上も信長に追放されるであろう」
軍議の席に呼ばれてもいないのに、多紀が戸張の後ろで聞いていて激高したのか、
座敷に首を突き出して怒鳴った。
「何を言うか、そのような事、断じてない」
信盛がいいかえした。
「これ、無礼な」
左京亮がたまらず取り押さえようとすると、
多紀は憤然とした表情でその場を立った。
「申し訳ございませぬ、軍議の場に女がさしで口するなど」
左京亮は慌てて信盛の前に進み出て平伏した。
「かまわぬ、兄があのような事になって気が動転しているのであろう、捨て置け」
信盛は柔和に笑ってそう言った。
兄の度量の深さに左京亮は深く感じ入った。
尾張国内の一向宗徒、本願寺派は信長に逡巡し、戦う気配を見せなかったので、
信長はこれを褒めて、その所領を安堵した。
翌年、元亀二年二月、一揆衆が和睦の盟約を破り、突如として木下藤吉郎の守る
横山城を攻めた。
木下藤吉郎五百の募兵であったが、五千の一揆衆を退けた。
これを信長は一向宗の盟約破りと捉え、伊勢長島の一向宗徒を攻めることを決意する。
五月には兵を整え、約五万の軍勢で伊勢長島を攻めた。
一揆衆はすぐに降参し、敵意のないことを示したので、信長は撤退を命令したが、
佐久間信盛はこれに反対した。
「一向宗徒は言葉巧みに人を騙し、約束を反故にしてはじませぬ。撤退すれば
必ずや背後を衝かれるでしょう」
そう進言したが信長は尾張の一向宗の誠実さの例をあげ、信盛の進言を退けた。
信盛は一向宗は必ず攻めかかってくると断言しており、
佐久間の軍勢に敵の伏せ勢が攻めかかったら即座に撤退するよう何度も言い聞かせた。
信長は一向宗の降参を確認し、盟約を結んで撤退したが、
その帰途、一向宗と伊賀衆の襲撃を受けた。
左京亮は信盛に十分に言い聞かされていたので、兵たちに号令をかけて、
即座に撤退したが、
不意をつかれた柴田隊は混乱し、撤退が遅れた。
これを助けようとした氏家卜全勢と林秀貞勢が
柴田隊の後方に守り、一向一揆と戦ったが、最前線に居た林秀貞の嫡子、林通政
が討たれて林隊が瓦解し、氏家朴全も一揆衆に討たれた。
林通政は秀貞自慢の息子で、秀貞自身は謀反を起したことで信長に疎まれていたが、
息子の通政は信長に可愛がられ、近々国持大名にしてもらえるともっぱらのウワサであった。
その自慢の息子を討たれ、以降、林秀貞は腑抜けになってしまった。
一向一揆が、和議の盟約を破るだけではなく最初から伏せ勢をしてだまし討ちにするつもりだった
事に信長は激怒し、「いつか、必ず同じやり方で報復してやる」と周囲に宣言していた。
以降、「坊主どもは信用ならん」と言って信長は積極的にカトリックの宣教師を領内に招き入れ、
布教を許すようになった。
全国で迫害されたり追放されたキリシタンの将兵も積極的に集め出した。
宣教師は地域の国人衆に取り入るため、色々な貢ぎ物をしたが、他の大名たちが
珍しい時計や南蛮渡来のマントなどに目を奪われる中、信長の同盟相手、徳川家康だけは
宣教師の持っていた種を見て目の色を変えた。
それは菜種の種子であった。
ここから油が取れると知って、徳川家康は千金を持って、子供の手の平に収まるような
小さな革袋に入った菜種を手に入れた。
その代わり、積極的に自国領でのキリシタンの布教はさせなかった。
周囲の者は、この行為を滑稽に思ったのか、「さすが徳川殿は律儀者」と言って、
たった一握りの菜種に千金を払った家康を笑った。
家康はこの菜種を元手に大々的に三河で菜種の栽培を始めた。
それを知った松永久秀が早馬で岐阜の信長の元に訪れ、
即座にキリシタンを禁令にし、家康の菜種畑を焼き払い、菜種の裁判を禁止するよう
信長に訴えた。
しかし、家康が謀反を越したわけでもなく、法をおかしたわけでもないのに、
そのような不法はできないと断ると、松永久秀は、顔を真っ青にし、
