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First Step
15.Unreasonable
しおりを挟むなにもない。だが、何か引っ掛かかる。鵠美穂はこの部屋に踏みこんだ時から、それを感じていた。
吸血鬼疑惑を向けられた男の部屋には、怪しいものはなかった。変わっているものといえば、巨大な本棚が置いてあり、そこに収まっている書籍全てが、吸血鬼の擁護を主張するものばかりな点だ。その他、これといって異彩を放つものはない。
それでも、妙な感覚が美穂の心を這いずり回っていた。なにかを伝えようとしているものの、具体的にそれがなにかはわからない。この違和感はなんだろうか。美穂は部屋全体をもう一度見渡すが、発見できるものはなかった。
「あの、鵠さん」
あんじゅに呼び止められ、美穂は考えるのをやめる。あんじゅの方も特に収穫を得た様子ではなかった。
「なによ?」
「いえ、その……そろそろ出て行ってほしいって」
困り顔で言うあんじゅは、外にいる部屋の住人に視線を移した。家主の男は腕組みをして、眉をひそめこちらを睨みつけてくる。不機嫌なのは明白だった。
「ほらほら、なんもねえだろ。そろそろ帰ってくれよ」
しばらく居座る理由を考えたが思い浮かばず、仕方なく退散する。確かに、この部屋を調べようにも見て分かるとおりだ。植えついた違和感を思いこみだと言い聞かせ、美穂は部屋から出て行く。
「……お手数かけました」
「ふんっ」
鼻を鳴らして、男は扉を勢いよく閉める。訪問者を受けつけないように鍵をかけた。
男の姿が見えなくなると、美穂も露骨な嫌悪感を露わにする。
「少しは片付けなさいよ、ゴミ屋敷か」
「まあ、勘違いでしたね」
「そうね。あとあの通報してきた女のことは任せたわ」
「はい……え? 鵠さん!?」
「こういうのにも慣れときなさいよ。練習練習」
ライフルケースを担いで、階段を下りる。通報した女性の対応あんじゅに任せた。女性は相変わらず納得いかないという面持ちでアパートを指差していて、それをあんじゅが困り顔でなだめている。
いい気味、だなんてそんな加虐心はない。自身も通った道だ。面倒な一般人の応対は。
「もっとよく調べなさいよ! ああもう、私がおしかけてやろうかしら!」
「そ、それはダメです! 困ります!」
釈然としないのは美穂も同じだったが、あの女の言い分は思い込みや偏見といった戯言に近い。そうではなく、実際に部屋に踏みこんだからこそ抱く違和感が美穂にはあった。
アパートの外観を美穂は眺める。変哲のない木造の建造物、ベランダの広さや等間隔からして、普通よりはやや大きいアパートに見えるが。
「…………」
そういえば、と思い至り、美穂は再びアパートに向かう。
あの男の部屋には、クローゼットのスペースがなかった。大抵どのアパートにも備え付けられているものだ。大きめの物件ならば、尚更だろう。
二階に上がり、呼び鈴を鳴らす。男がもう一度部屋にあげてくれる可能性は低い。交渉するのも面倒なので、美穂は隣の部屋を訪れることにした。
「……はい?」
ジャージ姿のすっぴんの若い女が出てきた。美穂の呼び鈴で起こされたと言わんばかりに寝癖を立たせたまま、不機嫌に眼を細めてくる。
「すみません、部屋の間取りを見せてもらえますか?」
「は? なんなのよ……いきなり来て……」
「【彼岸花】の者です」
美穂は身分証を見せる。訪問者が吸血鬼対策の機関だとわかると、女の眠気がとたんに吹き飛んだ。
「ちょ……!? え!? わ、わたし、吸血鬼じゃないわよ!」
「それはわかります」
反応で区別はつく。とりあえず事情を説明して、女の許可をもらい、部屋に入りこんだ。
「部屋の間取りはどこも同じ?」
「え? ええ、確か管理会社の人はそう言ってました」
