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Two of us
140. Si vis pacem, para bellum
しおりを挟む女性の吸血鬼は、一時的に施設内の空き部屋で拘留されることとなった。仮の拘留室の出口は開けっぱなしのままで、目が届くようにしてある。だだっ広い部屋には椅子とテーブルがぽつんと置かれて、吸血鬼はうつむいたまま座っていた。その口元は柚村京の血が乾いて貼りついていた。
拭きとるべきだろうか、とあんじゅは思ったが、二つの牙に近づくことを考えると不安も抱いた。とはいえ、あの状態で放置したままなのもどこか心苦しい。せめて綺麗にしてあげたかった。
手洗い場に行き、タオルを濡らしてから戻ってくると早見に止められた。
「気持ちはわかるけど、やめておいたほうがいいわ」
「ですけど……」
あんじゅは吸血鬼の顔を見た。疲れきったその表情は、自暴自棄になっているようにも思えた。今ここで誰かに銃を向けられても、彼女は怯えたりしないだろう。むしろ、そんな展開を望んでいるようにも思えてしまう。
あんじゅが吸血鬼から目を離せないでいると、見張りをしていたカイエが、手からタオルを奪った。カイエはそのまま拘束されている吸血鬼の方へと近づいていく。
「カイエ!」
呼び止める早見だが、カイエはそれを無視して吸血鬼の口元の血をタオルで拭きとる。
「いい……しなくていいよ、そんなこと……」
「いいから、じっとして」
子どものように顔を逸らそうとする吸血鬼だが、すぐに観念してか、身をまかせることにした。
「ありがとう……」
ぬぐい終えると小さな声で吸血鬼は礼をした。
カイエは汚れたタオルをゴミ箱に捨てると早見の元に戻ってきた。
「見ていられなかったのはわかるけど、危険を伴うことは禁止よ」
「すみません」
「でも、ちょっとカッコよかったわ」
早見はそう言ってカイエの頭を撫でた。
「あ~、タワシみたいでいい触りごごち」
「恥ずかしいからやめてください」
「いーやー、あとちょっと。五分だけ~」
「五分ってけっこう長いですよ」
早見がわしわしと撫でていると、紙ヤスリで削っているかのようなざらついた音がした。隊の中で坊主頭は彼だけなので、余計に新鮮な手触りなのだろうとあんじゅは思った。
早見がカイエを撫で終えたところで、京と相澤がやってくる。二人は男の方の取り調べにとりかかっていた。
「彼の調子はどう?」
「取り乱してはないですけど、焦燥してますね。持ち物からわかったんですけど、二人は恋人だったみたいですよ」
相澤はそう言って早見に手帳を渡す。手帳は男性の持ち物のようで、数ヶ月後の十二月のスケジュールのとある日には“結婚式”と書かれてあった。
幸せそうに書かれたその文字に、あんじゅは胸が痛む。
「吸血鬼になったのは、二週間ほど前らしいっすね。彼女さんの方がちょうどその辺りから会社に来てないとか、メールで退職届けとか出してたみたいですけど」
「その間は、男の方が血を飲ませていたのかしら?」
「みたいですね。ともかく引き出せたのはそのへんですよ、早見さん」
「ありがとう相澤くん」
「いえいえ。ま、聞いたのは俺くらいですし、ユズは今は使えないっすから」
役立たずのような表現をされ、京は相澤の足を踏みつけた。公式的に職務復帰してないため、取り調べなどを行えば、早見や沙耶が咎められてしまうためである。
あんじゅは相澤のコミニュケーション能力に少しばかり感心した。事件を起こした後で恋人と引き離されて不安定な状態だったであろう男性から、身辺のことだけでも引き出せたことは成果だった。
「休日なのに、わざわざごめん。ダメ元で頼んだ甲斐があったわ」
「どうも。それより、俺も頭撫でてもらっていいっすか? 早見さんの柔らかそうな優しい手に包まれたいっす」
「自重しろよおまえ」
京が相澤を呆れた目で見る。早見の方は、それくらいならっとお安い御用で相澤の頭を撫でた。
「他に聞き出せたことは?」カイエが訊く。
「いや特には。なーんかぶつくさ言ってたけど、よくわかんねえ。受け答えはわりとしっかりしてたけどさ。あ、あと二人は幼馴染だって」
「幼馴染……ですか……」
神さまはどこまで残酷なのだろうか。幸せを掴む未来が待っていた二人にこんな仕打ちはあまりにも酷すぎる。