「上様は唐土から飛来する害虫を焼き払うてくれると信じて命をかけて忠節を尽くしてきましたが、
珍しき南蛮渡来の珍品に目がくらみ、頭の中が蟲に食われてしまいましたか」
と罵倒したので、信長は露骨に不快な顔をした。
松永久秀は、信長が菜種の栽培を禁止しなかったことで激怒し、大和に帰って、以後信長からの
文にも返信をよこさなくなった。
信長は、キリシタンの将兵を集め、比叡山攻めの先兵とした。
宣教師に集会で、比叡山焼き討ちは正義の行いであると語らせ、
宣教師やキリシタンたちを大いに喜ばせた。
この行動に佐久間信盛は驚愕し、「比叡山焼き討ちなどもっての外。すぐにやめさせてください」
と懇願したが信長は聞き入れなかった。
「比叡山を焼くといっても伽藍や経典を焼くのではない。坂本の寺領を焼いて比叡山の命綱である
土蔵(金貸し)ができぬようにしてやるのだ」
信長がそう言ったので、信盛も渋々承諾した。
信長が比叡山焼き討ちを決定すると、明智光秀は飛び跳ねて喜び、自分に先鋒を務めさせて
ほしいと懇願した。
これを信長は快諾し、信長は光秀に大和を追い出された高山友照ら
キリシタンの最精鋭部隊を与えた。
光秀は熱狂的な神道信者で、寺院や僧侶を極端に嫌っていたので、このような機会を待ち望んでいたのだ。
信盛はこの光秀の所業に非常に腹を立てているようであった。
左京亮にしても、異国の教えを崇拝している連中に仏教の聖地が踏みにじられることに強い違和感を持っていた。
そして事は起こった。
明智軍先鋒として比叡山に攻め込んだ和田秀純が僧侶を捕らえて、次々となで斬りにし始めたのだ。
その報を聞いて、信盛は顔面蒼白となり、左京亮とともに和田の元に駆け付けた。
「何を狂ったことをしておるのか」
信盛は和田秀純を怒鳴りつけた。
すると和田秀純は憮然として懐から書状を出し、信盛の前に突き出した。
そこには
「このような好機を得たことは八幡神をやじめとして日本の国の大小の神々の御加護である。
あなたが攻め込む仰木においては、敵をことどとく撫で斬りにしなければならない」
という内容の事が書かれてあった。
そして、そこには明智光秀の署名があった。
「光秀様の御命令ということは、上様のこのこと、ご承知のはずでござる。拙者は御上の御命令に
したがっているまでのこと」
和田は毅然とした態度でそう言った。
「おのれ、光秀」
信盛はすぐさま、信長の本陣に向かった。
「大変です信長様、光秀が坂本の兵だけでなく僧侶まで撫で斬りにしておりまする。比叡山には
優れた学僧もおりまする。優秀な者を失えば、それは織田にとっても損失。いますぐ
やめさせねばなりませぬ」
しかし、信長は顔色一つ変えずに言い放った。
「かまわぬ。我が許した。玉石共に砕く」
信長にそう言われてしまったら信盛としては言い返しようがなかった。
むろん、左京亮は横で立ちすくむしかなかった。
とんでもない事になった。
あの光秀という男、無茶苦茶をする。
ただ、救いは光秀の担当が坂本周辺であったということだ。
坂本は徹底的に焼き払われた、近隣の僧侶もほとんど殺されたが、
比叡山の伽藍はあまり破却されず、いくぶん僧侶も生き残っているようであった。
明智光秀はキリシタンを率いて最も数多くの僧侶を殺害したことを信長に激賞され、
坂本の地を得た。
此度の比叡山焼き討ちにおいて一番の恩賞であった。
信盛や佐久間一族はこの戦いに反対し続けたため、得るものはほとんどなかった。
尾張で大きな騒動が起こった。
このゴタゴタのさなか、加藤弥三郎が赤川景弘を切って織田家を出奔したのである。
赤川景弘は尾張の作事方を長年仕切ってきた坂井一族の取りまとめ役であり、
信長の命令で赤川の一族である坂井文助が柳川街道の整備にあたるなどして
景気がよかった。
これに対して建築などを行う普請方である熱田衆にはあまり大きな仕事は回ってこなかった。