「本当に?」
「ほ、本当よ! わたし引っ越してきてまだ日が浅いから」
女はそう言って、物件の資料を突きつける。間を置くことなく取り出せたということは、日が浅いのも本当だろう。
間取りが同じ。だとすれば、このワンルームのアパートの全室には、大きなクローゼットがあるはずだ。だが、美穂が男の部屋を思い返してもそのスペースはなかった。代わりにあの男の部屋には、目立つほどバカでかい本棚が置かれていたが。
女の部屋の引き戸を開け、クローゼットの広さを確認する。収納室は、人間が入るには充分な広さがある。この時点で美穂の勘は八割の確信が持てた。
「どうも、失礼しました」
すぐさま女の部屋を出ると、美穂は再びあの男の部屋に出向く。呼び鈴を鳴らすと、しばらくして男が現れた。
「またあんたか、なんだよ?」
ドアチェーンをかけて、顔を半分ほど覗かせた状態で再び対面する。あからさまに鬱陶しそうにしているのが伝わってきた。
「忘れ物をしたので、入ってもいいですか?」
「忘れ物? ……なら、取ってくるよ」
詰めが甘かったか、と美穂は内心舌打ちする。押し問答をする気はないので、さっさと本題を伝えた。
「本棚の裏、押入れあるでしょ? 見せなさい」
途端に、男がドアを閉めようとした。寸前のところで足を挟み、美穂は閉扉するのを阻止する。二、三回強引に扉を閉めようとしたので足に激痛が走った。
「痛ったあ! あんた……!! ここ開けなさいよ!」
美穂の気迫に押され、男は後ずさり部屋の奥に消えた。
「ちょ……鵠さん!? なにしてるんですか!?」
異変を察知したあんじゅが、狼狽した面持ちで階段を上がってきた。
「あんた! 鍵っ! 大家から鍵貰ってきなさい!」
あんじゅに言うと、美穂は担いだライフルケースを投げ捨て、銃を取り出す。状況が一変も飲み込めないあんじゅはおろおろしながら、その場に立ち尽くす。
「おい! 開けろ! 開けないなら撃つわよ!?」
「え、えっと……」
銃を片手に、無理やり部屋に押し入ろうとするその姿は端から見たら、強盗にしか見えなかった。
「なにボサッとしてんのよ!」
「いや、あの……なにがなんだか……」
「いいから早く!」
すると、なにかが倒れる音がした。そうとう大きな物だったのか、アパート全体が小さく振動する。
美穂が隙間から部屋を覗くと、あの巨大な本棚が倒されていた。奥から男の叫び声の他に、女の泣く声が聞こえる。
部屋の角から怯えた表情の女の顔が見えた。さっき調べた時にはいなかった女だ。美穂と目が合うと、女は怯えて奥に引っ込む。
間もなく大家を引き連れたあんじゅがやってきた。鍵を開けさせ、中に踏みこむが、もぬけの殻だった。
「クソッ……!」
ベランダが開いて、カーテンが春風になびいている。窓から外を見てすぐさま逃走者の行方を確認するが、発見には至らなかった。
「『技術班』に位置連絡して、周辺のカメラの映像から男女二人の姿を割り出させて。男の特徴言えばいいから!」
あんじゅに命令すると、美穂は付け加える。
「上條じゃなくて、柴咲呼びなさいよ」
「は、はい」
混乱しつつも、すぐさまあんじゅは取り継ぐ。
一方で、美穂は本棚によって隠されていた薄暗い収納室を覗きこむ。ジメジメしてカビの臭いの他に、鉄の香りがする。だが金属製のものはなく、赤い液体の入ったペットボトルがいくつか転がっていた。赤色といっても、明度の高い色彩ではない。どす黒く禍々しさを感じさせる赤の色。中身の想像はつくものの、蓋を開けて臭いを嗅ぐ。
中身は、予想通り血液だ。中身の入ったいくつかのペットボトルも、嗅がなくてもそうだろう。
体重六十キロの人間は、約一.五リットルの血液が無くなれば死ぬ。ここに転がっているペットボトル一つにつき一人だとすれば、かなりの人数が犠牲になっているはずだ。