「可哀想過ぎです。そんなのって……」
そのとき、葵と梨々香が戻ってきた。
「可哀想なのは事実ですが、然るべき対応を怠るべきではないと思いますよ」
ずっと部屋にいて話を聞いていたかのように、葵は意見を述べる。
「早見さん、とりあえず収容所の手配は行いました。あと関東周辺の吸血鬼収容所の空きは、残りわずかだそうです」
「ありがとう葵ちゃん。早いペースね」
早見が憂いのため息を漏らす。収容所の枠が完全に埋まれば、罪を犯していなかろうと吸血鬼は現場で殺害して弔わなければならない。野放しにしてしまえば、それだけ危険が伴うのは、もはや語るまでもなかった。
「にしても、護送車のほうは遅くないか?」
「大丈夫ですよ柚村先輩。遅れは路上イベントやら工事やらが重なって迂回を強いられてることですから。襲撃とか物騒なことではないので」
京の危惧する心情を察知したかのように、葵が言った。
「遅刻っていうと、なーんか嫌な予感がするよな、ユズ」
「わざとだろおまえ」
わざわざ「遅れている」という表現を使わなかった相澤は京にまた睨まれていた。
「みんなありがとう、もう大丈夫だから。梨々香ちゃんもわざわざ残ってもらって助かったわ」
「いえいえー、このくらいならぁ、お手の物ですから。んじゃ、あんじゅちゃんたちもバイバーイ」
「あれ、帰るんですか?」
「うん、ちょーっと用事がねぇ。じゃあね京くーん、蓮くんもおつー」
「おう、今日はありがとうな」
「またねー」
梨々香は手を振ってからその場を後にした。
「あの人……本当に『技術班』だったんですね。見た目からは想像つかないです」
本人を目の前にしては訊きにくかったのか、葵は梨々香がいなくなってから疑問を口にした。
「あいつはギャルの皮被ったハッカーだからな。見た目でいうなら、里中のその腕もなかなかインパクトあるぞ」
「ええ、この腕ならよく言われます」
「なんて彫ってるんですか?」
あんじゅは葵の腕に書かれた文字の一つを指した。
「ラテン語の格言ですよ。意味は『汝平和を欲さば、戦への備えをせよ』です」
腕に刻まれた言葉や象徴には、葵がこれまで生きてきた中で胸を打ったものが、複雑に絡み合って形成されていた。抑止力としての力の重要性を説くことが葵が人生の中で得た一つの教訓なのだろう。
着信音が鳴り始めた。鳴りだしたのは早見のスマホで、早見はそのまま退室して、一分も経たないまま、戻ってきた。
「今連絡があって、あと十五分もすれば護送車が到着するって」
「なーんも問題はなさそうだな。んじゃ、ユズの退院祝いの焼肉パーティーの会場でも探しますか」
「行かねえよ。さっき食ったばっかだろうが」
「でもこのまま解散ってのも味気なくないか。な、あんじゅちゃん」
「私に振られても……柚村さんの退院祝いなんですから柚村さんの意向に従うのがベストだと思います」
「正論だなぁ……」
あんじゅの意見に相澤はなにも言えず、腑に落ちた様子で頷いた。
「がっかりしなくてもいいんじゃないですか、相澤先輩。復帰したら会えるんですから。友情は育めますよ」
「葵ちゃん……きみは天使?」
「いえ、あなたに対する対応がみなさんドライでしたので。でも、それもなんとなくわかる気がします」
「ちょっとちょっと……それはさすがに先輩として一言物申すぜ俺」
「やめとけって」
火花を散らす相澤を京がなだめる。
その成り行きを見守っていたあんじゅは、ふと思い出した。
「そういえば、早見さん。ちょっと気がかりなことが……」
「ん? どんなこと?」
「えっと……」
あんじゅは接触した際に交わしたやりとりを話す。例の男と吸血鬼は誰かを待っているかのような感じだったことを。二人の待ち人たちは、あんじゅのことを目的の人物だと思って話しかけてきたことを。
「誰かと待ち合わせ……だったんでしょうか。わざわざこんな人通りの多い場所で」
「見つかる可能性のことを考えたら不自然ね……とりあえず監視カメラを見てみるわ」
「お願いします」
「こっちはもう大丈夫だから、あんじゅちゃんはいい男二人とデートしてきなさい」
「いい男……ですか?」
京はともかく、相澤がその枠に入るのかは怪しい。
「まあ、とにかく息抜きになればそれでいいわ。体力も精神も削られる仕事だもの。心身共にリフレッシュしなきゃね。ね、カイエ」
「そうですね」