敵城の周囲に付け城を作る安いが危険な仕事は任されるが
道作りなどはすべて作事方に任された。
熱田衆は長年信長に忠節を尽くし、矢銭(軍資金)を支払い続けたのに、
出世するのは美濃衆の明智、森や作事方に近い木下藤吉郎であった。
長年忠節を尽くした者が不遇にあるとして弥三郎は前から不満を漏らしていたが、
赤川に近い木下藤吉郎が横山城の石垣の修繕に尾張衆ではなく近江の穴太衆を使い、
しかも、他の家臣たちにも穴太衆を勧め、赤川がそれを黙認していることに
怒りを爆発させた。
信長に怒りをぶつけることができな弥三郎は赤川を切り殺して三河の徳川に逃げ込んだ。
これに同調したのが、元々信長の古くからの近臣であった佐脇藤八、長谷川橋介、山口飛騨守
であったため、信長の怒りは相当のものであった。
弥三郎は信長が赤川ら作事方ばかり重用することに怒って行動を起こしたが、
この弥三郎の行動により、信長は後にの残った木下藤吉郎を益々重用するようになった。
世間的に言えば大した話題でもないかもしれないが、
左京亮にとっては驚天動地の出来事であった。
左京亮は嫁である多紀の兄であるうえに、遠征が多く留守にしがちな
山崎城の城主を加藤弥三郎に任せていたのだ。
逃亡資金に山崎城の金子を持ち出されたら厄介なことになる。
左京亮は急いで山崎城に向かい、多紀に問いただした。
「多紀殿、まさか弥三郎に逃亡のための金子を渡したりしておらぬだろうな」
「わたしました」
多紀が即答した。
「わたしたんかーい」
左居亮は突っ込みをいれる。
「兄を呼び捨てとは何たることですか」
多紀が言い返す。
「何を言うか、織田の重臣を切り殺した逆賊ぞ」
「逆賊でも兄は兄、身内をかぼうて何が悪い」
「身内であっても殺し合うのが戦乱の世というものじゃ、
断じて堪忍できるものではない」
「堪忍できぬのはこっちのほうじゃ、長年にわたって加藤家は織田家に金品を貢いできた。
桶狭間では命を盾に戦った。それなのに、何故、信長様は赤川や木下など作事方ばまり
贔屓にするのか、媚びへつらう木下や明智のほうが忠義の臣よりいいのか」
「そ、そのようなことはない。信長様にもお考えがあるのだ」
そこに兄の信盛がやってきた。
「これはえらいことになったな。弥三郎はここに来たのか」
「来たらしいがもう逃げたあとでござる兄上。倉の金子を盗んで逃亡いたした」
左京亮は兄に答えた。
「盗んだのではありません、わらわがわたし……」
「わー、わー、わー」
左京亮は多紀の前にたちはだかって大声でさけんだ。
「何をするのです無礼者」
多紀は左京亮の頬っぺたをつねって横にのばした。
「それはこっちのいいぐしゃじゃ」
左京亮は頬っぺたをひっぱられながら抗弁した。
そののち佐久間の一門衆が集まって会議をした。
「元をただせば赤川、木下らの専横がわるい」
「こうなっては木下藤吉郎を討ってアダを晴らしましょう」
佐久間信盛が木下藤吉郎を快く思っていないと薄々感じている者が
多かったので、加藤弥三郎の所業よりも木下藤吉郎を罵倒する者が多かった。
しかし、信盛は言った。
「いやいや、信長様の差配に今まで間違いがあったであろうか、信長様がそのように
お定めになったのであれば、それは何か深いお考えがあってのことだ。
信長様が正しのだ」
その言葉に一同、意気消沈して黙り込んだ。
「何が信長が正しいものか、いずれ兄上も信長に追放されるであろう」
軍議の席に呼ばれてもいないのに、多紀が戸張の後ろで聞いていて激高したのか、
座敷に首を突き出して怒鳴った。
「何を言うか、そのような事、断じてない」
信盛がいいかえした。
「これ、無礼な」
左京亮がたまらず取り押さえようとすると、
多紀は憤然とした表情でその場を立った。
「申し訳ございませぬ、軍議の場に女がさしで口するなど」