「ふざけんな……!」
美穂は空のペットボトルを掴むと、忿懣に肩を震わせる。
考えられるのは一つだ。血液の闇取引。吸血鬼たちを生かすために、人間を監禁し、血液を提供させる。出血死ギリギリのラインまで血を抜かれ、回復したらまた血を抜く。自由を奪われた人たちは、そんな家畜同然の扱いを死ぬまで受けさせられるのだ。彼らから搾り取った血を、表で吸血できない吸血鬼が高額で購入する。需要と供給が成り立つ、胸糞の悪い違法ビジネス。
あの男は、匿った吸血鬼に危険が及ばないように血液の取引に手を出したのだろう。自らが赴き、血縁を受け取る。こうすることで、捜査官たちからあの女の存在を悟られないようにした。奇しくも、持ち帰ろうとした血液が見つかり、予期せぬご近所トラブルによってその存在が暴かれたが。
「クソッ!」
怒りのあまり、美穂は柱を殴る。許せない。これ以上の犠牲者が出る前に始末してやる。今も吸血鬼に血を提供するためだけに生かされている人間がいるのだ。
吸血鬼も、匿っている人間も、これ以上好き勝手させてたまるものか。
○
『中央環状線の近くを通ったみたいだねぇ』
本部からの梨々香の声は、どこか浮遊感があった。呑気なように聞こえるが、それでも逃走した二人について詳細に報告してくれている。
「車で逃げてるんですか?」
助手席に座ったあんじゅは聞き返す。運転席の方には美穂が座り、険しい顔でハンドルを握っていた。
『ううん、徒歩だね。二人は隅田川の方面に逃げたよぉ。ゴールはぁ……河川敷かな』
「わかりました。柴咲さん、ありがとうございます」
『あいあい、まーた動きがあったら連絡するよぉ』
梨々香との連絡を、一旦終える。逃走する男女を追跡するのは容易だった。逃走者は街中の監視の目に気を配る余裕もなく、できる限り遠くに逃げようとしているだけだ。
「それで、ルートは?」
「はい、そのまま……左にっ!?」
今この瞬間、シートベルトをしてなければ、あんじゅはフロントガラスに頭を突っ込んで外に飛び出していただろう。
「そ、そんなに急がなくても……!」
「次は?」
「えっと、そこをまた左折で……」
進入しようとする車を無視して、美穂はゴリ押しで進む。相手の車にクラクションを鳴らされても気に止めることもなく、激しい運転でタイヤをすり減らす。
「鵠さん! これ【彼岸花】のロゴ入ってますから……!」
「だから?」
「す、スピード違反で捕まります!」
「心配しなくても、法定速度ギリギリだから大丈夫よ!」
追跡当初から美穂の運転は荒かった。相手は徒歩でこちらは車で見失う心配はほとんどない。それでも美穂はスピードを上げて、彼らを追跡していた。
「く、鵠さん! スピード落としてください! 向こうは逃げ切ることはできませんから」
「黙って」
街中の無数の監視カメラに巡回ドローン、それに衛星からの追跡。素人同然の吸血鬼が、それらの目を全て避けて逃げることなど不可能だ。ましてや、人間が寄り添っているなら、なおのこと目立つ。
それでも、美穂が追跡の手を緩めることはなかった。アクセルを踏み込み、対象との距離を縮めていく。あんじゅが道案内をしても、一切の反応を示すことはなかった。美穂はまるで冷徹な殺し屋のような、鋭い目つきをしていた。
「次どこ?」
「え、えっと……五十メートル先にいます」
あんじゅがそう言うと、美穂はアクセルを踏み潰す勢いで押し込んだ。
車を進めた先に、見えてきた。汚れた服を着た女と、彼女に肩を貸している男。後ろ姿からして、男は先ほどの人物で間違いないだろう。女の方は、飛び降りた際に着地所が悪かったのか、片足を引きずっていた。あの状態なら、逃げ切るのは不可能だ。
美穂は車を路肩に止めると、すぐさま降りた。足早に標的に向かう美穂をあんじゅは追いかける。