「なんか素っ気ないわね。カイエだって休みの日は女の子とデートくらいするでしょ?」
「そんな相手いませんよ」
「うっそー? 本当に? なんかカイエって隠れて女の子と付き合うタイプな気がするわ。秘密主義の臭いがするのよねー。お母さんそういうのわかっちゃうんだよー?」
「いませんよ。そもそも好かれるような顔つきではないですから。声をかけられたりもないですよ」
ふと、あんじゅの頭の中に人影がよぎる。それは、事が起こる前にカイエが話していたあの女性のことだった。
「あっ、でもカイエくん、さっき銀髪の女の子と話してなかった?」
何気なく訊いたあんじゅだが、カイエの表情が変わったことに気がついた。見開かれたその目には焦りの色と思わしき感情が浮かんでいる。その訳を訊くべきかと思ったあんじゅだが、なんと言っていいのかわからなかった。
「あっ、やっぱりそうなのねー! しかも銀髪ってなに!? 外国の子が彼女なの?」
「道を訊かれただけですよ」
その声は少し掠れていた。早見はそれを恥ずかしがっているだけ、と捉えたのか深く追求しない。
一方のあんじゅは、その変化に引っかかりを感じずにはいられなかった。だが、安易に訊いていいものかと、躊躇う気持ちも芽生えてくる。
再び着信音が鳴り、早見がその場から離れた。
「あの……カイエくん、大丈夫?」
「大丈夫ですよ。なんでもない」
そう言ったカイエはいつもと同じ表情をしていた。それが作られた表情なことをあんじゅはすぐに見抜いた。胸の内の険しさが顔を覗かせている。
「もしかして、訊いたらいけなかった?」
「いや、そういうわけでは──」
爆発音が轟いたのはそのときだった。一度目の爆発の後に、二発目の音が鳴り響く。あまりにも近くで炸裂したその音に、聴力が正常さを失った。耳鳴りをすり抜けるように大きな音が何度か耳に入り込む。
衝撃を受けたあんじゅは床に倒された。煙と埃、そして火薬の匂いが一気に押し寄せた。
全身に痛みを感じながらもあんじゅは半身を起こす。拘束されていた吸血鬼の様子を確認しようと部屋を覗き見る。
「うそ……」
拘束されていた吸血鬼の姿は見当たらない。衝撃に巻きこまれて死亡した可能性を考えたが、床に灰や衣類は散らばっていない。煙が晴れると部屋の壁にはぽっかりと穴が空いていた。
「大丈夫ですか?」
カイエに声をかけられ、あんじゅは振り返る。咳こみながらやってきたカイエも破壊された壁を見て驚いていた。
「こりゃ……ずいぶんと派手な方法で逃げましたね」
「爆弾……ですかね」
「男の方を見てきます」
カイエはそう言って男を拘束してある部屋へと向かっていった。
「あんじゅちゃん! カイエ!」
早見の声が聞こえてきた。廊下に出ると崩れ落ちた天井や配線などが邪魔をしていて、通路はほぼ塞がれていた。
「霧峰! 大丈夫か!?」
配線の隙間から京が顔を覗かせた。
「大丈夫です! カイエくんも無事です」
あんじゅは天井が落ちてきた場所を確認する。垂れ下がった配線を押し退ければ、通れないことはなさそうだ。それでも時間はかかるだろう。
「怪我はない?」早見の心配そうな声だけが届いた
「は、はい……奇跡的に二人とも無事です。そっちはどうですか?」
「こっちも大丈夫よ。とりあえず相澤くんがお客さんの様子を見に行ったわ」
「避難誘導等は、ドローンで私が支持してます。本部や警察消防機関にも通報済みです。霧峰先輩! 男と吸血鬼の様子は!?」
葵に言われてあんじゅは後ろを振り返った。爆発とほぼ同時に逃走したのであれば、追いつけるかもしれない。
すると、カイエが姿を現した。
「いない。二人とも逃走した」
それを聞いていたのか、瓦礫の向こうから「最悪」と葵の声が聞こえた。
「早見さん、私たちで二人を追いかけます!」
「それしか選択肢はないわよね。せめて私がそっちにいればいいんだけど」
早見はそう言って隙間から自分の銃を渡してきた。あんじゅはそれを手に取るとスライドを後退させる。
「二人とも気をつけろよ、深追いはしなくていい」
京の言葉にあんじゅは小さく頷く。京が懸念している最悪の展開あんじゅはふと考えた。彼女に起きた出来事を再び京に見せるようなことは、避けたかった。
「無茶はしません、また戻ってきます。私のままで」
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