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41.愛と狂気、優しさと嘘
しおりを挟む助けるためなら、なんだってする。それが家族だ。
その言葉が口から出てきた瞬間に、透はあの父親を殴ると決めた。
それが許されることではない。身勝手な行いなことは、自分がよくわかっていた。
そう、何もかもがただの身勝手な自己満足なんだ。
透の母は幼い頃に亡くなった。病気で、治療費さえあれば助かっていたことを、透は後から知った。
愛した人を救えなかった無力さからか、父は勤めていた仕事を変えて、馬車馬のように働いた。金銭に取り憑かれた亡者を思わせたが、代わりに生活には何一つ不自由しなかった。
土日も祝日もお盆も正月も、父は働き続けた。仕事を家に持ち帰り、夜遅くまでキーボードを叩いている姿は透の目に自然と焼きついた。
人生の何もかもを売り切った父は、小遣いとしては充分すぎるほどのお金を、透に渡してきた。まるで母親の居ない透の空白を埋めるように。
父がそのような行動に移る理由を透は子どもながらに理解していた。母親を助けれなかったその理由も知っていたから、父が働くその姿勢を無下にはできなかった。だから、せめて寂しがらないようにした。好きな物を買い、喜び、父の思いに応えた。
だって、家族のために、透のために、頑張っているのだから。
そして、家族のために、父は死んだ。
過労死。
時折ニュースで見るそのワードを透は他人事だとは思わなかった。亡くなる直前の父は、まるで死人のような土気色をしていた。
そんな父の姿を見ても、やめてくれ、とは言えなかった。
言えば、今まで積み上げてきた父の城を一気に壊してしまうように思えたから。壊れたら、壊してしまったら、果たして父がどうなるのか、それが怖くて透は何も言わなかった。
帰路に着く途中で、父は倒れ、透が病院に着くまでの間に息を引き取った。
意外にも、透は涙を流さなかった。物言わぬ父と対面した時も、どこか腑に落ちた思いで遺体を見つめていた。
何もかもから解放された父を見て、透は心のどこかで安堵していた。自分のために人生を投げ出したのに、こんな薄情な思いを抱くことは不謹慎なのかもしれない。そう思いながらも、自分の中に住む二人の感情が葛藤することはなかった。
○
父の葬式からしばらくして、住んでいた家に会社の人間たちがやってきた。切迫したその様子と、余裕の感じられないその佇まいは、どこか父の姿を思わせた。
「お父さんの荷物はあるかい?」
困り果てた顔でそう訊かれたので、透は彼らを家に招いた。
父はどうやら仕事を家に持ち帰っていたらしく、そのデータを渡してほしいと、訴えてきた。
葬儀にすら来なかった彼らが欲しかったのは、一台のパソコン。そして、その中身が必要なのだ、と。
社運が、人生がかかってるとその目で訴えてきた。
パソコンを開くためのPINコード──四桁の数字を彼らは訊いてきた。家族の誕生日や、記念日、何か大切にしている数字はないか、と血まなこになって問い詰めてくる。
取り憑かれたように、彼らは透の肩を揺さぶった。いや、本当に何かが取り憑いていたのだろう。でなければ、
「なんで……父さんの葬式に来なかったの?」
透はそう訊いた。純粋な、疑問だった。
父が生前に言っていたことがあった。
会社の人たちは仲間でみんな良い人だと。自分のことを重荷だと感じることのあった透には、父の語るその言葉が救いだった。帰りがどれだけ遅く、身体が疲れ果てていても、一緒にいる人たちが信頼できる仲間だと言うのなら、まだ救いはあるんじゃないかと。
そう信じていた。
「葬式って……そんな暇あるかよ」
一言。たったその一言で、透の中のなにかが音を立てて崩れた。自分だけが世界から切り離されたような感覚に陥った。
その間も金がどうのこうの、時間がないだの、彼らは詰問し続けた。
どれくらい時間が経っただろうか。
透が気がつくと、買い物から帰ってきた沙織叔母さんが、父の同僚だった男を殴っていた。声を張り上げて、何か言葉を浴びせた。何を言ったかはわからないが、震える声で「帰れ」とだけは透の耳に聞こえた。彼らは怯えながら、それでいて不服そうに、家から出て行った。
日を経ずして、父が務めていた会社は倒産した。
父の勤めていた会社はとっくに死んでたんだ、と透は理解した。
死んでいたのに、それを無理矢理生き長らせていたのが父だった。会社のために、同僚のために、息子のために、自分の命を投げ捨てた。人生を投げ捨てた。
生き長らえるべきじゃないんだ。死にかけてるなら、早く倒産してしまえばいい。人も組織も、死にかけてさまよってるくらいなら、終わらせるべきなのだ。
何もかもツケを払うのは、生きた人間なのだから。
○
透は、下でうごめく死者の群れを、蟻を観察するように眺めていた。彼らは、生き長らえている、死んでいて、腐っているのに、それでも中途半端に生きている。死んでいるのに、生きているみたいに腹を空かせて肉を食らう。そして、仲間を増やしていく。
みんな死んでしまえばいいい、と透は思った。誰かが空から爆弾を降らせて、あるいは腐った死体たちを残らず吹き飛ばせる兵器のスイッチを手に入れて、それを押すか。
透は手の甲を見る。殴った拳は痛みは引いていたが、皮膚が少しめくれていた。自分が思ったよりも、強い力で殴ったようだ。