「く、鵠さん!」
『あんじゅちゃーん、どう?見つかったぁ?』
「あっ、はい、いました!」
不意に梨々香からの確認の連絡が届く。
「これから拘束するので、収容所が空いていれば確保の方をお願いします」
『おっけ。空いてるから、大丈夫だよぉ』
「わかりました、ありがとうございます」
あんじゅが言い終えた直後、乾いた大きな音が轟いた。音のした方に向くと、女が倒れていた。美穂が銃を構えていて、その銃口から硝煙が立ち上っているのも見えた。
「鵠さん!」
あんじゅは車から降りて美穂の元に駆けつけた。
警告なく撃ったのは明らかだ。それでも抵抗された形跡はない。女は肩を押さえて、苦悶の表情でうずくまっていた、
美穂が再び照準を合わせようとすると、男が庇うように覆い被さる。
「邪魔よ!」
「やめて……頼むからやめてくれ!」
男が哀願するものの、美穂は銃を下ろそうとはしなかった。
「なに庇ってるの? 重罪よあんた。吸血鬼を匿っておいて、何年ブチ込まれるかわかってんの?」
「頼む……殺さないでくれ……」
「うるさい」
吐き捨てるように言うと、美穂は男女に近づいた。
「仕方なかったんだ……吸血鬼にされて……」
「だったら、その場で通報すればよかったでしょ!」
「そんなの……収容所が空いてないと殺されるんだろ!? 通報なんかしても、助かる保証なんてないじゃないか!!」
「それでも、他の人間を襲わなくて済むでしょ」
「頼むからやめてくれ!」
「できないなら、わたしがやる。それが仕事よ」
美穂の切り捨てる物言いに、説得ができないと判断したのか、男は泣きじゃくり吸血鬼の女をかき抱く。吸血鬼の女の方も、抵抗する意思はない。吸血衝動もなく、ただ怯えていた。
「鵠さん、収容所は空いてます」
対象の二人は、もはや脅威ではない。それはあんじゅと美穂にも、そして騒ぎを聞きつけて集まった野次馬たちの目にもだった。
吸血鬼の女も、一緒にいた男も、逃走を強行する様子はない。だからこそ、あんじゅは美穂に銃を下ろしてほしかった。これ以上の行動は、正義とはかけ離れた行いになる。
「もし彼女が暴れるなら、人工血液の摂取を……」
「それは絶対的な規定じゃないわ。人工血液を渡して落ち着かせるのは、捜査官の善意みたいなものよ」
美穂はあんじゅの言葉を潰すような強い物言いで返す。吸血鬼を落ち着かせるために必要な人工血液は、美穂も所持している。だが、美穂本人はそれを差し出す気は毛頭ない。吸血鬼が暴れるなら、それでいい。引き金を引く正当性は濃くなる。
美穂はペットボトルを男に投げつけた。残っていた血が、中で時化のように暴れて揺れる。それは、男が匿たあの部屋に置かれてあったものだった。
「これ……あんたが違法な売買で手に入れた血液でしょ? あんたはその血が、どうやって手元に来たか知ってるの?」
美穂は男に訊いた。吸血鬼を庇う男は、美穂を見上げたまま、かぶりを振る。
「その血はね、吸血鬼にさらわれた人や、吸血鬼に売られた人間の血よ」
美穂は淡々と静かに、強い口調で語る。
「さらわれたり親に売られるとね、まずは服を全て脱がされるの。そして暗くて臭い大部屋に入れられて、拘束されたまま背中にいくつもの管を突き刺される。両手は天井の鎖に繋がれて、腕はずっと天に向けられたまま。足枷も付けられるわ。それが痛かろうと、苦しかろうと、絶対に外してはくれない。周りを見渡せば、同じ格好をした人間が何人もいる。男も女も、まだランドセルを背負ったことすらないくらいの年齢の子どもも」
美穂は投げつけたペットボトルを拾う。中に入ってる血を見るその目は、まるで懐かしいものを見るかのようだった。