左京亮は慌てて信盛の前に進み出て平伏した。
「かまわぬ、兄があのような事になって気が動転しているのであろう、捨て置け」
信盛は柔和に笑ってそう言った。
兄の度量の深さに左京亮は深く感じ入った。
尾張国内の一向宗徒、本願寺派は信長に逡巡し、戦う気配を見せなかったので、
信長はこれを褒めて、その所領を安堵した。
翌年、元亀二年二月、一揆衆が和睦の盟約を破り、突如として木下藤吉郎の守る
横山城を攻めた。
木下藤吉郎五百の募兵であったが、五千の一揆衆を退けた。
これを信長は一向宗の盟約破りと捉え、伊勢長島の一向宗徒を攻めることを決意する。
五月には兵を整え、約五万の軍勢で伊勢長島を攻めた。
一揆衆はすぐに降参し、敵意のないことを示したので、信長は撤退を命令したが、
佐久間信盛はこれに反対した。
「一向宗徒は言葉巧みに人を騙し、約束を反故にしてはじませぬ。撤退すれば
必ずや背後を衝かれるでしょう」
そう進言したが信長は尾張の一向宗の誠実さの例をあげ、信盛の進言を退けた。
信盛は一向宗は必ず攻めかかってくると断言しており、
佐久間の軍勢に敵の伏せ勢が攻めかかったら即座に撤退するよう何度も言い聞かせた。
信長は一向宗の降参を確認し、盟約を結んで撤退したが、
その帰途、一向宗と伊賀衆の襲撃を受けた。
左京亮は信盛に十分に言い聞かされていたので、兵たちに号令をかけて、
即座に撤退したが、
不意をつかれた柴田隊は混乱し、撤退が遅れた。
これを助けようとした氏家卜全勢と林秀貞勢が
柴田隊の後方に守り、一向一揆と戦ったが、最前線に居た林秀貞の嫡子、林通政
が討たれて林隊が瓦解し、氏家朴全も一揆衆に討たれた。
林通政は秀貞自慢の息子で、秀貞自身は謀反を起したことで信長に疎まれていたが、
息子の通政は信長に可愛がられ、近々国持大名にしてもらえるともっぱらのウワサであった。
その自慢の息子を討たれ、以降、林秀貞は腑抜けになってしまった。
一向一揆が、和議の盟約を破るだけではなく最初から伏せ勢をしてだまし討ちにするつもりだった
事に信長は激怒し、「いつか、必ず同じやり方で報復してやる」と周囲に宣言していた。
以降、「坊主どもは信用ならん」と言って信長は積極的にカトリックの宣教師を領内に招き入れ、
布教を許すようになった。
全国で迫害されたり追放されたキリシタンの将兵も積極的に集め出した。
宣教師は地域の国人衆に取り入るため、色々な貢ぎ物をしたが、他の大名たちが
珍しい時計や南蛮渡来のマントなどに目を奪われる中、信長の同盟相手、徳川家康だけは
宣教師の持っていた種を見て目の色を変えた。
それは菜種の種子であった。
ここから油が取れると知って、徳川家康は千金を持って、子供の手の平に収まるような
小さな革袋に入った菜種を手に入れた。
その代わり、積極的に自国領でのキリシタンの布教はさせなかった。
周囲の者は、この行為を滑稽に思ったのか、「さすが徳川殿は律儀者」と言って、
たった一握りの菜種に千金を払った家康を笑った。
家康はこの菜種を元手に大々的に三河で菜種の栽培を始めた。
それを知った松永久秀が早馬で岐阜の信長の元に訪れ、
即座にキリシタンを禁令にし、家康の菜種畑を焼き払い、菜種の裁判を禁止するよう
信長に訴えた。
しかし、家康が謀反を越したわけでもなく、法をおかしたわけでもないのに、
そのような不法はできないと断ると、松永久秀は、顔を真っ青にし、
「上様は唐土から飛来する害虫を焼き払うてくれると信じて命をかけて忠節を尽くしてきましたが、
珍しき南蛮渡来の珍品に目がくらみ、頭の中が蟲に食われてしまいましたか」
と罵倒したので、信長は露骨に不快な顔をした。
松永久秀は、信長が菜種の栽培を禁止しなかったことで激怒し、大和に帰って、以後信長からの
文にも返信をよこさなくなった。