「橘くん」
後ろからの真穂の声に、透は振り返った。真穂は屈託のない、いつも通りの笑顔を見せていた。
「なんだよ?」
真穂は包帯と消毒液を見せてきた。
「それ……橘くんの拳も、手当てしましょう」
「いらねえよ」
「ダメです。ばい菌入ってゾンビになったらどうするんですか?」
「噛まれないと感染しねえって」
「いいから、出してください。いうこと聞かないと、あのお父さんみたいに魔法使って拘束しますよ」
真穂に強引に手を掴まれたので、透は観念して治療を受けることにした。言い出すとなんだかんだ聞かないことを、知っていたから。
消毒液が、傷口に刺すような痛みを与えてきた。どこか懐かしいアルコールの匂いが、鼻に入ってくる。
包帯を巻いていた真穂の手が、不意に止まった。
「痛かったですか?」
「別に」
「嘘ですね。絶対に痛かったはずですよ」
「なんでわかるんだよ」
真穂は透の顔を見た。
「だって、橘くんが意味もなく誰かを殴るような人じゃないってこと、わたしは知ってますから」
真穂はそう言って、再び包帯を巻く。
「もう、あんなことしちゃダメですよ」
その口調は、まるで子どもを叱る親のように、優しく柔らかく、温かかった。
「もし、また誰かを殴りたくなるほど辛かったら、わたしに話してください。ロクなアドバイスはできないかもしれないけど、わたしは橘くんの味方ですから」
「あっ、そ……」
透は真穂から顔をそらした。気恥ずかしさと、胸の奥から込み上げてくる感情から逃げるように。
手当てを受けながら、透はふと疑問に思った。
「……なあ、真穂」
「なんでしょうか?」
「魔法で怪我治した方が効率よくね?」
「わたし、治癒魔法使えないので」
「マジで?」
「マジです。橘くんと過ごした一年間で、一度も使ってませんよわたし」
透は思い返してみたが、たしかに真穂から治癒魔法をかけられたことはなかった。死と隣り合わせの世界で、たいした怪我なく生きてこれたことは奇跡だった。
「水といい、なんで必要な魔法ばかり使えないんだよ……痛っ!?」
「おやおや、手が滑りました」
包帯をきつく締めた真穂はわざとらしく、笑った。
「はい、終わりです」
「……ありがとよ」
自分の手に丁寧に巻かれた包帯を透は見た。自分相手にそこまでする必要なんてないのに、そう思いつつもその気遣いは正直嬉しかった。
「真穂」
「はい?」
「おまえ、沙織さんから俺のこと何か訊いただろ」
透がそう切り出すと、真穂の表情はわかりやすく変わった。テストで赤点を取ったことを親に知られた子どもみたいに、気まずそうになっている。
「どこまで訊いた?」
「えっと……い、いえ! な、なにも」
「なにビビってんだよ、別に怒らねえよ」
「……橘くんのお父さんのこと」
真穂は静かにゆっくりと語る。
父の働き方やその死のこと。葬儀の後に同僚だった人たちがやってきて、なにをしたのかも。
そして、父の関わっていた犯罪を調べるために警察がやってきたことも。
「橘くんのお父さんが、不正にお金を動かしたりして、会社の利益を増やしていたことも。会社以外のところで、犯罪まがいのことをして収入を得ていたことも、聞きました」
父がなにをやっていたのか、詳しいことは透にはわからなかった。ただ、加害者と被害者の構図ができていて、不幸になった人がいることを知った。父の犯した罪が、詐欺なのか、不正な取引を行ったのか、それとも人に言えないレベルのことをしたのか、今じゃ詳しいことはなにもわからない。
ただ、父が働いてたときの顔は思い出せる。透のため、家族のために、働いている。その表情には一片の曇りもなかった。
その愛の裏の狂気には、透はずっと気がつけなかった。
「それで、他にはなにか訊いたか?」
「え? いえ……まだ何かあるんですか?」
「自分の部下を追い詰めて、自殺未遂に追い込んだ……ってことは?」
真穂はなにも言わずに、静かに目を見開く。
「その部下だった人の子どもが、たまたま俺と同じクラスメイトで、それを知った周りのやつらが距離を置いてきたってことも訊いたのか?」
「え? あの……橘くん……」
なにかを言おうと、絞り出した真穂の声は枯れていた。だが、そこから続く言葉はない。透の語る内容にショックを受けながらも、かける言葉を探してるように見えた。
「……嘘だよ」
「へ?」
「そんなに世界が狭いわけねえだろ、アホか」
「え? う、そ……?」
「おまえ本当にお人好しだよな、騙すのが楽だわ」
透のからかうような物言いに、真穂は困惑顔から次第に眉をひそめて不機嫌な表情へと変わった。
「橘くん……性格悪っ! 最低ですね! わたしすっかり信じたんですけど!?」
「これで人を疑うこと覚えたな」
「むう……! もういいですぅ! せっかく慰めようと思ったわたしがバカでした! 包帯巻き損です! 橘くんなんて、壁に思いっきり足の小指ぶつければいいんです! ふん!」
真穂は、思いつく限りの罵倒を口にすると、舌を出して透の前から立ち去った。
残された透は、再び屋上から外の景色を眺める。
「嘘だよ」
眼下でうごめく死人たちを見下ろしながら、先程と同じ言葉を透は繰り返した。
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