「背中にぶっ刺された管から毎日毎日、血を取られていく。吸い取られる時の激痛で、部屋中に悲鳴が響き渡るの。漏らす人もいれば、気絶する人も、死ぬ人もいる。死んでもね、死体はそのまま。ハエとウジがわいて、腐敗臭がして、骨が見えてきてから、ようやく処分される」
それが創作や想像で語られる口調ではないことに、あんじゅは気がついた。口にしている重たい内容はもしかしたら美穂が体験した、見てきたことなのではないだろうか。
「与えられる食べ物は、犬の餌の方がマシなゴミ同然のレベル。食事もできないくらい弱った人は、どこかに連れて行かれる。その次の日の食事には、肉が出てくるのよ」
男と吸血鬼の女は、黙って美穂の話に耳を傾けていた。向けられる銃の恐怖よりも、その凄惨な内容に怯えているように見えた。
あんじゅは美穂の傍まで駆け寄る。美穂の表情には退廃的な悲しみと怒りが張り付いていた。それは決して塗り替えることのできないもののように見えた。
「鵠さん、収容所は空いてます」
あんじゅは再び同じことを口にする。傍にやってきたあんじゅに気がついた美穂は、顔を向けた。気に食わない選択肢を持ちかけられたことに、内心で怒っているように見えた。
それでも、あんじゅは目で訴える。引き金を引く意味はない、と。
「ごめんなさい……」
女の声が聞こえた。美穂が振り返ると、吸血鬼の女が立ち上がった。
「撃って……ください……」
覚悟を決めた面持ちで吸血鬼が美穂に言った。その言葉に従うように美穂が銃を吸血鬼に向ける。
「よせ……よせって!」
男が静止しようとする。だが、吸血鬼はかぶりを振った。
「こうなったのは、わたしが悪いの……可哀想だと思って、吸血鬼を助けたから、だから自業自得だよ。血を飲む前に……こうなる前に自分で死ねばよかった。そうすれば……こんなことにならなかったの」
涙声で吸血鬼はそう語る。
彼女はきっと吸血鬼に手を差し伸べていたのだろう。血を求め、迫害に苦しむ存在を理解しようとした。だが、不運にも彼女は同じように吸血鬼化してしまった。そして、同じように血を欲するようになった。それは、他者を傷つけない限りは満たされない欲求。
「撃って、ください」
覚悟を決めた吸血鬼が目を瞑る。美穂は、その頭に狙いを定めた。絶対に外すことのない距離だ。
「鵠さん」
「黙りなさい」
「でも、無駄な殺生は……」
「黙れって言ったでしょ」
しばらくの間、時間だけが過ぎる。
美穂は銃を下ろし、腰のホルスターにしまった。そして吸血鬼用の手錠をあんじゅに投げつけた。不意の出来事だったので、あんじゅはキャッチすることができなかった。
「あんたがかけなさいよ、霧峰あんじゅ」
美穂はそう呟くと、集まっていた野次馬を退かせる。八つ当たりするような荒々しい口調で。撮影していた人間からスマホを取り上げて、捜査官権限で消去をさせていた。その姿は、誰かれ構わず噛みつく狂犬のように見えた。
あんじゅは手錠を拾い上げ、吸血鬼の元へ足を運ぶ。吸血鬼は抵抗することなく、大きな金属の枷を受け入れた。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
「大丈夫、ですよ」
「うああ……ああ……!」
うずくまり、女性の吸血鬼は泣きじゃくる。他者を傷つけ、自らの欲を満たしてまで生きたことを突きつけられた彼女は、それに対する罪を何度も謝罪していた。男の方も泣きながら、吸血鬼の背中を撫でる。
あんじゅは、そんな二人を黙って見ていた。見ていることしかできない。二人の間に干渉することなど、自分には許されないと感じていた。捜査官である立場が心にブレーキをかける。
あんじゅは、初めて美穂から名前を呼ばれた気がした。その呼び方は親しさを込めたものではなく、いつもみたいに虫の好かない口調でもなかった。
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