信長は、キリシタンの将兵を集め、比叡山攻めの先兵とした。
宣教師に集会で、比叡山焼き討ちは正義の行いであると語らせ、
宣教師やキリシタンたちを大いに喜ばせた。
この行動に佐久間信盛は驚愕し、「比叡山焼き討ちなどもっての外。すぐにやめさせてください」
と懇願したが信長は聞き入れなかった。
「比叡山を焼くといっても伽藍や経典を焼くのではない。坂本の寺領を焼いて比叡山の命綱である
土蔵(金貸し)ができぬようにしてやるのだ」
信長がそう言ったので、信盛も渋々承諾した。
信長が比叡山焼き討ちを決定すると、明智光秀は飛び跳ねて喜び、自分に先鋒を務めさせて
ほしいと懇願した。
これを信長は快諾し、信長は光秀に大和を追い出された高山友照ら
キリシタンの最精鋭部隊を与えた。
光秀は熱狂的な神道信者で、寺院や僧侶を極端に嫌っていたので、このような機会を待ち望んでいたのだ。
信盛はこの光秀の所業に非常に腹を立てているようであった。
左京亮にしても、異国の教えを崇拝している連中に仏教の聖地が踏みにじられることに強い違和感を持っていた。
そして事は起こった。
明智軍先鋒として比叡山に攻め込んだ和田秀純が僧侶を捕らえて、次々となで斬りにし始めたのだ。
その報を聞いて、信盛は顔面蒼白となり、左京亮とともに和田の元に駆け付けた。
「何を狂ったことをしておるのか」
信盛は和田秀純を怒鳴りつけた。
すると和田秀純は憮然として懐から書状を出し、信盛の前に突き出した。
そこには
「このような好機を得たことは八幡神をやじめとして日本の国の大小の神々の御加護である。
あなたが攻め込む仰木においては、敵をことどとく撫で斬りにしなければならない」
という内容の事が書かれてあった。
そして、そこには明智光秀の署名があった。
「光秀様の御命令ということは、上様のこのこと、ご承知のはずでござる。拙者は御上の御命令に
したがっているまでのこと」
和田は毅然とした態度でそう言った。
「おのれ、光秀」
信盛はすぐさま、信長の本陣に向かった。
「大変です信長様、光秀が坂本の兵だけでなく僧侶まで撫で斬りにしておりまする。比叡山には
優れた学僧もおりまする。優秀な者を失えば、それは織田にとっても損失。いますぐ
やめさせねばなりませぬ」
しかし、信長は顔色一つ変えずに言い放った。
「かまわぬ。我が許した。玉石共に砕く」
信長にそう言われてしまったら信盛としては言い返しようがなかった。
むろん、左京亮は横で立ちすくむしかなかった。
とんでもない事になった。
あの光秀という男、無茶苦茶をする。
ただ、救いは光秀の担当が坂本周辺であったということだ。
坂本は徹底的に焼き払われた、近隣の僧侶もほとんど殺されたが、
比叡山の伽藍はあまり破却されず、いくぶん僧侶も生き残っているようであった。
明智光秀はキリシタンを率いて最も数多くの僧侶を殺害したことを信長に激賞され、
坂本の地を得た。
此度の比叡山焼き討ちにおいて一番の恩賞であった。
信盛や佐久間一族はこの戦いに反対し続けたため、得るものはほとんどなかった。
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そこへ訪れた姫路藩重役・河合寸翁(かわいすんおう)は、抱一に、風神雷神図屏風が一橋家にあると告げた。
その屏風は、無感動な一橋家当主、徳川斉礼(とくがわなりのり)により、厄除け、魔除けとしてぞんざいに置かれている――と。
そして寸翁は、ある目論見のために、斉礼を感動させる画を描いて欲しいと抱一に依頼する。
抱一は、名画をぞんざいに扱う無感動な男を、感動させられるのか。
のちに江戸琳派の祖として名をはせる絵師――酒井抱一、その筆が走る!
【表紙画像】
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